ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

①韓国文学②韓国漫画③韓国のメディア観察④韓国語いろいろ⑤韓国映画⑥韓国の歴史・社会⑦韓国・朝鮮関係の本⑧韓国旅行の記録

日本に漂着した朝鮮船のこと ①1819年鳥取県琴浦町に漂着した朝鮮人たちを描いた掛け軸が機縁となった日韓友好交流公園(風の丘)

2018-07-09 23:55:51 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 4年前に一緒にソウルの美術館巡りをした元同僚I氏から6月14日メールが届きました。「表参道のスパイラルで、添付ファイルの奴を展示してました。写真が下手で申し訳ありません。」とあり、左のような画像が添付されていました。
 何やら、江戸時代頃(?)と思われる、ハングルの文章に10人あまりの人物が描かれた掛け軸のようです。
 私ヌルボ、そもそも「表参道のスパイラル」からして知りませんでした。検索してみると、スパイラルガーデンというところで6月6~17日「近くへの遠回り―日本・キューバ現代美術展 帰国展」というのが開かれていることはわかりましたが、「キューバと朝鮮はまず関係ないよなー」と思って、不明のままホッタラカシにしてました。 
 ところが2週間後の6月28日横浜スタジアムに連れだって野球観戦に行った折、そのメールの写真のことを言われて思い出し、帰宅後再度見てみたら、この掛け軸の説明文の画像も付いていました。(右) つまり、<鳥取県立図書館>蔵の「漂流朝鮮人之図」ということなのですね。
 また、この展覧会について詳しく記したブログ記事(→コチラ)によると、どうも<漂流>というがカリブ海との共通項とのことのようですが、それでも「?」は残ります・・・。

 ・・・といったことを知って、実は私ヌルボが思い出したことがありました。それは数ヵ月前たまたま目にした「鳥取育英高新聞」の記事。2017年4月発行のタブロイド版最終面の大半を費やした日韓関係についての企画記事です(右)。
 韓国に対する高校生たちの印象を訪ねたアンケートも興味深いですが、その下の日韓友好交流公園という私ヌルボの知らなかった所を訪問取材した記事があったので特に記憶に留めていました。
 日韓友好交流公園(風の丘)は県立鳥取育英高校のある北栄町の西隣の琴浦町の道の駅「ポート赤碕」内の公園で、日韓友好資料館・物産館や日韓交流記念碑等の施設やモニュメントがあります。
※→コチラや→コチラに公園の案内や画像いろいろ。
 この公園が造られた契機となったのが、この新聞にも記されているように過去2回この地に漂着した朝鮮・韓国船乗組員を救助したということでした。その2回というのは、
①1819年江原道平海(ピョンヘ)の商船が漂着。鳥取藩は12人の乗組員を保護し、手厚くもてなして長崎まで送り届け、一行は無事帰還した。
②1963年釜山港を出航した巨済島(コジェド)の漁船が漂着。地元民の募金等により船は修理され、乗組員8人は無事帰還した。
・・・というものです。※琴浦町の位置は下の地図の通り。

 冒頭の絵に関係するのはもちろん①の方です。私ヌルボ、船が漂着というとなんとなく漁船のように思っていましたが、当時の記録によると、「イワシと葉煙草を積んで航行する中、1月12日鳥取藩の八橋(やばせ.←公園の近く)に漂着した」とありますね。「その後鳥取に移送され、江戸幕府の漂流民送還制度によって長崎と対馬を経て、9月15日、釜山に戻ってきた」とも。
 考えてみればこの時代の朝鮮で、このようにハングルと漢字で漂流の経緯や感謝状が書けるという人は漁民ではまずいなかった(?)かも。もしかして商人だとしても、なかなか?) ※絵を描いたのは日本人の絵師です。
 で、文章を書いたその人はというと、この絵の描かれている12人の中央でただ一人冠帽をかぶり長キセルを持っている安義基(アン・ウィギ.안의기)という人物。


 次にこの人物図の上のハングルの文を、「丶」(アレア)を「ㅏ」に置き換えて打ち直し、訳してみます。
   죠션국강원도 평해고을 열두 사람니 기모연초 칠일 대풍 뉴래
   (朝鮮国江原道 平海コウル(郡)十二 人が 己卯年初 七日 大風流来)

 最初の「朝鮮」からして今と違う書き方。「열두 사람」ではなく、「열두 사람」となっているのは昔の言い方なのかな?? その他の表記にも気になる点はありますが・・・。
※鳥取県立図書館のサイト内で、謝恩状の日本語訳と「漂流朝鮮人之図」の詳細画像を見ることができます。→コチラ

 ところで、この1819年の鳥取への朝鮮船漂着という出来事自体はとくにめずらしいことではありません。1618~1872年朝鮮人の日本漂着は971件9770人にものぼります。(朝鮮半島への日本船漂着は92件1235人で、件数で10分の1、人数では8分の1と、かなり少ない。 ※池内敏「薩摩藩士朝鮮漂流日記」(講談社選書メチエ)
 その中でこの1819年の事例が注目され、公園まで造られたのは、次のような理由が考えられます。
①漂流民の絵やハングルまで入った「漂流朝鮮人之図」が人々の関心を引きそうである。
②「日韓友好」にふさわしい、なかなか感動的なネタである。(日本人として「気持ち良い」。)
③その点に注目した片山善博知事が環太平洋交流事業の一環として注目し、安義基の子孫探し等を経て公園開設、さらに種々の交流まで積極的に推進した。


 ここまで読んで、「なかなかいい話じゃないか」と思った人はふつうにいらっしゃるでしょう。私ヌルボ、それをけなすつもりは全然ありません。ましてや、たとえば高校生たちの韓国・朝鮮理解を深めたり、友好のきっかけとなるとは、片山知事の業績として評価に値するといえるでしょう。
 しかし光もあれば陰もあるのが世の常。数多くの漂流の事例の中には悲惨なものや腹立たしいものも多々あります。(日本で救助され保護されても、恩を仇で返すように行く先々で乱暴を繰り返した朝鮮人漂流民のこととか。)
 また、考えてみれば、昨年は北朝鮮の木造船が約100隻も漂着しましたが、今の日本人のどれほどが200年前の琴浦の人たちのような「温情」を北朝鮮の漁民に対して持っているのでしょうね? 朝鮮有事の場合、朝鮮人たちが日本に押し寄せてきたら武力で追い払えと主張している人たちもいますが、ごく少数と見ていいのかな? どうかな?
 韓国では済州島にノービザでやってきたイエメンからの難民申請者の件が大きな問題になっていますが、これも関係があるかも・・・。日本にとっても無関係とは言ってられません。
 光と陰といえば、片山善博元知事は韓国語ができるとのことですが(1984年の初の訪韓が契機。)、彼と韓国・北朝鮮をめぐるいろいろについては、ネット上であれこれ批判的に取り上げられてもきたのですね。(「片山善博 韓国」で検索してみてください。)

 ・・・と、やっとここまで書き上げたところで、この「漂流朝鮮人之図」の説明や、漂流民たちの鳥取での日々と当地の人たちの接し方、その後の彼らの帰途、そして1990年県立図書館に長く死蔵されていたこの掛け軸の<再発見>から安義基の子孫探し、鳥取県と江原道との交流等々に至るまで細かく、かつ読みやすく書かれている本は片山善博・剱持佳苗「地域間交流が外交を変える」(光文社新書)であることが判明。ありゃりゃ、です。漂流民の名前のハングル表記(原表記・現表記とも)が12人全員分載っていますが、李さんはやはりではなくになってます。それから片山氏は、上述の安義基の「干鰯を商う商人」という供述に疑義を唱えてますね。「密貿易者だったのでは!?」と推察していますが、はたして・・・。

 今回は一応ここで一区切り。続きは現代の話にするか、同じ1819年に朝鮮半島西岸に漂着した薩摩藩士の話にするか、また別のテーマにするか未定です。



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 韓国内の映画 NAVER映画の人... | トップ | 韓国内の映画 NAVER映画の人... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ」カテゴリの最新記事