ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

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2泊3日の岡山旅行の記録① たまたま出会った宇垣一成陸軍大将の銅像

2019-10-05 09:24:18 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 9月9日(月)~11日(水)岡山に行って来ました。首都圏に住む大学時代の同窓3人が、同じく岡山在住の仲間を訪ねようというのが旅の趣旨です。
 ただ、私ヌルボを含む首都圏の3人は各自ほかの都合もあって、10日午前に現地集合で帰路もそれぞれ別。(・・・というのがイマ風? orウチら風?)

○9月9日(月)
 私ヌルボは9日に発ちましたが、台風の影響でダイヤが乱れることを勘案してキップを買っていなかったのがバッチリ正解! 台風は雨は(自宅辺りは)そんなでもなかったものの、風はまだ強く、昼過ぎ頃でもJRや新幹線は30分以上の遅れ。しかし新横浜14:21発の岡山行ひかりに乗り込んだ時はほぼ定刻になっていました。そして18:19岡山着。

    
 すでに薄暗くなり始め、明日・明後日とあちこち行くので、この日は駅近のホテルの近くで焼きあなご飯を食べて、後はブログ編集作業。

○9月10日(火)
 7時前に起床。仲間との待ち合わせは10時桃太郎像前なのでどこか行けるゾ!と数日前検討した所は岡山縣護國神社。とくに何があるからという具体的な目的があるわけではありませんが、「何かあるだろう」というカンのようなものが働いたので。
 岡山駅前から西大寺行きのバスに乗り、約30分。なだらかな坂を登って行くと、神社の手前から道の両側にポツポツ石碑が建てられています。
 そして「おっ、これは」という銅像が・・・。

    
 宇垣一成(うがき かずしげ.1868~1956)です。[現]岡山市生まれの陸軍大将で、陸軍大臣、朝鮮総督等を務めた人物です。また3度首相候補にも名前が上がりましが、これは実現しませんでした。
 ところで私ヌルボ、宇垣一成のおよその経歴はそれなりに知ってはいましたが、岡山出身ということは知りませんでした。そしてここに銅像があることも。こういう思わぬ出会いがあるのも、下調べをキッチリしてなかったから、かな?
 彼が朝鮮総督を務めたのは1931~36年。満州事変、五・一五事件、二・二六事件等々、軍部の策謀やテロ事件が相次いでいた頃です。
 彼は<内鮮融和>を掲げて皇民化政策を行った一方、農村振興運動等を推進しましたが、(ウィキペディアには)「実効性には乏しかった」とあります。
 農村振興運動といえば、想起されるのが朴正熙が推進したセマウル運動のことです。
 大邱師範学校を卒業した朴正熙は1937年満19歳で聞慶(ムンギョン)公立普通学校の教師になりますが、崔吉城広島大名誉教授によると(→コチラや→コチラ)、その学校が宇垣総督による農村振興運動下で運動の中堅人物を養成する指定校であり、朴正熙も運動の指導者養成の教育を担当したことから、あのセマウル運動の淵源はここにあったと「確信するようになった」とのことです。
 ※崔吉城先生はご自身のブログ記事(→コチラ)によると2013年に宇垣の生家を訪ねておられます。(ヌルボは車で近くを通っただけ。) この記事中に、「宇垣が農村で生まれ田舎の小学校の教師をしてから立身出世を遂げ、陸軍士官学校を出て政治家になったことと朴正煕氏が私にはダブって感じられる。」とあるのはなるほど!です。

 おっと、宇垣一成に深入りし過ぎたな。とても1回で全部は書けそうにないので3回に方針変更。

 さて、社殿の方に向かう前に、第一鳥居の前を過ぎて反対側の一角を眺めると慰霊碑が並んでいるのが見えたので行ってみました。その中に・・・。

   
 「比島海軍戦歿者招魂碑」と刻まれています。その横には「夢にまで見し山川に 別れを告げて幾年ぞ 帰心の涙枯れ果て丶 御身は比島に朽ちるとも 帰れ御霊よ古里へ」と、これは戦没者の遺族の思いでしょうか・・・。
 そして私ヌルボが注目したのは、この招魂碑の前方左右に建てられた2つの碑です。

    
 「朝鮮看護隊」と、「台湾高砂隊」の碑。
 <台湾高砂隊>は、太平洋戦争末期、フィリピンやニューギニア等の密林地帯の戦場に投入された高砂義勇隊のことでしょうか。<朝鮮看護隊>の方はよくわかりませんが、従軍看護婦のこと?
 いろいろ検索してみたら、→コチラは全国の護国神社の説明と写真を網羅した<指定護國神社 参拝記録>というサイト中の<岡山縣護國神社>のページで、驚いたことにここの石碑や銅像等すべての写真と碑文(の多く)を網羅しています。
 そこに私ヌルボが見落とした「比島海軍戦歿者招魂碑」裏面の碑文もありました。

  ここに比島の砂を亡き戦友の御霊として永遠に御祭祀します 太平洋戦争にて散華した比島海軍各部隊の戦歿者及び海軍と運命を共にした日本人韓国人中国人比島人の戦歿者の御霊よやすらかに眠り給え
  1980年8月 建立
 ※以下は碑文副碑
 1944年10月20日 約20万の米軍が比島のレイテ島に上陸し ここに苛烈な比島攻防の火蓋が切られました
 我が聯合艦隊が全軍突撃を以って決戦を挑んだ比島沖海戦も 艦隊航空機多数を喪失し惨敗を喫しました
 爾後 米軍は碑等各島嶼に次々上陸 所在の海軍部隊は陸軍と共同して善戦力闘しましたが 圧倒的な火力の相違と無限とも言える彼等の武器弾薬の補給に対し わが方のそれは無に等しく各部隊とも止むなく山中に立て籠もって遊撃戦に転じました。
 撃つに弾丸無く 生命の糧の塩もつき 草根木皮を食みながら歯を食いしばって頑張った将兵は 米軍の急追と風土病や栄養失調で次々と斃れ 万斛の涙を飲んで異境の土となったのであります。
 この碑は 遺族戦友相謀り 比島海軍関係全ての戦歿者(外国人も含む)約20万の御霊を永遠にお祀りするため建立されました
 尚 毎年8月最後の日曜日に招魂祭を行っております  以上
    比島海軍招魂会


 フィリピン戦は大岡昌平の「レイテ戦記」等や江崎誠致の「ルソンの谷間」に垣間見られるように実に悲惨な戦争で、日本軍兵士だけでも陸軍約38万人・海軍約12万人、計約50万人もの死没者は中国戦線をも上回っています。そんなところに(あるいはもっと南方に)送られた台湾や朝鮮の人たちのことは(日本の戦没者とともに)忘れてはならないと思います。
 (上の碑文で、「韓国人中国人比島人の戦歿者の御霊」まで視野に入っているのは終戦後35年経った1980年だからなのでしょうか。年号の西暦表記についても。)

 朝鮮とは直接関係はありませんが、やはり遥か遠い地で故国に帰れず亡くなった人たちの慰霊碑の中に「満蒙開拓 青少年義勇軍之碑」もありました。

    
 以下はその碑文です。

 我等義勇軍は 天祖の宏謨を奉じ 心を一にして邁進し 身を満洲建國の聖業に捧げ 神明に誓って 天皇陛下の 大御心に副ひ奉らんことを期す
 この言葉に従って昭和13年より昭和20年にいたる8年の間に9萬人の少年達が五族協和王道楽土建設の名のもとに満洲に渡っていった 今その事の是非についての論は置き昭和20年8月15日大東亜戦争の終結によって飢餓と悪疫の流行により阿鼻叫喚の巷と化した満洲に少年達は放置され幾多の同志を失った 幸いにして一命を得て故郷に帰ったもの相語らい空しく逝った同志の上を思い三十余年を経て今ここに満蒙開拓青少年義勇軍の碑を建つ
 1980年9月 義勇軍之碑建立委員会


 これらの慰霊碑や銅像を見たり、その碑文を読んだりすると、その背後に実に膨大な物語があることが実感されます。南や北の遠い戦地で亡くなった人とその遺族、あるいは敵として戦った相手、あるいは現地で暮らしていた人たちのこと等々。そしておびただしい悲劇。そしてそれらのことと今の人たちとの関わり・・・。護国神社はそんなことを考えさせてくれる場所です。靖国神社も(以前行った)ソウルの国立墓地も。

   
 左は護国神社の拝殿等。この手前の第二鳥居を入ったすぐ右手に宝物遺品館がありましたが、10時の開館前だったのが残念。→上記のページを見たら「閉まっていたが、お願いすると気持ち良く開けてくれた」とのことで、中の写真もいろいろ。そうだったのか。右は「岡山県全海軍戦歿者慰霊碑」。写真を照らし合わせてみると、案の定海軍旗(旭日旗)は近年(最近?)取り付けられたことがわかります。

 いかんな、全然旅行記録になってないゾ・・・。

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