ダンポポの種

備忘録です

服部緑地への遠足

2007年06月30日 23時23分51秒 | 備忘録
西宮で過ごした小学生時代の思い出。

  ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

4年生のとき、遠足で「服部緑地公園」(大阪府豊中市)へ行くことになった。

『いつもの遠足と同じで、きっと、貸切バスで行くんだろうな…』

と、私は勝手に予想してみたけれど、意外にも担任の先生は、

「今回は、電車に乗って行きます」

とおっしゃった。

私は、なんだか嬉しかった。


先生の説明によると、学校の最寄り「今津駅」から、服部緑地の最寄り「曽根駅」(阪急宝塚線)まで、全行程を阪急電車で移動する計画だった。ただし、行きも帰りも〝宝塚経由〟の乗車ルートが示され、私は「ずいぶん遠回りして行くのだな…」と内心驚いたことを覚えている。
今津~曽根間を宝塚経由で移動するのは、あまり一般的ではないだろう。西宮北口で神戸線に乗り換えて、十三から宝塚線に入るほうが、断然早い。

…とは言うものの、自分が普段乗る機会がない阪急宝塚線にたくさん(=長い距離)乗れるのは楽しそうに思えたし、遠回りして目的地へ向かうのも面白そうだと思った。要は電車に乗れるのが嬉しかったのであって、私は遠足を心待ちにした。

けれども、遠足当日は文句なしの「雨」となり、服部緑地行きは中止という結末であった。

   ◆          ◆          ◆


学年が上がって、5年生1学期の遠足では、行き先が再び「服部緑地公園」になった。
或いは、先生方も、新たな行き先を考えるのが面倒臭かったのかもしれない。

再び発表された計画は、今津から曽根までを阪急電車で移動するのは前回と同じだったが、今度は、行きが十三経由、帰りは宝塚経由、という内容になっていた。
これまた興味深い。
すなわち、今津→西宮北口→十三→曽根→宝塚→今津という行程になる。そのとおりに路線図をたどってみれば分かるが、阪急の路線図の中で〝環状〟をなしている部分をぐるりと一周してくる格好になる。

興味深いと同時に疑問に思った私は、なぜ往復とも十三経由にしないのか、担任の先生に尋ねてみた。

先生の返事は、こうだった。
「西宮北口や十三は、駅の規模が大きいから、大勢(団体)での乗り換えが大変であること」
「神戸線の特急電車は混雑するので、団体での乗車が難しいと予想されること」
などの理由から、そもそも十三経由には消極的だという、舞台裏の事情を教えてくださった。

5年生の児童およそ200人が参加する遠足行事なので、担任の先生方も引率上の作戦をよくよく練ったうえでルート決定されたのだろう。


「5年生になって、君たちも体が大きくなったし、片道ぐらい神戸線に乗っても大丈夫だろう!?」(=神戸線の特急電車内の混雑に耐えられるだろう、の意)
…と、先生方はおっしゃって、片道だけ十三経由で移動することになったが、それが「行き(往路)」であった理由は、十三駅での乗り換えの便にあったようだ。
つまり、西宮北口から十三経由で曽根へ向かう場合、十三駅での乗り換えは同一ホームの平面移動で済ませることができる。けれど反対に、曽根から十三経由で西宮北口へ向かおうとすると、十三駅では階段通路を通って別ホームまで移動しなければならない。
帰り(復路)が宝塚経由だった理由は、そこにあったのだろうと思う。

さて、遠足当日は、今度こそ青空となって、予定通りに服部緑地へ出かけることができた。
行程表の通り、往路は十三経由、復路は宝塚経由で、阪急電車の〝環状ルート〟をぐるりと辿った。

心配の種だった往路の神戸線では、児童200名、特急電車に乗り込むことができて、十三までのひとときを頑張って耐えたものである。梅田ゆき特急にとっては単なる途中停車駅にすぎないので、西宮北口では速やかな乗車が、そして十三では速やかな下車が、求められた。引率の先生方には、気が抜けないひとときだっただろうと思う。

服部緑地公園で何をして過ごしたか…という肝心な記憶が残っていないが、往復の電車のことだけはちゃんと覚えている。


(終わり)



新店舗、その名は…

2007年06月29日 19時29分20秒 | うちの近所
なんと、京田辺市の三山木駅前(府道22号沿い)に、「まいどおおきに食堂」がオープンする模様です。
建設工事が始まったのは最近のことですが、私も府道を通るたびに、『店舗らしきものを建設しているなぁ…』と思っていたのです。
すでに店の看板も取り付けられていて、開店まぢかの雰囲気です。

看板には、「京田辺三山木食堂」と書かれています。
まいどおおきに食堂のHPを見たら、7月11日がオープン日のようです。
もうすぐだな。

今どんどん増えている店みたいだし、会社に勢いがあるのでしょうね。
場所的に牛丼チェーンが出店してくるのか?と思ったのですが、一本取られたという感じです。

きっと、私も食べに行くのだろうなと思います。
なか卯、すき家と並んで〝ローテーション入り〟は間違いない予感…。



宣伝チラシがきた

2007年06月28日 17時19分09秒 | クルマ
トヨタ「VOXY」が、新モデルになったようですね。
ウィッシュ号(ウ号)で世話になっている販売店から宣伝チラシが送られてきたので知りました。そういえば、今年モデルチェンジするっていう噂でしたかな。

チラシの写真を見る限り、なんだか〝怒ったような〟顔つきですね。
ヘッドライトの形からくる印象だと思います。
つりあがった目…、今はこういうのが流行りなのでしょうか。
VOXYはともかく、NOAHは、今までの「優しい眼差し」からちょいと印象が変わったように思います。実物を見て、私の目が慣れてきたら、また感想は変わってくると思うのですが。

送られてきたチラシには「ご購入プランのご提案」まで載っています。
まあ…VOXYみたいなカタチの車にも一度乗ってみたい、という気もするのですが、いよいよこのカタチになってくると、それ相応の〝乗組員〟(人数)が揃っていないことには「もったいない」気がします。
ひとりで乗っていてもねぇ…。

わが家では、今後も「ウ号」が続投します。



架線事故

2007年06月22日 22時41分09秒 | 鉄 道
きょうは、JR宇都宮線で架線事故があったとのことで、長時間にわたって電車がストップしたそうですね。私は、昼のニュースで知りましたが、先ほどの夜のニュースでも詳しく報じられていました。
いつもながら、首都圏の電車がストップしたときのニュース映像には「長蛇の列」がでてきます。快晴で太陽ぎらぎらの日だったら、さらに厄介なことになっていたかもしれませんね。

日々、ものすごい人数の通勤通学客を運んでいる「JR」の使命というか責任は、非常に大きいものだなと実感します。



『思い出色のバス 1950~1960』

2007年06月19日 23時04分42秒 | 本・雑誌
カラーで甦る昭和中期のバス
『思い出色のバス 1950~1960』

著者:河村かずふさ(写真)・鈴木文彦(解説)
発行:㈱ネコ・パブリッシング
2006年12月31日初版発行
価格:本体2286円+消費税


先日、書店で見つけたもので…買ってしまいました。
昔のバスの写真(天然色)がたくさん載っている本です。
全国各地のいろいろなバスが載っています。

私自身は、子供時代にも「ボンネットバス」には乗ったことがないので(そういう世代です)、写真で見ても特に懐かしさはこみ上げてこないのですが、『昔は本当にこういうバスが走っていたのだな…』と感銘を受ける1冊です。



生産終了?

2007年06月18日 23時32分14秒 | それゆけスペース
驚きの発見をしました。

何気なく三菱自動車のホームページを見ていて、ふと気づいたのですが、なななな…なんと、「ミニカ・セダン型」が生産終了になったようですね。

現在は、〝在庫車のみ〟の販売体制になっているようです。
業務用のバン型は、生産が続くのでしょうか。

うーむ、私は絶妙なタイミングで購入したわけですな。

三菱…、もうこのスタイルの軽自動車は出さないのでしょうかね。
うちのミニカ号は走り出したばかりですが、大事に乗らねばならんと思います。

「ダンポポさん、もう部品が無いですよ」
と言われるまでしつこく乗り続けようか。



(参考)
↓三菱自動車のホームページです。
http://www.mitsubishi-motors.co.jp/

「カーラインアップ」の中から「ミニカ」をクリック!
ミニカの紹介ページにて、「グレード・価格」のところを開いたら、その旨の注釈が記載されています。




自転車で、電車ごっこ

2007年06月16日 23時03分35秒 | 備忘録
 まずは、宮脇俊三氏の著書からの引用…。

『自分だけの密かな楽しみ、しかも親しい友達にも知られるのを憚るような秘めごとがあって、内心忸怩としていると、思いがけず同好の士に接し、ほっとすることがある。
 先日、「鉄道ジャーナル」誌の編集長の竹島紀元さんと酒を酌んでいるうちに、ふと「自転車ダイヤ」の話が出て、私だけではなかったのかと安堵した。竹島さんも子供のころ、それをやっていたというのである。
「自転車ダイヤ」という用語はないけれど、要するに自転車を列車に擬し、時刻表を作成して、それに従って走らせるという遊びで、時刻表を読み耽っているうちに、とうとうそんなことを始めたのであった。
 起点と終点は自宅の門前、途中駅は電信柱やポストや公衆電話のボックスなどである。
 列車の種類は、普通、準急、急行、特急の四種類で、時間の単位は秒であった。
 たとえば普通列車の場合、「自宅発15時38分00秒、K氏邸前電柱着48秒、同発39分03秒……」というふうにやる。時刻表の紙片を左手に持ち、父親の古い腕時計をハンドルにはめ、寸秒たがわず着発することを旨とした。
 電信柱で停車していると、通りがかった近所の人が変な顔で見るので恥しかったし、ローカル線に見立てた路地の奥で折り返しの発着時刻を待つのも、空巣狙いのようで気がひけたが、とにかく、そういう時刻表ごっこをして遊んだ。』

(以下省略)

【宮脇俊三著『汽車との散歩』の中から「自転車の時刻表」より引用】



 西宮で過ごした小学生時代、私も、自転車を電車に見立てて遊ぶ〝電車ごっこ〟をしたことがある。だから、宮脇俊三氏の著書の中でこの記述に出合ったとき、私も〝ほっとした〟のを覚えている。ひょっとすると、多くの鉄道ファンが経験している遊びなのかもしれない。

「自分だけの密かな楽しみ」として遊べるのはもちろんだが、私の場合、同じように鉄道ファンだった同級生のコニタン(ニックネーム)と一緒に、ふたりで遊んだことも思い出である。
 ふたりでこの遊びをやると、再現できる〝運行シーン〟のバリエーションが増えるので面白かった。私たちは、「特急」と「各停」に役割分担して〝途中駅での特急待避シーン〟を再現して遊んだ。
 いつも遊んでいた公園の前を〝始発駅〟という設定にして、まず「各停」役がそこを出発し、あらかじめ示し合わせておいたルートをたどり、道沿いの電柱や電話ボックスなどを目印にした〝途中駅〟に丹念に停車しながら走る。一方、「特急」役は2分ほど遅れて始発駅(公園前)を出発し、同じルートをたどりつつも途中駅は全て通過し、前を行く各停役を追うのである。

 始発駅から〝5駅〟ぐらい進んだ地点の自動販売機の前が〝待避駅〟の設定で、各停役はここに着いたら路肩ぎりぎりに自転車を止めて、『待避線に入った』ことを表現した。
 すでにその頃には、追い上げてきた特急役が後方間近にまで迫っているのだが、各停役が待避線に入り終わるまで特急役は追い抜いてはならず、もし手前で追い付きそうになった場合は、特急役は〝減速・徐行〟して各停役と一定の距離を保たなければならない、というルールだった。現実の列車運行においても、前を行く各停電車との距離が詰まってしまった特急・急行電車がのろのろと走っている場面がしばしば見られる。
 各停役が待避線に入ったことを確認したら、特急役は加速に転じ、一生懸命ペダルをこいでスピードを上げて〝待避駅〟に突入する。各停役のそばを高速で通過するのが特急役の醍醐味となるのだが、その際、各停役は自転車を降りて待機し、接近する特急役に向かって手を挙げて合図を交わすことになっていた。特急の進路となる通過線の安全を確認する「ホーム監視」の場面を再現していたと言える。これも、実際の鉄道現場ではよく見られる光景だ。

 さらに、コニタンがいつも言っていたのは、
「阪神電車の運転士は、終点に到着するときに〝立ち上がって〟運転している」
ということだった。
 正直、当時の私にはよく分からない作法だったが、この技法も再現メニューに組み込んで私たちは実践した。ルートを走り終えて公園前の始発駅に戻ってきた際には、自転車のサドルから腰を浮かした〝立ち乗り〟の姿勢をとって、最後の停止位置を合わせるように努めていた。
 
 のちに私が知ったところでは、阪神電車では、信号機が「注意現示(黄色信号)」以下の場合に運転士はその場(運転席)で一旦立ち上がることになっているらしい。信号の見落としを防ぐための安全確認動作の一環とされているようで、これは他社では見られない阪神電車独特の流儀である。コニタンが言っていたのは、恐らくこの動作のことであろう。
 実際の阪神電車では、走行中であっても前方の信号機に注意現示が出たら運転士はこの動作をやるようなので、必ずしも「終点駅に到着するときだけ」に限定される動作ではないが、終点駅に着くときは場内信号が注意現示以下の場合が多いから、そう解釈したコニタンの観察力もなかなかのものと言わなければならない。
 もっとも、阪神電車の運転士は、一旦立ち上がったあとすぐに着席して運転を続けるようなので、この点、最終局面で完全に停車するまでずっと〝立ち乗り〟の姿勢をとっていた私たちの解釈はやや滑稽であったと言える。
 
 静々と終点駅に接近し、スピードを失ってふらつく自転車をいさめるように立ち乗りして、微妙なブレーキ操作で停止位置にピタリと合わせたら、乗務完了である。
 そんじょそこらの〝電車ごっこ〟とは一線を画していたものと自負するが、さて、いかがなものか。


(終わり)



振り向けば蜂

2007年06月11日 19時02分16秒 | それゆけスペース

きょうもミニカ号でお出かけ…でありました。
天気も良かったので、窓を全開にして(前席・後席の全部の窓)走っていたのですが、ふと、ルームミラーに目をやると、リヤゲートの窓に一匹の〝ハチ〟が止まっている様子が映っていました。走行中で風圧が強かろうと思うのですが、クルマの窓に虫が止まっていることは、しばしばありますよね。

『けっこう、大きなハチだな…』
などと思いながら、私は運転しておりました。

でも、よーく見ると何かおかしい。
ルームミラーには、蜂の〝背中側〟が映りこんでいます。

「げっ…、このハチ、車内に入り込んでいるじゃないか!」

運転席のほうへ飛んできたら、ちょっと危なそうです。
窓全開で走ると、こういうことも起こりますわな。

きょうの目的地、郵便局までなんとか走りきって、すぐさまリヤゲートをオープン! すると、迷い込んでわけも分からずゴソゴソ動き回っていたハチは、ぴゅーっと飛んでいきました。
めでたく一件落着。



旧エースカー (昭和36年)

2007年06月10日 17時54分54秒 | 近鉄特急
『旧エースカー』

車両系式:10400系
登場初年:昭和36年(1961年)
全廃車年:平成4年(1992年)
製造両数:8両(4連×2本)

 昭和34年の名古屋線広軌化によって10100系(新ビスタカー)が名阪特急に就役したのを機に、それまで君臨してきた『旧性能特急車』(本稿では扱っていないですが、2250系・6421系・6431系など、ビスタカー登場以前に造られた旧型車両のこと。また、旧性能車ではないけれど10000系「旧ビスタカー」も立場上はここに含まれたみたい)は「準特急」という役割に回ることになりました。ノンストップ便ではなく、沿線の主要駅に停車しながら走る特急列車の誕生です。
 昭和35年には特急種別の呼び名が整理されて、ノンストップ特急(この時期には10100系名阪特急のこと)は「甲特急」、準特急は「乙特急」と呼ばれるようになり、この呼び名は現在も使われています。

 このように特急網の拡充が進められるなか、昭和36年(1961年)に新型10400系「エースカー」が登場しました。
 10100系(新ビスタカー)の弟分的ポジションに入る車両ですが、10400系は当初から「乙特急」での運用が想定されていたので、二階建てや連接構造は採用されず、見た目にはビスタカーのような華やかさは持ち合わせていませんでした。
 背景には、甲特急の10100系と乙特急の旧型車両とで車内設備の格差が〝大きすぎた〟ため、シンプルな構造でも良いから「乙特急向け」の新型車両を投入する必要があったようです。

 10400系は、4両編成が2編成(合計8両)造られました。
 「エースカー」と呼ぶ割りには製造両数が少ないな…という印象ですが、まだ10100系(新ビスタカー)の増備が続けられていた頃だし、一度に〝あれもこれも〟というわけにいかなかったのかもしれません。この時期は、乙特急の運転本数も限られていたようなので、とりあえず、これで良かったのでしょう。
 10100系が3両編成だったのに対して、10400系は4両編成で1編成と数える仕組みでした。とはいうものの、すべての車両が〝運転台付き〟という特徴を持ち、最短は2両編成から、3両編成でも4両編成でも運行できるという器用さを兼ね備えていました。先頭車両はすべて貫通型タイプだったので、兄貴分の10100系と連結運転することも可能で、新ビスタカーに〝お供〟して名阪甲特急に運用されることもあったようです。
 いろいろな場面で、そのとき必要とされる輸送力を発揮できることから、10400系はトランプの切り札にたとえて「エースカー」と名付けられました。デビュー当時から「エースカー」と呼ばれていたそうなので、そういう使い方を意図して開発された車両だと言えるでしょう。

 10400系の登場から2年後、これに改良を加えた11400系「エースカー」(後述)が登場することになります。日々進歩してゆく技術と、使い勝手の良い車両を追求する精神によって、系式がどんどん増えていきます。先述した「新・旧ビスタカー」の場合と同じく、ここでも同時期に「2種類のエースカー」が共存することになり、愛称名に〝新・旧〟を冠して区別をします。
 近鉄特急の車両史において、この10400系を呼ぶときは、『旧エースカー』というのが一般的です。初代エースカーとは、あまり言わないですね。エースカーⅠ世とも言いません。

 シンボル性のない汎用型車両ならではの〝強み〟か、10400系はデビューから30年近く活躍を続け、廃車されたのは平成4年(1992年)のことです。車両更新および内装のグレードアップを受けながら、大事に使われた車両でした。
 後年は4両編成に固定化され、名古屋線~伊勢方面での乙特急運用で活躍していました。京都線へは走ってこない車両でしたが、私は高校時代に伊勢方面へ出かけた折り、この10400系を見たことがあります。せめて写真の1枚でも撮っておけば…、と悔やまれるところです。


あっ、鳥だ! ヒコーキだ! いや…っ!?

2007年06月08日 22時30分01秒 | 日記・雑記
きょうの夕方のテレビ番組(何チャンネルか忘れましたが、関西ローカルの情報番組です)のなかで、視聴者から寄せられたネタとして、

『数日前に、京都市付近の上空を、戦闘機らしきものが爆音をとどろかせて飛んでいったが、一体あれは何だったのか?』
という話題が取り上げられていました。

これ、私も覚えています。
そのとき私はS華町におりましたが、やはり同じように、轟音とともにS華町の上空も飛んでいきました。

テレビ局が自衛隊などに問い合わせたところ、これは、「航空自衛隊奈良基地」(奈良市法華寺町にある)で開催された『基地祭』(お祭り)でのイベントのひとつだったようです。
去る6月2日に同基地が一般開放されて、人々に航空自衛隊への理解を深めてもらおうという趣旨で開催されたお祭りのようです。そのイベントのひとつとして、ホンモノの戦闘機が同基地の上空を飛んだ(デモ飛行)、ということであります。
で…、航空自衛隊といいながら、奈良基地には離着陸の場所(滑走路)が無いので、当日はイベントの時刻に合わせて岐阜県や愛知県の基地から戦闘機が飛んできたそうです。
岐阜・愛知から琵琶湖上空を経て、大津付近から南へ向いて奈良を目指すルートで飛んだので、京都市付近でも場所によってその姿が確認されたのだろう、とのことです。

航空自衛隊では、飛行ルート下にあたる市町村に対して「(そういう趣旨のもと)戦闘機が上空を飛ぶ」旨を事前通告していたそうですが、市町村の対応がさまざまで、必ずしも住民に周知されていたとは言えないようです。
突然の戦闘機飛来に驚いて、問い合わせが相次いだようでもあります。

多くの市町村はホームページに情報を入れていたようですが、私も気づかなかったです。ちなみに、行政発行の広報誌(市民だより)にこの情報を掲載したのは京都府城陽市だけだったそうです。



手首に、蚊

2007年06月06日 20時01分18秒 | 日記・雑記
だんだんと暑さが増してきました。
暑くなると、虫たちも活発に動き始めます。

きょうは、業務先で、蚊にかまれました。

私のほうは〝手をこすり合わせ〟ながら、
『よーし、頑張って業務するでぇ!』
と、業務モードだったのですが、そのとき、手首に、蚊が止まりましてな。

『ううっ…、最悪のポイントに止まりやがった…』
という感じです。

なにせ業務中ですから、私も余計な身動きができません。
見事に、かまれました。
ぷくっと膨れまして、かゆいかゆい…。



新ビスタカー (昭和34年)

2007年06月02日 23時53分16秒 | 近鉄特急
『新ビスタカー』(二代目ビスタカー)

車両系式:10100系
登場初年:昭和34年(1959年)
全廃車年:昭和54年(1979年)
製造両数:54両(3連×18本)
※昭和35年「ブルーリボン賞」受賞(近鉄第1号)


 昭和34年(1959年)に、10100系「ビスタカー」が登場しました。前年(昭和33年)の10000系「旧ビスタカー」に引き続いて、二階建て特急車の誕生です。
 10100系は、10000系の運用経験を活かして製作され、二階建て車両を中心に完成度の高い編成に仕上がりました。また、近鉄の念願だった「名古屋線広軌化(線路幅の拡大)」の完成後をにらみ、名阪直通特急(伊勢中川での乗り換え不要化)での運用を視野に入れた〝量産車両〟となるなど、満を持して登場した感じが強い車両です。昭和34年から同38年まで数回にわたって増備が続けられ、最終的に3両編成が18編成(合計54両)造られました。

 10000系が7両編成だったのに対して、10100系は量産車としての本格運用を考慮して3両編成を1単位とする身軽なスタイルになりました。編成単位では短いものの、当初から先頭車両の形状には「①…流線形タイプ(非貫通型)」と「②…流線形ではないタイプ(貫通型)」の二種類が用意され、
・上本町方が①-宇治山田方が② →A編成
・上本町方が②-宇治山田方が① →B編成
・上本町方、宇治山田方ともに② →C編成
という3種類の編成が計画的に製造、配備されました。
(内訳:A編成とB編成が各5編成、C編成が8編成、存在した。)

 このうち、②の貫通型先頭車を介せば他の編成との連結運転ができ、
A編成+B編成、
A編成+C編成、
C編成+B編成、
C編成+C編成、
の組み合わせによって10100系の〝6両編成〟(3両編成×2本)ができあがる仕組みでした。旅客需要に応じて編成をつないだり切り離したりするのは、現在でも近鉄特急の特徴です。

 10100系は、3両編成のうち中央の1両が二階建てで、それを挟みこむ前後の先頭車両は普通床(平床式)でした。編成内では、隣り合う車両どうしが一つの台車でドッキングされる連接構造が採用されていました。二階建て車両・連接構造とも10000系の運用経験が土台になったもので、特に、セールスポイントの二階建て車両は10000系のドーム型から進化し、平成時代の現在にあっても違和感は無いであろうスマートな形状でした。
 
 昭和34年暮れに名古屋線の広軌化が完成し、10100系が名阪直通特急として走り始めました。伊勢中川でのスイッチ・バック(運転停車扱い)は必要だったものの、乗り換えの不便は解消されて、名阪間が1本の列車で結ばれました。その2年後には中川短絡線が完成し、スイッチ・バックの手間もなくなり、正真正銘の「名阪ノンストップ特急」が誕生しました。
 こうした近鉄電車の歴史に残る数々の場面に、10100系は立ち会ってきたのです。時は、東海道新幹線が開業する前のことで、名阪間の旅客輸送では近鉄がシェアを握っていた頃です。注目を集める二階建て車両も連結していたし、名阪特急での活躍は10100系にとって最高の舞台だったことでしょう。
 東海道新幹線の開業後は状況が変わり、10100系の運用も名阪特急のみに限定せず、他線区の特急にも回されるようになりました。そうした幅広い活躍のなかで、『近鉄特急=ビスタカー』というイメージを世間に定着させたことは、10100系の輝かしい功績だと言えます。

 事故に遭ったあげく短命に終わった10000系とは正反対に、10100系は大きなトラブルに見舞われることも無く快調に走り続け、製造された54両すべてが任務を果たし終えて、昭和54年(1979年)までに〝勇退〟のうえ廃車となりました。
 欲を言えば、年数的にはもう少し活躍を続けても良かったのではないかと思われますが、車両更新によるグレードアップを選ばず、後継の新型車両30000系「ビスタカーⅢ世」(後述)にバトンを渡す形で引退しました。
 去り際も、きれいだったようです。
『10100系さよなら運転』として、A編成+C編成+B編成による迫力の9両編成(ビスタカー三重連)が走り、沿線では多くの人がその勇姿を見届けたといいます。先の10000系との対比という意味もありますが、10100系は『幸せな一生を送った車両』と評されることが多いです。
 ただ…、私は、この10100系(実物)を見たことがありません。10100系の活躍中に私は生まれているのですが、その頃は近鉄沿線に住んでおりませんでした。残念!

 近鉄特急の車両史において、この10100系を呼ぶときは、『新ビスタカー』というのが一般的です。二代目ビスタカー、ビスタカーⅡ世、でも通じますが…。



サカキ・ダイスケ永遠に

2007年06月01日 23時02分01秒 | 日記・雑記
インターネットのニュース情報で知ったのですが、俳優の石立鉄男さんが亡くなったそうですね。
64歳? ちょっと早すぎる…。

石立鉄男さんといえば、TVドラマ『鉄道公安官』が思い浮かびます。メイン・キャストとして出演しておられました。
同ドラマが放映されたのは私が子供の頃ですが、今から20年ぐらい前に再放送があって、そのとき高校生だった私はこれをビデオに録画しました。ビデオテープ2本に10話ほど録画できて、今も手元にあります。

ドラマのなかで石立鉄男さんの役柄は、東京公安室の主任「榊 大介」でした。いい演技をされていました。劇中、公安室の仲間たちからは「主任」と呼ばれる役回りでしたが、唯一、それを「榊」とか「大介」と呼び捨てにしていたのが三橋達也さん扮する「瀬川」室長でした。主任よりも立場が上ということで。
そのほかにも、「本間国雄」役の中条静雄さんなどが出演されていました。

三橋さんも中条さんもすでに亡くなっていますから、いよいよ寂しいことですね。
『鉄道公安官』…、そんなドラマが確かにあったのだと、手元のビデオテープを見つめています。

石立さんのご冥福をお祈りします。