ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

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東アジア交流ハウス雨森芳洲庵を訪ねて(2)

2011-03-24 23:51:09 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 2つ前の記事をupした後、雨森のHPがあることを知りました。雨森芳洲庵についても、雨森芳洲の説明とか、雨森芳洲庵のたたずまいや展示物等々のスライドショーが見られます。

 先の記事の最後に記したように、私ヌルボが知りたく思ったことのひとつはこの雨森芳洲庵自体の歴史です。

 今、日本のフツーの大人で、朝鮮通信使のことはかなり知られてきていると思われます。私ヌルボの高校時代(1960年代後半)には日本史の教科書に載っていたという記憶はありませんが(「何が記憶に残っているんだ?」と問わないで!)、80年代以降(?)高校教育を受けた人はたいてい教わっているのではないでしょうか? 受験生用の「日本史用語集」(山川出版社)を立ち読みすると、朝鮮通信使は現在11種類すべての教科書に載っています。しかし雨森芳洲が載っている教科書は4種と半分以下で、受験生の定番「新詳説日本史B」にも載っていません。したがって、雨森芳洲のことを知ってる日本人は100人中5人もいないでしょう。
 それでも、以前よりずっと彼の知名度は高くなっていると思います。だから雨森芳洲庵の訪問者も(たぶん)多いとはいえないまでも相当数いるわけだし・・・。ヌルボが訪れた時は、先客として西宮からの3人連れの方たちがいらっしゃってました。

 1970年代まで、朝鮮通信使とか雨森芳洲に関心を向ける日本人はほとんどいませんでした。というか、本もほとんど出ていないし、知りようがなかったのです。
 一般書では、李進煕「李朝の通信使―江戸時代の日本と朝鮮」(1976年)くらいのものだったのではないでしょうか。(研究書では60年代に中村栄孝「日鮮関係史の研究」がある。←スゴイ古書価!)
 司馬遼太郎が「週刊朝日」の連載「街道をゆく」中で「壱岐・対馬の道」を旅したのが1978年です。
  ※「壱岐・対馬の道」がスタートしたのは1978年2月3日号。8月25日号まで半年あまり続きます。単行本刊行は1981年4月です。
 その中で司馬は雨森など対馬のいかなる郷土史にも出ていないし、いまの対馬の人一般の記憶にはないのではないかと記し、続けてかなり詳しく彼のことを書いています。

 初めてフツーの韓国人に目を向けた画期的な本・関川夏央「ソウルの練習問題」刊行が1984年。その後88年のソウル五輪で、日本人の韓国への関心は急速に高まりました。
 芳洲について書かれた最初の一般書・上垣外憲一「雨森芳洲-元禄享保の国際人」(中公新書.今は講談社学芸文庫)の刊行は1989年です。
 その著者のあとがきには「私が最初に雨森芳洲という人物の存在を意識したのは、もう10年近く前、はじめて対馬を訪問した折、彼の墓所へ韓国の先生に連れられて行った時のことだった。しかし、その後しばらく私にとって芳洲は、朝鮮語のできた、対馬にいた儒者、という以上のものではなかった。」と書かれています。研究者からして、当時はこうだったんですね。

 さて、雨森芳洲庵についてですが、設立は1984年。生地とはいっても、ずっと昔から地元出身の偉人として顕彰されてきたのではなかろうというヌルボの予測は間違いではなかったにしても、上記のような状況を勘案すると早くから着目され、設立されたといってよいと思います。
 その設立の経緯は、1998年館長の平井茂彦さんご自身が(財)あしたの日本を創る協会のふるさとづくり賞・個人の部で内閣官房大臣賞を受賞した際に寄稿した「小さなふるさとづくりから国際交流まで」という一文や、「雨森まちづくり委員会」の報告書に書かれていました。

 1981年、地域の若者が中心となってソフトボール大会を開催したことがもとになってまちづくりに目覚め、その時のメンバーが中心となり、「自分たちのまちを誇れるようにしよう」と組織を立ち上げたそうです。県の助成金等をうまく活用しながらさまざまな取り組みを発展させ、そしてとくに県の進める「小さな世界都市」の取り組みを契機に地元の偉人雨森芳洲に目をつけ、芳洲庵の建設に至ったそうです。
 「昭和56年当時は、滋賀県内でもほとんど知られていなかった郷土の先人の顕彰活動に取り組み、町や県に顕彰記念館の建設をお願いし、区長だった昭和59年(1984年)に町の事業として「東アジア交流ハウス雨森芳洲庵」として建設されました」とのことです。
 先の記事でも紹介した<Yagiken Web Site>によると、1984年に中江藤樹記念館とともに滋賀県の小さな世界都市づくり事業に指定され、その補助金で建てられたということです。
 平井さんの文によれば「町内事情もあって、雨森区で事業費の地元負担金(1戸あたり約7万円)の協力にも努め、この建物を中心としたふるさとづくりを進めることになりました」とありますから、金額から察するに、地元の協力も並大抵のものではなかったようですね。
 芳洲庵のHPの写真にもあるように、1988年以来、韓国の中・高校生を招いて地区でホームステイしたり、逆に日本の生徒たちが韓国にも行ってます。1998年の時点で「1300人をこえる韓国の中学生や高校生が、集落あげての歓迎に大きな感動と友情を覚えて交流を広げています」とあります。また芳洲や朝鮮通信使についての講座や、ハングル学習、国際交流、人権学習、まちづくりなどの講話も行われていています。

 ※2005年平井さんの紹介記事が→コチラにありました。ヌルボが購入した本も、実は平井館長ご自身の著作だったんですね。

    
     【まちづくりに大きな役割を果たしている芳洲先生。】

      
       【バスケットのゴールにも芳洲先生の絵が・・・。】

 「雨森芳洲―元禄享保の国際人」の講談社学術文庫版(2004年)のまえがきで、上垣外先生は「盧泰愚大統領が来日時(1990年)、国会での演説で過去の日韓関係の歴史中、善隣外交の例として芳洲の名をあげた。「当時日本の国会議員の中でも、彼のことを知っていた人は稀であったはず」と記しています。
 たしかにこれ以降、朝鮮通信使に関わるさまざまな情報(本やTV番組等)や各種の催しが増えましたね。
 近江八幡市のサイト中にある<やさしい朝鮮通信使の話>中の記事によると、1994年に韓国の蜜陽市と姉妹提携を結んだ近江八幡市が翌1995年に朝鮮通信使のフェスティバルを開催して大きな反響をよんだ際、近江八幡市と対馬の厳原町(現対馬市)が朝鮮通信使にゆかりのある全国の町によびかけて「朝鮮通信使ゆかりの町全国交流会」がスタートしました。高月町ももちろん加盟しています。
 そして1995年11月厳原町で第1回の全国交流会が開かれたのを皮切りに、昨年福岡県新宮町で開かれた第17回まで毎年交流会が開かれています。→詳細はコチラ。 高月でも第4回(1998年)と第16回(2009年)の2回開かれています。
 ※「朝鮮通信使ゆかりの町全国交流会」の運営組織である朝鮮通信使縁地連絡協議会の加盟自治体は、
 対馬市(←厳原町。事務局)、日光市、静岡市、大垣市、長浜市(←高月町)、近江八幡市、彦根市、京都市、神戸市兵庫区、たつの市(←御津市)、瀬戸内市(←牛窓町)、福山市、呉市、上関町、下関市、新宮町、壱岐市
の17自治体です。
 正直言って、ヌルボが知らない所(上関町等)もあるので、そのうち行くなり調べるなりして記事にします。

 いろいろ調べてみてわかったことは、やはり最初にヌルボ自身感じ取ったように、雨森芳洲庵は単に資料等を展示している施設ではなくて、町づくりの核であり、また看板通りの東アジアの交流の場なんだということ。
 そして、この20年くらいの間に、雨森芳洲に対する関心が学問研究の面でも民間レベルでも高まっていったことと並行して、日韓の交流が広まってきたこと、そうした動きを平井館長をはじめとする雨森の人たちが先駆的に作ってきたこともよくわかりました。

 韓国オタクの一人として雨森芳洲先生個人への興味から訪れた雨森芳洲庵でしたが、予想外のいろんな収穫があった旅になりました。

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