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ダンポポの種

備忘録です

大和西大寺での ひとこま

2020年09月14日 22時18分00秒 | 近鉄特急
大和西大寺駅にて、近鉄特急12200系の編成。




橿原線・京都線1318列車。(橿原神宮前13時00分発→京都13時56分着の特急)
大和西大寺は13時25分発です。

この電車みたいな、オレンジ色と紺色のツートンが、今まで近鉄特急のカラーでした。
でも、この車体塗装は、今後、12200系が引退したら見られなくなります

大和西大寺駅でも、毎日、当たり前に目にすることができた光景ですが…、
見納めの日は遠くありません-。

   ◇          ◇          ◇

「え? 近鉄特急って、電車の色が変わったんだっけ?」

「今ごろ、何を言ってるんだ もう、とっくに塗装変更されている

「そうだったか…



↑再掲。見づらい画像ですが。
 近鉄特急の新塗装(左)と旧塗装(右)です。
 いま、近鉄特急のカラー(新塗装)は、オレンジ&ホワイトの印象です。

近鉄の特急車両のうち、12200系の編成だけは新塗装への変更が行われませんでした。
その時点ですでに、引退の時期が〝見えていたから〟だと、されています。
今年度じゅうに12200系は全て引退するので、旧塗装(昔の近鉄特急カラー)はまもなく見納め!

出先で、偶然でも、オレンジ色と紺色の近鉄特急(12200系)を見かけたら…
極力、写しておくように努めよう

私も、励みたいと思います。来春まで。

   ◇          ◇          ◇

「上のやつ…、大和西大寺駅の画像は、きょう写したのか?」
「そうやで!
「西大寺へ、何しにいったの?」
「いや 俺も、ふと気が付いたら西大寺駅のホー…」
「また、散歩だろう
「はい、そうです」



思いがけず、初乗り!?

2020年09月08日 22時31分20秒 | 近鉄特急


きょう、近鉄特急「ひのとり」に乗りました。

「思いがけず、<ひのとり>初乗りを果たしました
「名古屋まで行ってきたの?」
「いや、行ってない」
「ほな、どこで乗ったんや
   ◇     ◇     ◇
「大和八木→鶴橋間で乗った」
「なんで、その区間やねん


きょうは、昼前に出発して、大阪上本町まで近鉄電車に乗って出かけました。

私の場合、近鉄で大阪へ向かうには、大和西大寺から奈良線で大阪方面を目指すのが通常ルートですが、きょうは久しぶりの〝電車で大阪行き〟だったので、遠回り乗車を楽しんでみました。
大和西大寺から橿原線で大和八木へ行き、大阪線回りで上本町を目指しました。

「なんで、そんな遠回りするの?」
という質問に対しては答えようが無いな…。テツだもの(
遠回りでも目的地の上本町へ着けるのだから、時間が許すのならば、何ら問題は無いです。



↑大和八木に入線する「ひのとり60列車」。
 大和八木11時38分発の大阪難波ゆき特急です。(名古屋を10時00分に発車してきた名阪甲)
 午前中の大阪難波ゆき名阪甲特急は、この列車まで、大和八木に停車します。 
 『近鉄時刻表(2020年)』では、60列車は<アーバンライナー>での運行と記載されていますが、
 すでに「ひのとり」に置き換えられているんやね。
 今年度のうちに、名阪甲特急はすべて「ひのとり」車両で運行されるようになります。



↑特急券・特別車両券。
 「ひのとり」では、普通運賃+特急料金に加えて、ひのとり特別車両料金が必要です。
 レギュラー車両についても、ひのとり特別車両料金が必要です。
 大和八木~大阪上本町間:運賃+特急料金520円+ひのとり特別車両料金(レギュラー)100円。



↑レギュラー車両の座席。ほかに、プレミアム車両も連結されています。



↑バック・シェル!
 座席の背もたれ後方が〝フレーム〟で囲われている構造です。
 これが、バック・シェル
 後席の人を気にせずに、おりゃっ!と 背もたれを倒すことができる座席構造です。

コロコロ付きの大型旅行ケースを、座席にすわった自分のヒザの前に置く人も、いるものな。
その場合、旅行ケースに遮られて前席の乗客がリクライニングをさせられなくなることもあった。
バック・シェルならば、そういう心配もありません。



↑五位堂の車庫を見ながら、すいすいと走っていきます。
 ビスタカーの中間車だけ留置されていました。
 遠くに見える山は、二上山でしょうか。



↑プレミアム車両の連結部寄りにある、カフェ・スポット。(レギュラー席の乗客も利用できます)
 自動販売機コーナーです。ひきたてレギュラーコーヒーやお菓子などを販売。
 「ひのとり」では係員による車内販売はありません。
 コーヒー、買っても良かったんだけど…、きょうは乗車時間短いから、施設見学のみで。



↑「抗ウイルス加工」と「抗菌加工」の対策済みステッカー。
 近鉄では、特急車両・一般車両のすべてに、この対策を実施済みです。
 いま、京都線の電車内でも、近鉄全車両に対策が完了している旨、車内放送が流れます。





↑バック・シェルにテーブルが付いています。
 前席がリクライニングしてきても、こちらがテーブルに置いた物に支障する心配はない。



↑テーブルのほか、足元にはフットレストが付いています。
 また、わりと下のほうですが、ドリンクホルダーと、ネット式の収納ポケットも付いています。



↑高架区間に入ると、遠くに「あべのハルカス」も見えました。
 ずば抜けて高層建築なので、遠くからでも見えるのです、ハルカスは。



↑布施付近にて。奈良線の電車を写してみました。
 復刻塗装(赤色<マルーンレッド>)の8400系ですね。たまたま。



↑大和八木の次の停車駅が、鶴橋。
 特急券は大阪上本町まで買ったけれど、私は鶴橋で「ひのとり」を降りました。
 またの機会に、名阪間を〝通し〟で乗ってみたいと思います。
 「ひのとり」について感想などは、その機会のブログ投稿で



↑鶴橋で大阪線(上本町ゆき)の電車に乗り換えて、大阪上本町駅「地上ホーム」下車。

「上本町へ、何をしに行ったの?」
「散歩ウォーキング
「またか
「後日に報告します」



2両特急

2018年07月03日 19時21分00秒 | 近鉄特急

7月に入りました。
京都南部も、毎日蒸し暑いです。
近畿地方の梅雨明けは、まだ、です。


◎近鉄特急の画像

↑きょう撮影しました。
 当ブログではお馴染み(?)の地点ですが、新田辺~興戸間のカーブにて。(ブログ内呼称:新田辺カーブ)

2両編成の特急列車です。(画像の列車は、京都発→奈良ゆき。1507列車)
このあいだから、私も、ようやく、うすうす、気付いていたのだけれど…、昼間の京都線で「2両編成の特急」を見かけることがある、のです。
今年春のダイヤ変更を機に、そういう動きが出てきたのかな?
乗客の利用状況に応じて 連結車両を調節している-、ということなのでしょうねぇ。 きっと。

京都線の特急列車がすべて2両編成で運行されているのではありません。
現行、昼間も、京都線特急の大半は 従来通りの4両~6両編成で運行されています。
そのなかに「2連」の編成が混じって運用されているみたい。(京都-奈良間の特急に運用されているようです)



この塗装色は、いずれ見納めに(?)

2015年11月15日 21時48分50秒 | 近鉄特急


今後、近鉄特急が〝イメージ・チェンジ〟するらしい
おなじみの、オレンジと紺色のツートン・カラーをやめて、新しいデザイン(車体塗装)に生まれ変わるそう。
見た目の印象だけでなく、これからの近鉄特急の在り方について 同社内でよくよく検討されたうえで、特急サービスの向上が目指されるみたい。
11月12日付にて、近鉄電車のホームページに情報が出ています。

この話題については、また後日、当ブログでも取り上げたいと思います。

◇          ◇          ◇

明日から、青年部会の「おはなし会」本番が始まるので、そちらに気持ち集中して、頑張りたいと思います。




きょうは写しただけ…

2013年10月06日 18時58分55秒 | 近鉄特急
特急色に戻された 18400系 を見た


↑今朝9時34分ごろ、近鉄京都線の宮津~狛田間で撮影。18400系2両編成が賢島を目指して通り過ぎていきました。
 (なんで、こっちサイドから撮るんだ~ 車体側面が陰ですなー

本日運転された、『懐かしの18400系、特急色復刻塗装・京伊復活運転!』の団体貸し切り列車(ツアー)です。
事前に申し込みをした人だけが乗れる、という列車ですね。
私は、ツアーの参加募集があったことにさえ気付いていなかったという…。(←それでも、近鉄沿線に暮らす鉄道ファンかって
そんなわけで、今日は、線路沿いから18400系を写してみただけ~

来月11月にも、18400系を用いた団体貸し切り(イベント列車)が予定されているようです。
私もスケジュールが合えば、最後にいっぺん乗っておこうか…と思うねんけれど、実際、ちょっと日程が合いそうにない感じ



ビスタカーⅢ世 (昭和53年)

2008年11月23日 20時58分49秒 | 近鉄特急
『ビスタカーⅢ世』(三代目ビスタカー)

車両系式:30000系
登場初年:昭和53年(1978年)
製造両数:60両(4連×15本)
※昭和54年「ブルーリボン賞」受賞車両(近鉄第5号)
※平成8年(1996年)以降、車両更新により全編成が『ビスタEX』に改造された。



↑30000系ビスタカー。ビスタEXになる前の姿です。1988年か89年に撮影。京都線の木津川鉄橋にて。



↑これも、ビスタEXに改造される前の30000系。
 同じく1989年ごろに撮影したもの…だと記憶しています。今里駅にて。
 名古屋ゆきノンストップに運用されているところです。



 昭和34年に登場した10100系「新ビスタカー」は、近鉄特急のシンボルとして約20年間にわたって活躍を続けたのち、全ての車両が引退していきました。同世代に当たる10400系や11400系の「エースカー」系列は車両更新を受けてその後も活躍を続けましたから、10100系は引き際が良すぎた感じもします。

◇        ◇        ◇

 10100系の引退を受けて、昭和53年(1978年)に30000系「ビスタカーⅢ世」が登場しました。初代10000系から二代目10100系へ受け継がれてきた〝二階建ての近鉄特急〟という流れを継承した、三代目ビスタカーです。
 先代ビスタカーの10100系は3両編成で1単位でしたが、30000系は4両編成で1単位を成し、中間の2両が二階建てという迫力のある編成になりました。乗客に人気のあった「階上席(二階席)」の座席数を十分確保できるように設計が工夫されたのが特徴です。

 先代の10100系は「名阪特急」での運用を目的として造られましたが、その後、東海道新幹線の開業があって、近鉄特急を取り巻く環境は大きく変化しました。
 そうした事情を踏まえ、30000系は「伊勢志摩方面への特急」(観光輸送)を主たる用途として開発・製造されたそうです。
 二階建て車両を2両連結して階上席の定員を十分に確保した構造は、観光輸送をメインに据えた30000系ならではの持ち味と言えますし、10100系をリニューアルすることなくパッと30000系に置き換えた背景には、そうした経営上の判断があったのだろうと思われます。

 30000系「ビスタカーⅢ世」は、デビューした翌年(昭和54年)にブルーリボン賞を受けました。前年に12400系(サニーカー)で受賞したのに続いて、近鉄電車としては2年連続5度目の受賞となりました。

 二階建てを組み込んだ30000系には、当然ながら『ビスタカー』の愛称が付与されたわけですが、〝新型〟の意味を込めた「新ビスタカー」という呼び名はすでに10100系で使用済みなので、30000系については「ビスタカーⅢ世」と呼ぶのが一般的です。

◇      ◇      ◇

 月日が経つのは早いもので、今年(2008年)は30000系のデビュー30周年に当たります。
 現在も30000系は元気に活躍を続けています。
 
 平成8年(1996年)から30000系の車体更新が進められて、二階建て車両を中心に外装・内装の大規模なリニューアルが行われました。これを機に、車両愛称も「ビスタEX」(びすた・えっくす)に改められました。現在、30000系は全ての車両が「ビスタEX」化されており、デビュー当時の原型スタイルで走っている30000系は存在しません。


 私も今までに、30000系には何度となく乗車しています。

 初めて乗ったのは20年以上前のことになりますが、中学1年生の冬でした。時刻表でちゃんと調べて行って、〝ビスタ狙い〟で大和西大寺~鳥羽間をひとりで往復したものです。行きも帰りも「2階席・窓側」の指名買いで…。
 真冬の鳥羽へ行ったわけですが、行きも帰りも車内は込んでいて、満席に近い状況だったと記憶しています。外は寒いのに2階席の客室は妙に暖かかった…ように覚えています。
 
 中学を卒業した春休みには、同級生のドラ(ニックネームです)と伊勢志摩へ旅行し、宇治山田→賢島間で30000系の「階下席(1階席)」に陣取った思い出があります。
 
 また、高校時代の夏休み、「遊レールパス」(近鉄全線乗り放題の切符)で乗りまくったとき、賢島発→京都ゆきの最長距離特急(所要時間は3時間ちょうど)に全区間乗車したのですが、このときの車両も30000系でした。
 このときは二階建て車両ではなく、先頭の普通床(平床)の車両に乗りました。
「二階建てもいいけど、普通床のほうが天井も高いし、ゆったりしている気がするな…」
とか、生意気(?)なことを考えるようになった頃でした。
 特急券を買うとき、先頭車両の座席が取れるように「禁煙席」を注文したのを覚えています。(当時は、先頭の1号車が禁煙車で、ほかの車両は喫煙車でした。現在は、その逆になっています)

 昨年の夏は、吉野まで往復したときに、橿原神宮前→大和西大寺間で短距離乗車しました。このブログにも書いております。



↑ビスタEXになった30000系。新祝園付近にて。



↑ビスタEX。橿原神宮前駅にて、平成19年(2007年)8月撮影。再掲です。


〔画像追加〕

↑ビスタEX。近鉄奈良駅にて。(2009年2月撮影)



↑ビスタEX。車体に描かれている、パルケのキャラクター・イラスト。(2009年2月、東花園駅にて。回送にて同駅停車中のところを撮影)



↑新大宮駅にて。奈良発→難波ゆきに使用中のビスタEX。2009年2月28日(土)撮影。



↑大和西大寺駅にて。京都発→橿原神宮前ゆきのビスタEX。
 「吉野連絡」のミニ・プレート付き。



↑平成21年(2009年)6月、新田辺~興戸間にて撮影。



↑平成21年(2009年)8月3日、大和西大寺~新大宮間にて撮影。平城宮跡を行くビスタEX。



↑平成21年(2009年)8月3日、大和西大寺~新大宮間にて撮影。



↑平成21年(2009年)11月3日、大和西大寺駅にて。



↑平成21年(2009年)11月3日、大和西大寺駅にて。



↑平成22年(2010年)1月11日(月曜祝日)、新田辺~興戸間にて。



↑平成22年(2010年)1月11日(月曜祝日)、新田辺~興戸間にて。



↑平成22年(2010年)1月14日(木)、新田辺~興戸間にて。



↑平成22年2月13日(土)、菖蒲池駅にて。昼間の奈良線特急に運用中。



↑平成22年2月13日(土)、大和八木駅⑥番ホームにて。橿原神宮前始発→京都ゆき。



↑平成22年(2010年)2月28日(日)、松阪駅にて。
 前日に発生したチリ大地震による津波警報の影響で、この日は鳥羽線の一部と志摩線が急遽運休になりました。
 鳥羽・賢島方面への特急列車も「五十鈴川ゆき」として運行された一日でした。



↑先頭車両(普通床)の客室内。平成22年(2010年)6月22日(火)撮影。



↑京都ゆき。平成22年(2010年)10月6日(水)撮影。新田辺~興戸間にて。



↑平成24年3月24日(土)。丹波橋にて、対向の急行電車と顔を揃える。
 京都→橿原神宮前ゆき(吉野連絡)に運用中のビスタEX。
 この画像では大変見づらいけれど、行き先表示は電光式に改造されている。二行表示で、「橿原神宮前」「吉野連絡」と表示。



↑平成24年3月24日(土)、上の画像と同じ列車。
 丹波橋を発車していくところを後打ち。
 後寄りに22000系2両を従えて、ここから先、大和西大寺まではノンストップで走る。



↑平成26年4月27日(日)。
 名阪乙運用で、大和八木に停車しているところ。



↑平成26年4月27日(日)、鳥羽にて。
 阪伊乙、大阪上本町→鳥羽ゆき運用。 終点・鳥羽へ到着するところを写しました。



↑平成27年10月31日(土)、京都にて。



↑平成28年1月8日(金)、五十鈴川にて。 2250系復刻塗装の5200系と並ぶ。
 阪伊乙、大阪上本町→鳥羽ゆきに運用中。(宇治山田~鳥羽間、延長運転)



↑同上。



↑同上。



↑平成28年1月8日(金)、鳥羽にて。
 名伊乙、賢島ゆきに運用中のビスタEXが到着するところ。



↑同上。
 続行してくる大阪上本町からの特急列車と接続をとるため、ビスタEXは3分ほど鳥羽に停車。



↑同上。
 ホーム向かいに、鳥羽終着となる阪伊乙特急(大阪上本町からの列車)が入りました。
 阪伊乙からの乗り継ぎ客を引き受けて、ビスタEXは賢島へと向かいます。



↑平成29年3月2日(木)、京都線の木津川鉄橋にて。
 ちょっと小さく写しすぎたな  京都発、橿原神宮前ゆき。



↑平成29年(2017年)9月27日(水)、京都にて。新しい塗装。



↑同上。 二階建て車両。新しい塗装。



↑同上。 この特急列車に実際に乗車しました。その特急券。



↑平成30年(2018年)1月16日(火)、奈良→京都間で二階建て車両 階上席に乗車しました。
 これは近鉄奈良駅停車中に撮影。



↑同上。



↑同上。



↑同上。座席の背面。



↑同上。列車走行中に撮影。平城→高の原間にて。
 スペース(容量)に限りがあるけれど、階上席にも荷物棚(頭上)は あります。



↑同上。 京都終点に到着直前のころ。 車窓に、東寺の五重塔。



↑令和4年(2022年)3月26日(土)。橿原神宮前。



↑同上。二階建て車両。



↑同上。橿原神宮前15時56分発、京都ゆき。
 私もこの号車に乗り込んで、京都まで乗車した。



↑同上。客室内。



↑同上。となりの線路に各駅停車(折り返し)が入線してきた。



↑同上。二階席の窓から隣りの電車(一般車)を見ると、こんな感じの〝目線〟です。



↑同上。



↑同上。大和八木にて。対向のビスタカーとすれ違い。
 あちらも二階席の窓が見えています。



↑同上。橿原神宮前15時56分発→京都16時50分着の、ひとときでした。
 京都府に発令されていた新型コロナ「まん延防止措置」が解除され、
 この日は久しぶりに電車に乗りに出かけました。特急乗客は少なめでした。



サニーカー (昭和52年)

2008年06月15日 16時28分41秒 | 近鉄特急
『サニーカー』

車両系式:12400系
登場初年:昭和52年(1977年)
製造両数:12両(4連×3本)
※昭和53年「ブルーリボン賞」受賞車両(近鉄第4号)

 昭和44年に登場した12200系(新スナックカー)は、その後も毎年、車両の増備が続けられました。先述したように、実際のところ「スナック・コーナー」を装備していたのは初期に登場した編成に限られ、途中からは〝スナック無し〟の編成がひたすら増備されたのでありますが、最終的に12200系は166両を数える大所帯に成長し、近鉄特急のスタンダードとしての地位を築いたのでした。
 昭和50年代に入っても12200系の増備は続けられていたのですが、この時期になると、かつて一世を風靡した10100系(新ビスタカー。昭和34年登場)が「そろそろ引退か?」と噂されるようになり、その後を受け継ぐ〝新型ビスタカー〟の設計準備など新たな取り組みも必要になってきました。

 こうした流れの中で、昭和52年(1977年)に新系列の12400系「サニーカー」が登場しました。また、これを機に、長らく続いた12200系の増備には終止符が打たれました。
 12400系「サニーカー」は、4両編成×3編成(計12両)が造られました。車両性能については12200系と同等でしたが、〝新型ビスタカー〟の設計をにらんで外装・内装に新しいデザインが採り入れられた車両です。
 実際、その翌年(昭和53年)に登場した〝新型ビスタカー〟こと30000系(ビスタカーⅢ世。次回紹介予定)は、12400系編成に二階建て車両を組み込んだような印象に仕上がり、先頭車両の顔つきや雰囲気はそっくりでした。

 この12400系「サニーカー」の設計から、客室内の座席カラー(座席の表布の色)がオレンジ色に変わりました(12200系以前の座席カラーは濃い赤色でした。ちょうど、近鉄の通勤型車両の座席カラーと似ていたように思います。もしかしたら、同じだったのかも)。
 近鉄特急の座席には必ず付いている「シートカバー」(ヘッドレスト部に掛けられた白布のカバー)の〝白さ〟を際立たせるという点では、赤色の座席のほうが見映えが良かったように感じますが(好みでもありますが)、その後、12200系以前の車両についても〝オレンジ〟への座席交換(表布張替え)が進められて、以後、アーバンライナーが登場するまでこの配色が近鉄特急の標準になりました。
 ふりそそぐ太陽の光に包まれた暖かな空間、というイメージでしょうか。オレンジの座席を中心に〝サニー・ムード〟ですっきりまとめられた客室内にちなみ、12400系には「サニーカー」という愛称が付きました。

◇          ◇          ◇

 12400系は、れっきとした新系列なのですが、
 「12200系(新スナックカー)の増備車両のようでもあり…」
 「30000系(ビスタカーⅢ世)の試作車両のようでもあり…」
という、独特のポジションに立っている車両です。
「最初は12200系を増備するつもりだったのだけれど、せっかくなので30000系の試作要素を盛り込んで造ってみたら…、こんなん出ましたけど」みたいな車両です。

 デザインが一新されたという以外、決して画期的な新機軸を盛り込んだというわけではない12400系ですが、そのスマートな姿が評価を得たのか、デビュー翌年(昭和53年)に「ブルーリボン賞」を受けることになりました。近鉄電車では4度目の受賞でありました。


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ほかにもあります「サニーカー」

車両系式:12410系
登場初年:昭和55年(1980年)
製造両数:20両(4連×5本)

車両系式:12600系
登場初年:昭和57年(1982年)
製造両数:8両(4連×2本)


 12400系「サニーカー」は4両編成×3編成(計12両)が製造されるに止まりましたが、その後、系式番号を変えながらも、サニーカーの〝続編〟が造られました。
 12410系(昭和55年登場)と12600系(昭和57年登場)の2系式がそれです。

 12410系と12600系は、いずれも12400系と同じ仕様で造られていて、「12400系の増備編成」と呼んでも差し支えない内容です。編成中における接客設備(特に便所)の〝位置〟が違うなどの相違点があるそうですが、私は、そこまで見分けられないもので…、どれも同じに見えてしまいます。(←情けないテツ?)
 一応、12410系は「名阪ノンストップ特急」用途に、そして12600系は「京都線向け」用途にと、それぞれ当時の事情に応じた役割を与えられてデビューしたようですが、現在は車両運用が大きく変わっているため、この限りではありません。
 デビュー当時の12410系は3両編成を1単位としていたようなので、これならば私でもパッと見で判別できたのでしょうが、その後ご丁寧に中間車両が組み込まれて4両編成化されたもので、もはや、私には〝為す術が無い〟というのが実情です。

 車両愛称名としては、12400系と同じく、12410系・12600系も「サニーカー」と呼ぶのが一般的です。私が知る範囲では、サニーカーの場合だけ、「旧サニーカー」とか「新サニーカー」という呼び方の区別がありません。全部まとめて「サニーカー」です。
 ただし、ブルーリボン賞を受けたのは12400系だけです。



↑これが「サニーカー」です。
 ビスタカーと同じ顔をしているけれど、二階建て車両が無い編成、です。
 12400系・12410系・12600系は、いずれもこのスタイルで共通しており、かつ、現在では4両編成を1単位としている点も同じです。
 この3系式をパッと見で明確に見分ける方法を私は理解していないので、とりあえず、『あっ、サニーカーが来たぞ』と、心の中で叫ぶことにしています。
 この画像に写っているのは、たぶん…、12410系だと思う。(当たってる?)
 先日、うちの近所の、狛D~新H園間で写しました。(逆光…)


◎画像追加

↑1989年秋の撮影だと記憶しています。あやふやですが。
 京都線の木津川鉄橋付近(鉄橋の新田辺寄り)にて。



↑平成21年(2009年)6月、新田辺~興戸間にて撮影。



↑平成21年(2009年)11月、京都駅にて。


近鉄京都線を行く、サニーカー

↑平成22年(2010年)1月14日(木)、新田辺~興戸間にて。




↑平成22年(2010年)3月14日(日)、新田辺~興戸間にて。奈良ゆき。



↑平成22年(2010年)4月25日(日)、大和西大寺駅にて。奈良発→京都ゆき。



↑平成23年(2011年)2月11日(金曜祝日)、大和西大寺駅にて。京都発→橿原神宮前ゆき。
 正面の行き先表示は電光式で二行書き。「橿原神宮前」「吉野連絡」と表示されている。



↑平成24年(2012年)1月9日(月曜祝日)、大和西大寺駅にて。
 奈良駅から回送されてきたサニーカー。



↑平成24年(2012年)1月9日(月曜祝日)、大和西大寺駅にて。
 上の画像と同一列車で、これは後打ち画像です。
 奈良駅から回送されてきて、4番線のりばに進入してきたところ。
 4番線に一旦停車した後、スイッチバックして、車庫へ戻って行きます。



↑平成24年(2012年)1月14日(土)。奈良駅にて。
 奈良発→京都ゆきの運用。
 この車両は、正面の行き先表示が電光式ではなく、赤地に白文字の字幕式。(→何故か、表示は漢字のみで、英字表記はない)



↑平成24年(2012年)1月14日(土)。京都駅にて。
 上の画像の奈良発→京都ゆきに私も実際に乗車して、京都駅までやって来ました。
 画像は、京都駅に到着した直後の同列車。
 折り返し運用は橿原神宮前ゆき。行き先表示には「吉野連絡」の文字も添えられています。(画像にはちゃんと写っていないけど…)



↑平成24年(2012年)1月14日(土)に撮影。
 上の画像と同一列車にて、乗車中に、車内の「洗面所」を写してみた。
 スペース的に、やや窮屈な印象の洗面所ではあります。
 壁面に取り付けられたボックスには、袋入りの「紙おしぼり」が入っていて、自由に使えます。



↑紙おしぼり。(サニーカーに限らず、近鉄特急の車内洗面所に用意されています)
 昔のやつに比べると…、紙おしぼり、ちょっと小さくなった気がする。
 コスト面のこととか、いろいろあるんでしょうけれどな。



総谷トンネル事故〔青山トンネル事故〕 (昭和46年)

2008年06月14日 15時32分42秒 | 近鉄特急
 「ビスタカー」・「エースカー」・「スナックカー」など、華やかな車両たちによって綴られてきた近鉄特急の歴史ですが、昭和46年(1971年)の秋、大阪線内の単線区間において、その特急列車同士が正面衝突するという悲しい出来事がありました。
 昭和46年(1971年)10月25日、当時は単線だった東青山~榊原温泉口間の「総谷トンネル」で、対向する特急列車同士が正面衝突するという、あってはならない事故でした。

 本稿では事故詳細についての記述は省略しますが、ネットで検索をすればこの事故についての関連記事は多く見つかりますので、知りたい方はそちらを参考にしてください。ウィキペディアならば、「近鉄大阪線列車衝突事故」の項目で出ています。

 多数の死者と負傷者を出したこの事故をきっかけにして、近鉄は、大阪線の複線化完成に全力を注ぐことになりました。そして、事故から4年が経過した昭和50年(1975年)11月、新青山トンネル(全長5,652m。当時は私鉄界最長のトンネルだった)の開通をもって大阪線の全線複線化が完了したのです。

◇          ◇          ◇

 事故現場となった総谷トンネルや東青山駅をはさむ、西青山~榊原温泉口間の線路は、青山峠越えと呼ばれる険しい山岳地帯に踏み込んだルートになっていて、古くから大阪線の難所でした。しかも、昭和初期に開通した歴史をもつ大阪線(開通当時は参宮急行電鉄という名前だった)には、青山峠区間のほかにも「単線」の箇所が多かったそうです。(近鉄ホームページの資料によると、大阪線のうち名張~伊勢中川間はもともと単線で開通したらしい)
 近鉄では、昭和30年代半ばから大阪線の完全複線化に向けた工事に取り組み、輸送改善を進めていたようですが、地形的にも難工事が必至となる青山峠区間については最後まで複線化が遅れていたのです。悲惨な衝突事故は、そこで起こりました。

 事故後、完全複線化を急ぐに当たって、この区間(西青山~榊原温泉口間)では路線ルートそのものが抜本的に見直され、長大なトンネルによって山岳地帯を一気に貫く「複線の新線」が建設されました(新線の開通と引き換えに、単線時代の旧ルートは廃止された)。全長5,652mに及ぶ「新青山トンネル」の掘削はその象徴で、悲惨な事故に対する痛烈な思いが込められているようでもあります。

 こうして完成したのが、現在も使われている線路です。
 新青山トンネルをはさむ西青山~東青山間では、トンネル部分を含めて駅間がほぼ一直線で結ばれているなど、列車運行の保安面への配慮も行き届いた構造となっています。

◇          ◇          ◇

 今をときめく新型特急車両たちは、きょうも、この区間を高速で元気に駆け抜けてゆきます。新系列の特急車両の場合は、「新青山トンネル」内において最高時速の130km/hまでスピードを上げるそうですね。延々と一直線で続く複線トンネルの中ならば踏切障害の危険も無いし、ここではMaxまでスピードを引き上げても大丈夫-、というところでしょうか。
 かつてここが〝山越えの難所〟だったことを感じさせない、特急列車の快適な走りであります。
 でも、その裏に悲しい歴史があったことを、忘れずにいたいと思います。

 今回は、歴代特急車の紹介という内容からは外れましたが、「総谷トンネル事故」のことは近鉄特急の歴史を語る上で無視できない項目だと考え、扱いました。


◎画像追加↓


↑現在の東青山駅。平成20年(2008年)10月撮影。



↑東青山駅ホームより、伊勢中川方向を望む。
 見えているトンネルが、新線切り替えによってできた「新総谷トンネル」のようです。
 このトンネルの左側に、旧線時代の総谷トンネルがあったらしい。
 画面の左側に、線路に沿って木が並んでいるのが見えます。並んで立っているように見えるでしょう。
 これが、旧線の線路跡のようです。

 ↑私の研究はまだまだ不十分なので、あやふやです。



ミニ・スナックカー (昭和44年)

2008年06月07日 23時46分24秒 | 近鉄特急
『ミニ・スナックカー』

車両系式:18400系
登場初年:昭和44年(1969年)
特急引退年:平成12年(2000年)
製造両数:20両(2連×10本)
※現在、2連×1本(2両)のみが団体専用「あおぞらⅡ」に転用されているほかは、すでに全車両が廃車となっている。


 12000系(旧スナックカー。昭和42年)と12200系(新スナックカー。昭和44年)の登場によって、この時期、近鉄の特急輸送は一層にレベルアップが図られました。
 こうした新しい流れを、車両限界が異なっていた京都線・橿原線の特急にも展開しようという狙いで造られたのが、18400系「ミニ・スナックカー」です。

 18400系は、12200系と同じく昭和44年 (1969年)の登場です。当時、車両限界と架線電圧に制約があった京都線・橿原線への乗り入れが可能な仕様となり、〝その道〟の先輩である18200系(先述)とともに京都~伊勢間の直通特急に活躍しました。

 18400系は、2両編成を1単位とする軽快な姿で、昭和47年までに2両編成×10編成(合計20両)が造られました。複電圧対応の設備と車体寸法を除けば、同時期に造られた12200系(新スナックカー)とほぼ共通した造りになっていました。座席はリクライニングシートで、スナックコーナー(軽食コーナー)も設置されるなど、内容面では12200系と同等でした。
 車両限界に合わせるために車体幅のみ12200系よりも狭く設計され、実際、視覚的にも12200系より小さく見える車両だったことから、18400系は「ミニ・スナックカー」と呼ばれました。

 伊勢から奈良大和路を経て京都へ結ぶ〝周遊ルート〟に磨きをかけるためにも、当時、この区間でのサービス向上(車両のレベルアップ)は不可欠だったようです。12200系と比べて車体寸法ぐらいしか違わない18400系を〝わざわざ〟造ったところに、近鉄の意気込みが感じられるようです。


◎まとめ

・12000系が「旧スナックカー」、
・12200系が「新スナックカー」、
・18400系が「ミニ・スナックカー」。

 スナックカーという名が付いたのは、この3系式です。(スナックカー三部作?)

◇          ◇          ◇

 御多分にもれず、18400系のスナックコーナーも後年には営業休止となり、スナックコーナー自体が撤去されるという運命をたどりました。12000系や12200系の場合もあわせて、列車内における供食サービスの難しさを物語っているようでもあります。
 私は、この18400系に何度か乗ったことがありますが(昭和60年以降の時期)、その頃にはすでにスナックコーナーは撤去されており、〝跡地〟には客席(リクライニングシート)が増設されていました。跡地に増設された客席にも座ったことがありますが、なんだか〝飛び地〟みたいで落ち着きづらかった記憶があります。
 車両限界・架線電圧の問題が解決した後も、18400系は京都線に乗り入れる列車に使われることが多かったように思います。30000系ビスタカーにお供して(連結されて)、京都発賢島行きに使われている場面とか、私もよく目撃しました。

 18400系は、平成12年(2000年)までに特急運用から外れ、2連×1本が団体専用「あおぞらⅡ」に転用されたほかは、全ての車両が廃車となりました。


↑私が写したミニスナックカーは、この一枚だけです。(例によって高校生のとき)
 「どこを狙って写したのか…」という感じの構図です。
 たまたまミニスナックカーが写った、という印象。
 でも、ちゃんと〝顔〟は見えますね。

 車体寸法が絞られているので、車体側面が垂直に切り立った感じになっているのがミニスナックカーの特徴です。正面(顔)が細長く見えるのです。
 12200系の投稿記事(画像)と見比べてもらうと良いですが、12200系は車体寸法にゆとりがあり、正面(顔)はふっくらとまるい感じに見えます。



動画拝借。



新スナックカー (昭和44年)

2008年06月05日 21時08分23秒 | 近鉄特急
『新スナックカー』

車両系式:12200系
登場初年:昭和44年(1969年)
製造両数:166両(2連×29本、4連×24本、6連×2本)


 12000系(旧スナックカー)の登場から2年が過ぎた昭和44年(1969年)に、その量産車として12200系が登場しました。外装・内装とも12000系に準じたスタイルとなり、パッと見た感じは同じです。平成12年までに全車両が引退した12000系と異なり、12200系は現在も各方面への特急運用に活躍しています。

 12200系の特徴は、製造両数が非常に多かったことです。
 デビュー当初は、12000系と同様に「2両編成を1単位」とした姿だったようですが、その後、中間車(編成の中間に組み込む、運転席が付いていない車両)が追加されたりして、4両編成や6両編成の仕様も登場しました。最終的には、2両編成×29編成、4両編成×24編成、6両編成×2編成、の合計166両を数えるに至り、近鉄の特急系式では随一の勢力を誇る大所帯となりました。

 車両数の多い系式なので、製造時期には幅があります(一度に166両がポンと登場したのではない)。
 初期に登場した12200系には、12000系と同じく「スナックコーナー」(軽食コーナー)が設けられていましたが、のちに廃止となり、後期に登場した12200系には最初からスナックコーナーが付いていませんでした。…ではありますが、車両の愛称名としては、12000系(旧スナックカー)に対して12200系は「新スナックカー」と呼ぶのが一般的です。
 現在活躍している12200系にはスナックコーナー自体がありませんから、今となっては不思議に感じられる愛称名です。昔の名前で出ています、のよう。

     ◇          ◇          ◇

 以前にも述べたように、昭和40年代は、新幹線に客を奪われて「名阪特急(近鉄)」が低迷を続けていた時期です。その〝逆風〟のなかで近鉄が12200系の大量増備に踏み切った背景には、名阪が振るわないぶん伊勢方面への特急輸送を充実させることが不可欠、との考えがあったようです。

 これも、近鉄特急の歴史の中では語られる部分ですが、東京方面から新幹線でやってきた旅客を名古屋で受けて近鉄特急は伊勢へと走り、伊勢観光の後は奈良大和路へ旅客を誘い、奈良見物が済んだら最後は京都へ送り込んで、京都から新幹線で東京へ帰ってもらう-、という周遊ルートが作り上げられたそうです。

 名古屋→伊勢→奈良大和路→京都という近鉄特急ならではの周遊ルートは、東京方面から大量に旅客を運んでくる「新幹線」が無ければ成り立たないと言っても過言ではありません。大阪~名古屋間の直通輸送(スピード)では到底かなわない新幹線の存在を逆手に取った、見事な攻めです。

 話がそれましたが、12200系は、そうした伊勢方面重視の特急網を組み立てるうえで、大いに活躍しました。デビュー当時には、大阪での「万国博覧会」というビッグ・イベントも重なり、万博輸送(特需)にも活躍したそうです。

     ◇          ◇          ◇

 初期に登場した車両からは引退・廃車も出ているようですが、現在も12200系シリーズはたくさんの車両が稼動しています。
 京都線の特急にも、よく使われています。



↑私が高校生のときに写した12200系。(なぜ古い写真を貼るのか…。現在も走ってるって言うといて…)
 当時は、正面貫通扉に特急マークがあり、行き先表示(←手差し式…でしたよね)はグッと低い位置に付いていた。
 現在は、車体リニューアルによって、正面貫通扉に自動式行き先表示幕が付いている。



↑〝その一瞬〟をきっちり写し取れない私です。(スキャナが悪いのではなく、私の実力だ!)
 これも、高校生のときに写したものだと思う。
 行き先表示が読めません。(ひさん)
 でも、いっぱい字が書いてあるみたいだから「橿原神宮前」行きなのだろうと察しがつきます。なので、正面窓の下に付いている小さなプレート(白枠で囲まれた部分。紺地に赤い字で書かれているやつ)には「吉野連絡」と書かれているのです。(情けない鉄道写真やな)
 ちゃんと写せていたらなぁ。今となっては、もったいない!

※↑上の画像は2枚とも、京都線の木津川鉄橋(付近)で撮影。1989年~1990年ごろ。


◎画像追加↓


↑平成20年(2008年)10月に撮影した12200系。津駅にて。
 リニューアル後の姿、ということになります。



↑平成21年(2009年)2月、河内小阪駅にて撮影。
 土休日昼間の、奈良線特急に使用中のひとこま。



↑平成21年(2009年)6月、新田辺~興戸間にて撮影。



↑平成22年(2010年)2月、大和八木駅にて。大阪線特急の鳥羽ゆき。



↑平成22年(2010年)2月28日(日)、松阪駅ホームより撮影。
 前日に発生したチリ大地震による津波警報の影響で、この日は鳥羽線の一部と志摩線が運休に…。
 鳥羽・賢島方面への特急列車も「五十鈴川ゆき」として運行された一日でした。



↑平成22年(2010年)2月28日(日)、松阪駅ホームより撮影。



↑平成22年(2010年)2月28日(日)、松阪駅にて。(上の画像と同じ列車)
 隣りの伊勢中川ゆき各停を待たせて、特急が先に発車していきます。



↑平成22年(2010年)2月28日(日)撮影。
 昔なつかしい「網棚」の編成に当たったので、車内でカシャっと撮影。



↑平成22年(2010年)8月28日(土)、八木西口にて。
 京都発→橿原神宮前ゆき(吉野ゆき連絡特急)。



↑12200系の客室内。平成22年11月13日(土)、奈良線特急車内にて撮影。



↑12200系の客室内。平成22年11月13日(土)、奈良線特急車内にて撮影。



↑12200系の客室内。平成22年11月13日(土)、奈良線特急車内にて撮影。



↑正面の行き先案内に「大阪難波」と表示できる車両。
 平成22年11月13日(土)、鶴橋にて。(後打ち)



↑平成24年3月24日(土)、丹波橋にて。後打ち。
 橿原神宮前→京都ゆきに運用中。



↑平成24年3月29日(木)、富野荘にて。
 吉野連絡、橿原神宮前ゆき。



↑平成24年5月26日(土)、塩浜にて。(通過)
 12200系4両+22600系2両の6両編成。宇治山田発→名古屋ゆきの乙特急に運用中。



↑平成26年1月11日(土)、大和八木にて。
 名阪乙・大阪難波ゆき12200系と、阪伊乙・鳥羽ゆき伊勢志摩ライナーが出合う。



↑平成26年2月23日(日)、鳥羽線内を走行中に撮影。
 このときは、伊勢市から鳥羽まで12200系特急に乗りました。



↑同上。平成26年2月23日(日)、鳥羽線内を走行中に撮影。



↑平成28年1月8日(金)、五十鈴川にて。 2250系復刻塗装の5200系と並んだところ。
 名伊乙特急、賢島ゆきに運用中。



↑同上。
 五十鈴川を発車し、次の停車駅・鳥羽へと向かう。



↑平成29年3月22日(木)、京都線の木津川鉄橋にて。京都発→賢島ゆきに運用中。



↑平成31年2月13日(水)、京都にて。



↑同上。



↑平成31年2月13日(水)、京都発→橿原神宮前ゆきの車内にて。



↑同上。



↑同上。



↑平成31年2月13日(水)、橿原神宮前にて。



↑令和2年(2020年)2月11日(火・祝日)、大和八木→大和西大寺間にて乗車。



↑同上。令和2年(2020年)2月11日(火・祝日)、大和八木→大和西大寺間にて乗車。



↑同上。大和八木→大和西大寺の特急券。
 同年(令和2年)2月1日から、近鉄特急は客室内禁煙になりました。(喫煙室はのぞく)
 ただし、12200系には喫煙室の設置工事が行われませんでした。
 12200系単独運用の列車については、特急券に「この列車に喫煙室はありません」と記されています。 



↑令和2年(2020年)5月25日(月)、京都にて。



↑令和2年(2020年)9月4日(金)、富野荘~新田辺間にて。



↑令和2年(2020年)9月4日(金)、新田辺~富野荘間にて。



↑令和2年(2020年)9月4日(金)、新田辺~興戸間にて。



↑同上。



↑令和2年(2020年)9月7日(月)、京都にて。



↑同上。



↑令和2年(2020年)9月14日(月)、大和西大寺にて。
 橿原神宮前→京都ゆき運用で、ホームに停車中。



↑同上。



↑令和3年(2021年)2月8日(月)、狛田にて。
 橿原神宮前ゆきに運用中。



↑同上。



↑令和3年(2021年)2月9日(火)、新田辺にて。
 橿原神宮前ゆきに運用中。



↑同上。



旧スナックカー (昭和42年)

2008年02月01日 17時08分15秒 | 近鉄特急
『旧スナックカー』

車両系式:12000系
登場初年:昭和42年(1967年)
全廃車年:平成12年(2000年)
製造両数:20両(2連×10本)


 昭和39年に東海道新幹線が開業したことで、大阪~名古屋間の旅客流動にも大きな変化が生じました。この区間で圧倒的なシェアを握ってきた近鉄の「名阪特急」は、新幹線にごっそりと客を奪われてしまったそうです。これ以降、昭和40年代全体を通して、名阪特急が〝冬の時代〟を送ったことは、近鉄特急の歴史の中で必ず語られる部分です。

 名阪特急の凋落傾向に歯止めをかけようと、近鉄は、昭和42年(1967年)に12000系『スナックカー』を登場させました。スピードでは到底敵わない新幹線に、充実した車内設備で対抗しようという戦略から生まれた特急車両です。

 12000系は新製車両で、2両編成×10編成(計20両)が造られました。
 主な用途を名阪特急に絞り、「新幹線に対抗する」というポリシーを持って生まれた系式なので、それまでの近鉄特急の車両と比べて〝一歩進んだ〟内容になったのが特徴です。
 客室座席は回転クロスシートで、リクライニング式が採用されました。当時、新幹線の普通車は転換クロスシートでしたから、リクライニング・シートの採用は思い切った決断だったのかもしれません。さらに、客室の一角には「スナックコーナー」と呼ばれる小さなビュフェ(軽食コーナー)が設置されました。車体外観では、先頭車の正面デザインが従来のエースカー形から一新され、貫通幌(ホロ)にカバーが付けられたことでスッキリとした顔立ちになったことが特徴です。二階建て構造は採用されず、すべて普通床の車両で構成されました。
 客室設備を充実させることによって、新幹線に流れた利用客を少しでも取り返したい、という近鉄の願いが込められた12000系車両でしたが、何よりもスピードがもてはやされた時代だったか、結局、新幹線に流れてしまった乗客を呼び戻すのは難しかったようです。

 2両編成を1単位としたのは、利用状況に応じた増結を想定したものだったのでしょうが、結果的には2両編成のまま(増結なし)で運行されることが多かったようです。私が子供の頃に見た「電車の本」に載っていた近鉄特急(名阪特急)の写真も、2両編成の短い列車(つまり12000系)ばかりだったと記憶しています。
 
 12000系の特徴だった「スナックコーナー」(ビュフェ)は、個性的なメニューも相俟って乗客に親しまれたようですが、採算面では難があったのか長続きせず、その後に営業休止となって、後年の車体更新工事の際にはスナックコーナーそのものが撤去されるという寂しい結末となりました。

 「スナックコーナー」を装備したのは12000系が最初でしたが、続いて登場した12200系や18400系(後述)にも同様の軽食コーナーが装備されました。これらの系式は、スナックコーナーにちなんで『スナックカー』という愛称名で呼ばれました。系式ごとに区別する意味では、12000系のことは『旧スナックカー』と呼ぶのが一般的です。

 必死の対抗策もむなしく、東海道新幹線の前になす術が無くなった名阪特急でしたが、昭和50年代に入ってから国鉄の運賃・料金値上げが繰り返されたことで、状況が変わってゆきました。どんどん拡大する「国鉄と近鉄の〝金額差〟」を背景に、安くて快適な近鉄特急が乗客に見直され、以後、名阪特急の利用状況は〝奇跡の回復〟を果たすことになります。
 名阪特急の「苦難の時期」を耐えて走り続けた12000系は、その復活を見届けて名阪ノンストップ運用から離脱、後年は伊勢方面への運用にも活躍の場を広げ、平成12年(2000年)までに全車両が引退しました。



18200系 (昭和41年)

2007年12月06日 19時13分29秒 | 近鉄特急
車両系式:18200系
登場初年:昭和41年(1966年)
特急引退年:平成元年(1989年)→特急用途を外れ、団体車両「あおぞらⅡ」に転用。
全廃車年:平成18年(2006年)
製造両数:10両(2連×5本)
※昭和42年「ブルーリボン賞」受賞車両(近鉄第3号)


 東海道新幹線の開業にあわせて誕生した「近鉄京都線の特急」は、当初、一般型車両を改造して出来た〝異端の特急車〟680系(昭和39年。先述)によって運行が始まりました。1年後には18000系(昭和40年。先述)が戦列に加わりましたが、この系式も、廃車流用品を盛り込んで造られた〝変わり種〟車両でした。
「京都線の特急」の使命であり戦略でもある〝新幹線接続〟という大きな役割を持ちながら、運行開始当初のそれは、旧型車の寄せ集め的なやりくりの中から歩みを始めたのでした。

 そのような〝序章〟を踏まえたうえで、昭和41年(1966年)に、京都線の特急車としては初の新製車両となる「18200系」が登場しました。2両編成×5編成(計10両)がお目見えし、京都線特急の近代化が図られたのです。


 18200系は、当時、架線電圧と車両限界の違いから直通運転が不可能だった、

「京都・橿原線から大阪線への乗り入れ」(京都~伊勢間の直通運転)

を実現させるべく製造された車両です。

 車体は、車両限界が小さかった京都線に寸法を合わせつつ大阪線でも使用できる構造とし、架線電圧についても、京都線(600ボルト)・大阪線(1500ボルト)の両方に対応できる「複電圧車両」となったことが特筆できます。また、モーター出力も、大阪線の連続勾配区間を走破できるパワーが備えられました。
 異なる車両限界、異なる架線電圧、を克服した意欲作として評価されたのか、18200系は、昭和42年に近鉄電車では3度目となる「ブルーリボン賞」に輝きました。優秀な車両です。

 18200系の登場によって、京都駅発着の特急列車は運転区間が拡大し、京都~宇治山田間(当時)の直通運転が可能になりました。現在は賢島まで走っている〝京伊特急〟の始まりです。

 18200系は新製車両として登場しましたが、車体幅が抑えられたこともあって寸法的に「回転クロスシート」の装備が難しく、客室座席には「転換クロスシート」が採用されました。
 その後、近鉄特急の装備は「リクライニング式・回転クロスシート」が主流に移ってゆきますが、18200系はリクライニングシートへの取り替えを受けることもなく、最後まで転換クロスシートのままでした。

 登場から二十数年を経た平成元年より特急運用を外れ、改造を受けたのち、団体専用車「あおぞらⅡ」として〝第二の人生〟を歩みました。ちょうど、20100系「あおぞら」号が引退期を迎えていた頃で、後継の団体専用車両として18200系が転用された格好です。
 特急運用で活躍していた頃は、連日あたり前のように京都線を走っていた18200系ですが、定期運用がない「あおぞらⅡ」になってからは姿を見せる機会が減り、京都線でも時折目にする程度でした。

  ◇    ◇    ◇    ◇    ◇

 私は、「あおぞらⅡ」に乗ったことはありませんが、特急運用時代の18200系には何度か乗ったことがあります。ちょうど、昭和60年から平成元年にかけての時期です。今から思えば、18200系が特急運用で活躍した最後の時期ということになります。
 ブルーリボン賞に輝いた車両とはいえ、同じ特急料金を支払って乗るのにリクライニングシートではなくて転換クロスシートというのは、なんだか損をした気分になったものです。
『車内の雰囲気も…、6300系(阪急)のほうが上品ではないか?』と、勝手なことを思ったりもして。

 30000系や12600系(後述)も発着していた京都駅のホームに、18200系が入ってくるのを見ると、正直、『こいつはボロだな…』と思いました。
 18200系が単独で任務に就く「2両編成の特急」も走っていた頃でした。
 それがまた〝賢島行き〟に充てられている日があったりして…。
『こいつが、2両で賢島まで走る気かー!』って。

今となっては、懐かしい記憶です。



16000系 (昭和40年)

2007年11月07日 22時36分40秒 | 近鉄特急
車両系式:16000系
登場年:昭和40年(1965年)
製造両数:20両(2連×8本,4連×1本)


 680系による京都線・橿原線特急が誕生した(昭和39年)のに続いて、昭和40年には南大阪線・吉野線にも特急(座席指定制)が設定されました。大阪阿部野橋から橿原神宮前を経て吉野へと結ぶ特急の始まりです。
 このときに登場したのが16000系特急車両です。
 狭軌(線路の幅が狭い)の南大阪線・吉野線に対応する寸法で造られた車両なので、京都線や橿原線や大阪線(いずれも標準軌。狭軌に対して広軌ともいう)には乗り入れができません。しかし、寸法の違いを除けば、大阪線系統の11400系(新エースカー)に準じた構造でした。
 
 16000系は昭和40年のデビュー以後、昭和52年まで、少しずつ増備が続けられ、最終的に全部で20両造られました。
 用途が「南大阪・吉野特急」に限定されるので〝大所帯〟の系式ではありませんが、10年以上にわたって同一系式が増備され続けたのは、近鉄特急の歴史のなかでも珍しい例です。登場した時期によって正面窓や台車の形状に少しずつ〝違い〟があったようですが、ほかに大きな違いはなく、現在では当時の近鉄特急の香りを伝える最古参特急車となっています。
 
 現在すでに、初期に製造された車両からは引退廃車も生じているほか、一部の編成は静岡県の大井川鉄道へ移籍するなど、動きが出ています。そのぶん、近鉄の本線上を走る16000系が減ったことになりますが、すでに後継の新型系式も登場済みで、「南大阪・吉野特急」の運行は絶えることなく守られています。


 以前このブログでも紹介しましたが、まだ最近に私は久しぶりに吉野線に乗り、この16000系にも乗ってきました。
 外観の見た目は〝昔のまま〟かなと思いましたが、内装は大幅にリニューアルされていて、古さを感じさせません。まだまだ使えそうな車両です。

 私が初めて「南大阪・吉野特急」に乗ったのは中学生時代、昭和61年(1986年)12月のことでした。
 阿部野橋から橿原神宮前まで特急に乗り、そこで準急に乗り換えて吉野まで行き、折り返して吉野から橿原神宮前まで再び特急に乗って帰ってきたものです。
 このときの特急車も16000系でした。座席は回転クロスシートながら、リクライニング式ではなかったのを覚えています。また、前の座席の背もたれ(背面)に折りたたみ型のテーブルがくっ付いていて、古風な感じでした。
 のちに知ったことですが、10100系(新ビスタカー)で使われていた座席が16000系に流用された例もあったようなので、或いはそれに当たったのかもしれないな…と思っています。



京都線を走った特急 (昭和39年・40年)

2007年10月04日 21時15分27秒 | 近鉄特急
『京都線を走った特急』

車両系式:680系
登場した年:昭和39年(1964年)※種車は昭和29~32年製。
引退した年:昭和49年(1974年)※一般車に格下げ。
両数:7両(2連×2本,3連×1本)

車両系式:18000系
登場初年:昭和40年(1965年)
全廃車年:昭和57年(1982年)
製造両数:4両(2連×2本)


 奈良電(ならでん)こと奈良電気鉄道が近畿日本鉄道に合併されたのは、昭和38年(1963年)10月のことでした。東海道新幹線(東京~新大阪間)が開業するちょうど1年前のことで、京都~西大寺間が「近鉄京都線」になったのはこのときからです。
 近鉄が奈良電合併に意欲を見せた背景には、京都進出による自社路線網の拡大化という狙いはもちろんのこと、一方では、奈良電と近い関係にあった「京阪電気鉄道」がこれを介して〝奈良〟へ進出してくるのを阻止する意味もあった、とも言われます。

 合併から1年が経過した昭和39年(1964年)10月1日。
 東海道新幹線が開業したのに合わせて、近鉄は、京都~橿原神宮前間に「特急」を新しく設定しました。京都駅で新幹線と接続を図り、旅客を近鉄沿線(大和路・飛鳥方面)へ誘致しようという狙いだったようです。今日も走り続ける『京都・橿原特急』の歴史は、ここからスタートしました。
 ただし、当時の京都線や橿原線は、架線電圧が600ボルトと低く、また、車両限界(建築限界)の制約もあったため、大阪線などで活躍していた10100系ビスタカーや10400系・11400系エースカーは乗り入れができないという問題がありました。後年、架線電圧や車両限界の問題は順次解決されることになりますが、とりあえず昭和39年の時点では『京都・橿原特急』向けの車両を別途準備しなければならなかったのです。

 そこで登場したのが、680系という変わりダネ車両でした。
 680系は、近鉄が、奈良電から引き継いだ車両を〝改造〟して送り出した特急車です。
 種車(たねしゃ)と呼ばれる元の車両は、昭和29年~同32年に製造された奈良電デハボ1200形・デハボ1350形という系式です。デビュー時から固定クロスシート(セミクロス配置)を装備し、奈良電時代にも特急運用で活躍した車両だったそうです。そうした素質が認められたのか、近鉄の手によって「京都線の特急車」として改造されることになったのです。
 車両改造では、座席の取り替え(転換クロスシート化)・冷房装置の設置・便所の設置が行われたほか、車体の塗装も改められて〝近鉄特急スタイル〟にリニューアルされたようです。もと奈良電の車両ですから、架線電圧や車両限界は〝そのまま〟でクリアー。車両系式だけは近鉄流に改番されて、「680系」になりました。

 新幹線接続という利便性が活きて、680系による京都~橿原神宮前間の特急列車は乗客から好評を得たそうです。
 これを受け、昭和39年暮れからは京都~奈良間にも「特急」が設定されることになりましたが、車両数が限られる680系だけでは特急運用をカバーできなくなるとして、京都線特急車の第二弾・18000系が投入されました(登場は昭和40年)。680系から、いきなり系式番号が飛びます。

 18000系は、600ボルト対応の旧型車両から流用した足回り(床下機器)に、新製の車体(ボディ)を載せることで誕生した特急車両です。昭和40年~41年に2両編成×2編成(計4両)が造られました。そのあとを追うようにして新型18200系(後述)が登場することになるので、18000系は最低限の両数しか造られなかったようです。
 車体は新しいので〝パッと見〟には「新型車両」なのですが、足回りは流用品ですから、ひとたび走り出せば床下からは古めかしいモーター音が響き渡る…というのが18000系の特徴だったようです。
 廃車流用の足回りに新しい車体を載せて新型車両に仕立てるのは、鉄道車両の造り方としては決して珍しいことではないのですが、本稿で扱っている10000系「旧ビスタカー」以降の近鉄特急車のなかでは、こういう製造過程を経て登場した系式は18000系以外に無いはずです。


 680系と18000系は、当時の京都線・橿原線向けに造られた車両です。種車改造や機器流用によって造られたので、両系式とも「完全な新型車両ではなかった」という共通点を持ち、近鉄特急の車両史においても異端の特急車と呼ばれたりします。
しかし、産声をあげた京都線特急の〝最初の一歩〟を標したのはこの両系式にほかならず、「新幹線接続」という近鉄特急の新しい方向性を打ち出した功績は大きいと言えます。

 実際のことは私には分かりませんが、
『京都線向けの新型特急車(のちに登場する18200系)が完成する前に、東海道新幹線が開業してしまった…』ということなのかもしれません。
 近鉄としては、「新幹線開業」というタイミングを旅客誘致のチャンスと捉え、その時期に合わせて京都線特急を新設したかったのでしょう。『新型特急車の完成は間に合わなかったけれど、とにかく特急運行を開始した!』というふうな、近鉄の強い意気込みが感じられるようです。


 その後、新系列の特急車両が増備されるにつれて、680系と18000系は存在感を失っていきます。
 680系は昭和49年までに特急運用から外され、一般車に格下げされました。格下げ後は、京都から遠く離れた近鉄志摩線(三重)に活躍の場を移し、普通列車運用で最後の力走を見せたのち、昭和62年までに廃車となりました。基本的に、近鉄は特急車両の格下げ運用をしない会社なので、この680系の扱いは珍しいと言えます。
 18000系は『京都・橿原特急』一筋で走りぬき、昭和57年に廃車となりました。京都線の昇圧(架線電圧1500ボルト化)にも対応して走り続けましたが、基本的な走行性能の問題から他系式の特急車と連結運転ができず、また、連続勾配区間がある大阪線(伊勢方面)への乗り入れもできないなど、制約を抱え続けた車両でした。


 なにぶん、私自身が見たことも乗ったこともない系式なので…、思い出から書き綴る事柄がありません。



新エースカー (昭和38年)

2007年07月07日 13時16分13秒 | 近鉄特急
『新エースカー』

車両系式:11400系
登場初年:昭和38年(1963年)
全廃車年:平成9年(1997年)
製造両数:45両(3連×15本)


 昭和36年(1961年)に颯爽と登場した10400系(旧エースカー)は、古びた旧型特急車で運行されていた「乙特急」に新風を吹き込み、乗客に喜ばれたようです。ただし、車両数の関係から、全ての乙特急を10400系でカバーするのは無理だったので、不足を補うために旧型特急車の運用も依然として残っていたようです。

 そこで、残存する旧型特急車の淘汰と、乙特急のさらなる増発を図るため、昭和38年(1963年)に11400系「エースカー」が登場しました。
 この時期、特急輸送の充実化のために、次々と新型車両が造られたのですね。当時の日本経済と同様、近鉄特急も着実に成長路線を歩んでいた頃なのだと思います。一方で、戦後の混乱期を駆け抜けてきた旧型特急車たちは、これを機に「急行・各停」用途の一般車に格下げされる運命となったのです。

 11400系「エースカー」は、昭和38年に3両編成×10編成(30両)が登場し、続いて、昭和40年に3両編成×2編成(6両)と、2両編成×3編成(6両)が増備され、10100系(新ビスタカー)と並んで当時の近鉄特急を支える大きな勢力に成長しました。10400系(旧エースカー)の量産編成と呼んでも良さそうな車両でしたが、「11400系」という新しい系式を名乗ることになりました。モーター出力や空調方式に10400系との違いがあったようなので、系式を区分するほうが良かったのかもしれません。

 10400系が4両編成を1単位としたのに対し、11400系は3両編成で1単位という仕組みでした。しかし、全ての車両に運転台を装備し、最短の2両編成から自由に車両数を調節できる、という器用さは受け継いでいました。さまざまな場面で適切な輸送力を発揮する「エースカー」の本領ですね。

 昭和40年に増備された編成のなかに、2両編成の〝短いエースカー〟が3編成含まれていたことは、私も詳しく知りませんでしたが、昭和44年に、これら2両編成に1両ずつ先頭車が付け足されており、これによって11400系は全編成が3両編成に統一されたとのことです。従って、同系の最終的な両数は、3両編成×15編成(合計45両)となりました。
 ちなみに、2両編成バージョンを3両編成化するときに造られた〝増結先頭車〟というのは、昭和44年当時に製作中だった12200系(後述)の先頭車両に準じた形状となり、本来の11400系とは異なる顔に仕上がったのが特徴です。つまり、3両編成の前と後ろとで〝顔が違った〟わけです。
 そう言われれば…、確かに、前後で顔の違う編成が走っていましたね。私も実物を見た記憶があります。

 10400系と同じように、11400系も、車両更新や内装のグレードアップを受けながら大事に使われた車両でした。後年は、中間車の運転台が撤去されて3両固定編成になったほか、前面の特急マークが字幕式の行き先表示機に改められるなど、「デビュー当時の姿とは雰囲気が変わった」と言われています。
 けれど、私が自分の目で見て記憶している11400系は、この〝後年の姿〟にほかなりません。デラックスな印象は無かったけれど、必要十分な装備を持ったシンプルな特急車でした。

 近鉄特急の車両史において、この11400系を呼ぶときは、『新エースカー』というのが一般的です。
 10400系(旧エースカー)とともに長きにわたって活躍し、平成5年(1993年)から順次引退が始まり、平成9年(1997年)までに全ての編成が姿を消しました。



(↑) 1989年4月4日、京都線の木津川鉄橋付近で写した11400系です。
  当時のことなので、
  『珍しくもない電車が走って来たな…』
  ぐらいの気持ちで写した1枚です。
  シャッタースピードが〝なってない〟ですね。

 例によって曖昧な記憶ですが…、
 11400系と2両編成の特急車を連結した「5両編成」っていうのが、当時は京都線にも走っていましたよね? あの頃は、18200系や18400系(いずれも後述)といった2両編成の特急車がたくさんありましたからね。
 大阪線では11400系と4両編成をつないだ「7両編成」も走っていたと思います。

 11400系の引退以後、近鉄特急には「3両編成で1単位」という系式がありませんから、3両・5両・7両といった〝奇数〟の両数で走る特急列車も無くなってしまいましたね。


◎画像追加

↑上の画像とまったく同じ場所での撮影。
 これも1989年の記録です。これは秋ごろだったかな。