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源具親の孫・唯善(大納言弘雅阿闍梨)について

2020-03-25 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 3月25日(水)17時00分54秒

前回投稿で「具親の息子で禅念という僧になった人物は、浄土真宗の歴史を研究をされている方にとっては特に関心を惹く存在でしょうね」と書いたばかりですが、森氏の論文では、「四、源具親の子孫」の「2 子息禅念と孫唯善」の冒頭に、

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 源具親には禅念という僧になった子もいた。本願寺三世の覚如の生涯を描いた『慕帰絵詞』の第五巻第一段に、「鎌倉の唯善坊と号せしは、中院少将具親朝臣孫、禅念房真弟也」とみえる。真弟とは実の子という意味だから、唯善は禅念の子で、中院少将具親朝臣の孫であったと書かれている。具親には禅念という子もいたのである。
 実は禅念は、親鸞の娘覚信尼の後夫であって、文永三年(一二六六)二人の間に生まれたのが唯善であった。唯善の生年から判断して、禅念は承元元年(一二〇七)生まれの源輔時より年下であったと思われる。禅念は源輔通・輔時の弟であっただろう。ただしその母親は輔時を産んですぐに亡くなった姫前ではない。異母弟であったと考えられるが、母の出自は不明である。唯善は「幼年のときは少将輔時猶子」とも『慕帰絵詞』(第五巻第一段)にあるように、伯父源輔時猶子となった。文永三年の唯善誕生時には、禅念の長兄源輔通はすでに死去しており、このため次兄輔時の猶子とされたのであろう。輔時は朝廷内での地位は高くなかったものの、北条朝時・重時の弟であり、当時朝時・重時はともに故人であったが、北条氏と血縁関係を持つ、無視できぬ存在感があったものと思われる。
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とあります。(p87以下)
ふーん、そんな関係があるのか、とは思いましたが、とりあえず浄土真宗にはあまり興味がないから自分には関係なし、とスルーしていたところ、つい先ほどウィキペディアで「唯善」の記事を見たら、

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唯善(ゆいぜん、文永3年(1266年)- 文保元年2月2日(1317年3月15日))は、鎌倉時代後期の浄土真宗の僧。父は小野宮禅念。母は親鸞の娘覚信尼。幼名一名丸、字大納言弘雅阿闍梨。下総国関宿西光院(現在の常敬寺)の開山。
初めは少将輔時の猶子となり、ついで大納言雅忠の猶子となった。当初密教を学ぶ一方修験道をあわせて修めたが、その後唯円(河和田の唯円)により他力法門に接して浄土真宗に改宗した。異父兄の覚恵に請われて京都大谷に住した。
1303年(嘉元元年)関東における専修念仏が禁止されそうになると、関東にくだりこれを護った。その後、覚恵とその子の覚如との間で大谷廟堂の相続について争い、それに敗れて、親鸞の影像、遺骨を持って、相模国鎌倉に下った。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E5%96%84

とあって、超びっくりです。
「初めは少将輔時の猶子となり」は森論文にもありましたが、「ついで大納言雅忠の猶子となった」は源輔通(1204-1249)の女子が中院雅忠の後妻であったことと明らかに関係していますね。
「字大納言弘雅阿闍梨」も中院雅忠の極官が「大納言」であったことを反映しており、「弘雅」は「雅忠」から一字をもらったものに違いありません。
うーむ。
このウィキペディアの記事には出典が全くありませんが、浄土真宗関係の書物を丸写しにしたような感じがするので、それなりの典拠はありそうですね。
浄土真宗は苦手とはいえ、これは調べざるをえません。
とりあえずは『慕帰絵詞』を見てみますかね。
また、森氏は上記引用部分の後にけっこう大胆なことを言われていますが、それが本当に正しいのかも気になってきました。
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