ダンポポの種

備忘録です

京都大会おわる

2007年07月28日 16時59分38秒 | 日記・雑記
西京極から自宅に帰ってきました。
ここ数年、夏の京都大会の観戦を楽しみにしている私であります。甲子園の全国大会を見に行けたら文句ないのですが、それが叶わないので、せめて地区大会で〝臨場感〟を楽しんでおこうかと…。

きょうの京都大会決勝は、
京都外大西 2-1 京都すばる
で京都外大西が勝ち、優勝しました。

〝西高(にしこう)〟こと、京都外大西は、2年ぶりの甲子園出場となります。
2年前は、甲子園大会で決勝戦まで進み、準優勝しています(ということは、最後の相手は駒大苫小牧だったのか)。 そのとき「スーパー1年生」と呼ばれた本田投手が、今年は3年生で最後の夏、背番号「1」です。


今日の試合、京都すばるも決して負けてはいなかったのですが、攻めきることが出来ず、惜しい敗退でした。

1-1の同点で終盤に入った試合は、8回表、外大西の攻撃。
2アウトながらランナー2塁の場面で、次の打者は右中間の方向にフライを打ち上げました。すばるの中村投手が打ち取った状況でしたが、そのとき思わぬ守備の乱れが…。
センターとライトが、まさかのお見合い! 
白球はポトンと芝生の上に落ちて、スタートを切っていた2塁ランナーが一気に生還し、外大西が勝ち越しに成功。
センターもライトも、ちゃんと打球に追いついて落下点に入っていただけに、悔やまれます。どちらかが、ひょいと手を差し出せばキャッチできたようにも見えたけれど(と気軽に言ってみる)。


しかし8回裏、京都すばるの攻撃は、ノーアウトでランナーが1塁に出て、反撃ムードが高まります。
次の打者は内野ゴロを打ってしまいますが、これがWプレーを狙った守備のフィルダースチョイスを誘って2塁・1塁ともセーフ。一気に逆転ムードも漂ってきました。

この局面で、外大西はエースの本田投手をマウンドに送ります。ここまで本田投手を温存していたのだから、大したものです。
次の打者は送りバントを決めて、1アウトでランナー2塁・3塁と、すばるのチャンスは拡大。しかも、打順はトップに戻って、好調の稲川選手。
ここで外大西の守備は「満塁策」をとって、稲川選手は敬遠されます。

敬遠の投球中、京都すばるの応援席からはブーイング…というか、
「こらぁっ、本田(投手)!」
みたいな野次が飛びました。
(注…応援に来ていたすばる高校の生徒たちは、そんな野次は飛ばしません。こんな野次を言うのは、おっさんです、おっさん!)

で…、1アウト満塁になって、次の打者が内野ゴロを打たされて、最悪のゲッツー! ジュジュジュン…。
外大西の狙い通りに、抑えこまれた形でした。
これで勝負あった、ですね。


私は、京都外大西にも京都すばるにも縁もゆかりもないので、どちらが優勝しようと別に構わないという立場なのですが、京都代表として甲子園に行くわけだし、全国大会では外大西を応援しようと思います。



らんでん、再び

2007年07月22日 23時44分26秒 | 鉄 道
「らんでん」の、御室仁和寺駅で写した一枚です。
帷子ノ辻~北野白梅町間を結ぶ「北野線」にある駅です。

以前にも嵐電ネタを投稿したことがあったと思いますが、今回もまた業務上青年部会広報紙資料(原稿ねた)として使うための特写です。(特写って…)
要するに、これは取材です。電車に乗って遊びほうけているわけじゃな(もうええ!)

全身「スポンサー広告」の電車が、駅を発車していくところです。

北野線は、一部区間を除いて単線です。
なかなか風情のある路線です。

「風情って、なんや?」
と訊かれても困るけれどな。

たいへん興味深い線区です、と。



せいかの車窓から

2007年07月21日 23時45分11秒 | 鉄 道
きょうは、近鉄京都線の西大寺→新田辺間で「国際会館ゆき急行」に乗りました。S華町の住民としては風変わりな乗車区間です。(S華町を通り過ぎとるがな…)

車両は、近鉄電車ではなく、銀色の地下鉄電車でした。10系と呼ぶんだったか。
車内が空いていたので、出入口扉の上にある電光案内板を写してみました。
地下鉄の車両なのですが、近鉄線内でも次駅(停車駅)案内をきちんと表示してくれています。


しかし、「国際会館ゆき急行」って、名前が長くて言いにくいですね。

これを縮めて、『国急』と呼ぶ省略表現もあるみたいです。
「こくきゅう」と読めば良いのかな。「くにきゅう」のほうが言いやすい気もしますね。でも、「くにきゅう」と読んだら、元の言葉が分かりにくくなるか。

縮めて呼ぶなら、『国際急行』っていうのも悪くないかもしれません。
ちょっと、ごっつすぎる呼び名かな?

意外と通用する簡単表現に、『直通急行』という言葉があります。
正式な列車種別名ではないので、現場の車掌さんはそういう表現は使いませんが、意味の分かりやすい言葉だし、便利な表現です。


スーツ姿をビシッときめて仕事へ向かうとき、駅のホームで時刻表を見上げながら、

「次の〝国際急行〟で行こう!」って言うよりは、

「次の〝直通急行〟で行こう!」のほうが良いかな…、やはり。



また雨

2007年07月20日 22時38分48秒 | それゆけスペース

また雨が降っています。
あしたも雨みたいですね。
梅雨が明けない…。

さて、三菱ミニカの「セダン型」が生産終了になったとのことで私も寂しく思っていたのですが、このたび「バン型」に新グレードが設定されたようです。「ミニカ」というクルマ自体は消えないのですね。
ミニカは永久に不滅です…やな。

新グレードは、「ミニカ・NATTY」(ナッティ)と言うそうです。
これが、バン型の最上位グレードになります。


↓三菱自動車ホームページ
http://www.mitsubishi-motors.co.jp/

「カーラインアップ」から「ミニカ」へGO!
もはや、<商用車>の欄に組み込まれてもおかしくなさそうですが、今のところは<軽自動車>の欄で紹介されています。



少し変わりました

2007年07月17日 22時23分29秒 | 日記・雑記

おおっ! ブログタイトルの上に、なんだか〝一行〟増えましたぞ。
「ウェブ検索」の窓とか…。
ブログ画面の印象が、少し変わりました。

ヘッダーみたいな冒頭の一行ですが、これは、gooブログの標準装備として、どのテンプレートにも設置が進められているようです。ブログを書いている本人の好き嫌いに関わらず、設置されるのです。

『とうとう、私のブログにも来たか…』

という感じです。


「ランダムブログ」というのは、ランダムに誰かのブログへ飛ぶっていうことですか? 実際にクリックしてみたのですが、全然知らない人のブログ画面が出てきたものだから…。



地震ですね

2007年07月16日 18時00分03秒 | 日記・雑記
またもや、大きな地震が発生しましたね。

さきほど夕方に、近畿地方だけ揺れる地震もあったみたいで。
私は家にいましたが、グラッときたものだから、

「新潟の余震で、京都も揺れているのか!」

と思いました。

台風とか地震とかのニュースで過ぎ去った三連休でしたね。
きょうは祇園祭の宵山?

うーん…、なんか、お祭り気分が盛り上がらない感じです。



もう14年になるのか

2007年07月13日 21時49分31秒 | クルマ
私が運転免許(普通車)を取得したのは、平成5年6月末のことでした。

今年はすでに6月が終わってしまいましたが、7月のカレンダーを眺めていると、免許を取得できて喜んでいたあの頃を思い出します。
もう14年も経過したのですね。

運転免許を取得したとき、私は学生で、山口県下関に住んでいました。
めでたく免許を取得したその日の晩に、早速、大学の友人と一緒にドライブに出かけたことは、よく覚えています。その友人がクルマを持っていたので、私も運転させてもらいました。(My初心者マークを持参して乗車)

ドライブと言っても、家の近所を〝ちょこちょこ〟っと走る程度ではありません。
広島まで行きましたから!

免許を取得した当日の晩に、下関から広島までドライブです。
地図を見てもらえばいいのですが、けっこう距離があります。
よくもまあ、やったものだと思います。
高速道路は使わず、ひたすら一般道を走ったものです。



免許取得に向けて私が通った教習所は、北九州市門司区の「関門自動車学校」というところでした。
「ホームページがあるかな?」と思って調べてみたら…、おやおや、現在は名称が変わっているみたいですね。

↓私の〝母校〟です。
  もと関門自動車学校、現在は「アイルモータースクール関門」のHPです。
http://www.ill-ms.com/kanmon/index.html



新エースカー (昭和38年)

2007年07月07日 13時16分13秒 | 近鉄特急
『新エースカー』

車両系式:11400系
登場初年:昭和38年(1963年)
全廃車年:平成9年(1997年)
製造両数:45両(3連×15本)


 昭和36年(1961年)に颯爽と登場した10400系(旧エースカー)は、古びた旧型特急車で運行されていた「乙特急」に新風を吹き込み、乗客に喜ばれたようです。ただし、車両数の関係から、全ての乙特急を10400系でカバーするのは無理だったので、不足を補うために旧型特急車の運用も依然として残っていたようです。

 そこで、残存する旧型特急車の淘汰と、乙特急のさらなる増発を図るため、昭和38年(1963年)に11400系「エースカー」が登場しました。
 この時期、特急輸送の充実化のために、次々と新型車両が造られたのですね。当時の日本経済と同様、近鉄特急も着実に成長路線を歩んでいた頃なのだと思います。一方で、戦後の混乱期を駆け抜けてきた旧型特急車たちは、これを機に「急行・各停」用途の一般車に格下げされる運命となったのです。

 11400系「エースカー」は、昭和38年に3両編成×10編成(30両)が登場し、続いて、昭和40年に3両編成×2編成(6両)と、2両編成×3編成(6両)が増備され、10100系(新ビスタカー)と並んで当時の近鉄特急を支える大きな勢力に成長しました。10400系(旧エースカー)の量産編成と呼んでも良さそうな車両でしたが、「11400系」という新しい系式を名乗ることになりました。モーター出力や空調方式に10400系との違いがあったようなので、系式を区分するほうが良かったのかもしれません。

 10400系が4両編成を1単位としたのに対し、11400系は3両編成で1単位という仕組みでした。しかし、全ての車両に運転台を装備し、最短の2両編成から自由に車両数を調節できる、という器用さは受け継いでいました。さまざまな場面で適切な輸送力を発揮する「エースカー」の本領ですね。

 昭和40年に増備された編成のなかに、2両編成の〝短いエースカー〟が3編成含まれていたことは、私も詳しく知りませんでしたが、昭和44年に、これら2両編成に1両ずつ先頭車が付け足されており、これによって11400系は全編成が3両編成に統一されたとのことです。従って、同系の最終的な両数は、3両編成×15編成(合計45両)となりました。
 ちなみに、2両編成バージョンを3両編成化するときに造られた〝増結先頭車〟というのは、昭和44年当時に製作中だった12200系(後述)の先頭車両に準じた形状となり、本来の11400系とは異なる顔に仕上がったのが特徴です。つまり、3両編成の前と後ろとで〝顔が違った〟わけです。
 そう言われれば…、確かに、前後で顔の違う編成が走っていましたね。私も実物を見た記憶があります。

 10400系と同じように、11400系も、車両更新や内装のグレードアップを受けながら大事に使われた車両でした。後年は、中間車の運転台が撤去されて3両固定編成になったほか、前面の特急マークが字幕式の行き先表示機に改められるなど、「デビュー当時の姿とは雰囲気が変わった」と言われています。
 けれど、私が自分の目で見て記憶している11400系は、この〝後年の姿〟にほかなりません。デラックスな印象は無かったけれど、必要十分な装備を持ったシンプルな特急車でした。

 近鉄特急の車両史において、この11400系を呼ぶときは、『新エースカー』というのが一般的です。
 10400系(旧エースカー)とともに長きにわたって活躍し、平成5年(1993年)から順次引退が始まり、平成9年(1997年)までに全ての編成が姿を消しました。



(↑) 1989年4月4日、京都線の木津川鉄橋付近で写した11400系です。
  当時のことなので、
  『珍しくもない電車が走って来たな…』
  ぐらいの気持ちで写した1枚です。
  シャッタースピードが〝なってない〟ですね。

 例によって曖昧な記憶ですが…、
 11400系と2両編成の特急車を連結した「5両編成」っていうのが、当時は京都線にも走っていましたよね? あの頃は、18200系や18400系(いずれも後述)といった2両編成の特急車がたくさんありましたからね。
 大阪線では11400系と4両編成をつないだ「7両編成」も走っていたと思います。

 11400系の引退以後、近鉄特急には「3両編成で1単位」という系式がありませんから、3両・5両・7両といった〝奇数〟の両数で走る特急列車も無くなってしまいましたね。


◎画像追加

↑上の画像とまったく同じ場所での撮影。
 これも1989年の記録です。これは秋ごろだったかな。



無理な頼み

2007年07月03日 23時07分46秒 | 日記・雑記
まだ比較的最近の某日、昼前に「なか卯」へ行ったときのことです。

ひとりの女性が店の中に入ってきました。
彼女は、食券販売機をスルーして、カウンター越しに直接店員に話しかけました。

「1万円(札)を、両替してもらえないか?」と。

少し苛々したような口調に聞こえたので、私もちょっと気になりました。
見ると、彼女の手には1万円札が握りしめられています。

だけど…、
『この店で両替は、無理だろう』
ってなことを思いながら、私はそれとなく様子を見ているだけ。

「駐車場の精算機が、この1万円札を受け付けてくれないから!」
みたいなことを、店員に訴えています。
やっぱり、苛々しているのですね。

お店の隣にコインパーキングがあるので、そのことを言っていたのでしょう。
クルマを出したいのに自動精算機が1万円札を受け付けてくれない、だから、両替してくれと、店に入ってきたわけですね。本当に苛々しておられました。


「(店の)隣の駐車場ですか?
 ああ…、あれはウチ(店)とは関係ないので、両替できません」

と店員が言ったものだから、女性の苛々は極限に達したみたいで、

「もうっ!どうしたらいいのよぉ!!」

と吐き捨てるように言い残して、足早に店を出て行ってしまいました。


『近くにコンビにもあるし、ジュースでも1つ買って、釣りをもらえばいいのに…』
と、私はそう考えてしまうほうなので話にならないのですが、よくよく考えてみたら、いまや1万円札をふつうに両替してもらえる場所というのは無いのかもしれませんね。ニセ札を両替する事件もありましたからね。


しかしながら、店員のひとことも、別の言い方があったのではないかと思います。
断るのは構わないと思うのですが、気持ちよく断ってほしいですね。

『両替できなくて、ごめんなさい!』

という気持ちを言葉に乗せないと、言われたほうはやっぱり不愉快です。
食べにきた〝客〟ではないのは承知のうえですが、一応、店の中に入ってきた人ですから、気持ちをこめて応対しなければならないと思います。

そういう対応を、このタイプのお店に求めるのは酷ですかな。



N700系を見た…!

2007年07月02日 22時26分41秒 | 鉄 道
きょう、N岡京市の〝いないち〟を通ったのですが、それと並行している東海道新幹線の高架を、ちょうど「N700系」が通過していくのを見ました。
本当にたまたま。偶然のであい。
画像は、ありません。

同系が営業運転に入ってから実際に目撃したのはこれが初めてです。まだ2日目ですけれどね。
N700系は、外見上の特徴として、出入口扉の横に掲げられた「号車番号の札」(シール?)が大きいサイズなので、〝線路際〟で眺めていてもすぐにそれだと分かります。

きょう私が見たのは、東京行き「のぞみ」。
現場通過が午後3時すぎでしたから…、東京駅に17時30分に着くやつですね。

さて、私がN700系に初乗車できるのは、いつのことになるのだろう。



あおぞら号 (昭和37年)

2007年07月01日 17時29分36秒 | 近鉄特急
『あおぞら号』(団体専用ビスタカー)

車両系式:20100系
登場初年:昭和37年(1962年)
全廃車年:平成5年(1993年)
製造両数:15両(3連×5本)
※昭和38年「ブルーリボン賞」受賞車両(近鉄第2号)


 10400系(旧エースカー)がデビューした翌年-昭和37年(1962年)に、20100系「あおぞら号」が登場しました。
 20100系「あおぞら号」は、伊勢方面への修学旅行輸送を主な目的として製造された、私鉄では極めて珍しい〝団体専用車両〟でした。臨時列車の運用で一般客を乗せて走ったこともあったようですが、基本的には団体貸切運用を本業としていた車両です。(デビューからまもない頃に、同系が臨時特急に使われたこともあったそうです。)
 団体用という特異なポジションにあった同系ですが、近鉄の車両史では「特急車」の分類で紹介されることが多いです。本稿もそれにならって、簡単に記しておきます。

 20100系「あおぞら号」は、3両編成が5編成(合計15両)造られました。
 『ビスタカー(二階建て)で修学旅行に行きたい!』という子供たちの願いを叶えるために、「全車二階建て」という大胆な設計になったのが特徴です(但し3両編成のうち中間1両の一階部分は機械室に充てられ、乗車は不可だった)。
 10100系(新ビスタカー)や、のちの30000系(ビスタカーⅢ世)の車体にもデザインされた「VISTA CAR」という銀色の横文字マークは、この20100系の車体にも付けられていて、団体専用車ながらも「ビスタカー」の一員に加えられていた車両でした。
 車内は、二人掛け&三人掛けによる横5列式の固定クロスシートが採用されて、3両編成での座席定員は398人を数え、これは平床式構造の10400系(旧エースカー)3両編成と比較すると倍以上の収容力でした。そのほか、救護室(乗車中に気分が悪くなった場合などにゴロンと横になれるスペース)や冷水機の装備もありましたが、オール二階建てという構造上、冷房装置(クーラー)は付いていませんでした(取り付けるための空間的余裕が無かったのかも)。
 全車二階建てのインパクトで注目を集め、昭和38年に、近鉄電車としては二度目となる「ブルーリボン賞」に輝きました。

 20100系が登場した当時、伊勢エリアの近鉄線は宇治山田で終点だったようですが、その後、鳥羽・賢島への乗り入れが実現し、また、奈良電気鉄道の合併によって京都線が誕生するなど、近鉄の路線網は一段と拡大して、団体輸送の範囲も広がりました。
 20100系は最後まで団体用という立場で走りぬき、平成5年(1993年)までに全車両が引退しました。私の記憶は曖昧ですが、確か、平成5年まで残っていたのは1編成だけで、ほかの4編成は、平成元年(1989年)に行われた「さよなら運転」を機に一足早く引退したのではなかったかと思います。いずれにせよ、長きにわたって活躍した車両でした。
 「あおぞら号」が引退したのち、その役割は「あおぞらⅡ」や20000系「楽」に受け継がれて今日に至っています。



↑こんな写真しか無いのですが…、
私の手元にある、数少ない「あおぞら号」の写真です。
1988年11月3日の午前中に京都線大久保駅で撮影したものです。
待ち構えていたのではなく、たまたま遭遇したワンシーンです。

しかし、この日付(撮影日)は、伝説の「ふらり旅」の日ですな。
これを写したのが大久保駅でしょう?
このあと、私はふらふらと、近鉄電車で名古屋まで行くことになるのです。
行ったは良いけれど、名古屋から帰ってくるのが大変だった…。



◎画像追加


↑古いアルバムから出てきた一枚。1990年ごろの撮影だったか。
 奈良線の東生駒駅ホームで撮影していたら、偶然にやってきた「あおぞら号」です。(回送)
 待避線に入って、後続の定期列車に先を譲ってから発車してゆきました。