投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 3月30日(月)12時10分10秒
前回投稿、重松明久『人物叢書 覚如』(吉川弘文館、1887)では「若干のオブラートにくるまれている」と書きましたが、同性愛や男色という言葉を使っていないだけで、内容は同じですね。
重松明久(1919-89)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E6%9D%BE%E6%98%8E%E4%B9%85
同じというより、覚如の経歴に関する基本史料である『慕帰絵詞』や『最須敬重絵詞』の内容を素直に反映していて、より露骨とも言えます。
少し引用してみます。(p16以下)
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五歳ころからはじまる、覚如の修学の概略を、『慕帰絵詞』や、『最須敬重絵詞』等によって記しておこう。【中略】
一三歳の弘安五年(一二八二)夏ごろから、天台学匠の名高かった、竹なか宰相法印宗澄について、天台宗教義を学ぶ身となった。宗澄は天台僧宗源法印の弟子で、法勝寺の東、下河原あたりに禅房をかまえていた。父覚恵が覚如の才能を見込んで、「本寺本山の学業」をとげ、僧官としての栄達を図らせたいとの配慮からであった。
明けて、弘安六年(一二八三)一四歳、宗澄のもとで研学に励む覚如の身の上に、不慮の事件が勃発した。三井園城寺南滝院の右大臣僧正浄珍なる者が、覚如の垂髪の美貌ぶりを聞き伝え、人をやって、下河原の宗澄の房にいた覚如を、誘拐して、自房に連れ来ったという事件である。浄珍は北小路右大臣道経の孫、二位中将基輔の子で、法流は円満院の二品法親王円助の弟子で、智証大師の遺流を伝えていたといわれるので、いわゆる寺門派の僧であった。
真俗にわたり時めいていた、浄珍の房に出入する人から、下河原の宗澄の房にいる、覚如の垂髪の稚児ぶりの目ざましさを聞いた浄珍は、ある時、自坊の若輩らの会合に、酒宴が加えられた席で、覚如誘拐のことを言い出した。その座には、本寺園城寺の衆徒(僧兵)等も数人いたのを棟梁とし、酔のまぎれに、誰れ彼れとなく加わり、若輩三〇余人が、甲冑を帯し、兵杖を手にするという物々しい出で立ちで、下河原の房へ発向した。
ちょうどその時、宗澄は叡山へ登山中であり、房には、留守の者四-五人がいたにすぎなかった。折もよいというので、押入って覚如を馬にいだき乗せ、衆徒が前後を囲んで引きあげたので、留守の連中は手向かいも出来ず、覚如としては、全く突然の慮外の入室ということになった。浄珍は表面穏便でないことだといいながら、心中ひそかに、喜悦の念をいだいていた。
下河原の房から、山上の宗澄へ急告したので、宗澄はとる物もとりあえず下山してきたが、ただ嘆息を洩らすばかりであった。宗澄の房にも出入する衆徒があり、口惜しいことだ、奪い返そうなどと相談していた。しかし宗澄は、こちらの思いを通そうとすれば、きっと闘戦に及ぶだろう。事件が拡大すれば、山(比叡山延暦寺)・寺(三井園城寺)両門の確執として、京中の騒動にもなる可能性がある。当方としては、留守無人の間の出来事だから、たいした恥辱にもならない。覚如の器量こそ惜しいが、仕方がない。自然に離房したということにし、この事件は、絶対に口外してはいけないと、厳に制止を加えたので、衆徒らも静まり、これ以上紛争が発展することもなく、落着した。
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ということで、宗澄側も「留守無人の間の出来事だから、たいした恥辱にもならない」という発想ですから、「甲冑を帯し、兵杖を手にするという物々しい出で立ちで、下河原の房へ発向した」浄珍配下の寺門の衆徒と同種の連中ですね。
従って、「覚如の器量こそ惜しい」といっても、何が惜しいのかは明らかです。
さて、もう少し続けます。
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南滝院での覚如は、浄珍の愛翫をうけること、きわまりなかった。数多い稚児の中でも、阿古〔あこ〕々々と呼ばれて、寵愛をほしいままにした。将来は院家の管領とし、本尊・聖教の附属も約束された。覚恵はこのことを聞き、山・寺両門を経歴させるということは、自らの本意でもなく、そのうえ、南滝院に入室の事情も、穏やかでないと思ったが、それにしても、不思議な宿縁であると感じていた。
浄珍は覚如を伴い、日々酒宴・遊宴をくりかえしており、そのほか、囲碁・雙六・将棋・乱碁・文字鎖など、長時間の遊戯にふけり、覚如の興を誘おうとつとめた。房中の人も、こぞって覚如を称美していた。ややましな行事としては、和歌・連歌の座も設けられたが、学問とよばるべきものは、内外典につけて、全くなかったので、覚如自身としては、このような生活が、味気なく、不本意に思われていた。
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念のため書いておくと、重松氏が史料としている『慕帰絵詞』や『最須敬重絵詞』は、覚如がいかに素晴らしい人物であったかを賛仰するために、大変な費用と手間をかけて作成された絵巻です。
その中で、覚如の高僧との間の同性愛は特に否定的なものとして描かれている訳ではなく、むしろ当時の寺院社会では当たり前の話であることが前提として展開されています。
さて、この後に「小野宮中将入道師具」という人物が登場します。(p23以下)
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さらに同年中に、覚如は、奈良興福寺一乗院の門主、信昭の室に入った。それについても、信昭が覚如のことを知り、これが誘引につとめた経緯がある。覚恵は覚如を、方々経歴させることは好ましくなく、いつまでも、垂髪の身でなく、早く出家得度させたいというので、信昭の申し出を断わり続けた。信昭は覚恵と知音の小野宮中将入道師具に、覚如の誘拐を依頼した。また、この年七月十二日夜、月光をたよりに輿をかかせ、武器を持った大衆(僧兵)をひきつれ、奪い取ろうと計画していたのを、密告する人があり、守備を堅めていたために、成功しなかった。
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前回投稿、重松明久『人物叢書 覚如』(吉川弘文館、1887)では「若干のオブラートにくるまれている」と書きましたが、同性愛や男色という言葉を使っていないだけで、内容は同じですね。
重松明久(1919-89)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E6%9D%BE%E6%98%8E%E4%B9%85
同じというより、覚如の経歴に関する基本史料である『慕帰絵詞』や『最須敬重絵詞』の内容を素直に反映していて、より露骨とも言えます。
少し引用してみます。(p16以下)
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五歳ころからはじまる、覚如の修学の概略を、『慕帰絵詞』や、『最須敬重絵詞』等によって記しておこう。【中略】
一三歳の弘安五年(一二八二)夏ごろから、天台学匠の名高かった、竹なか宰相法印宗澄について、天台宗教義を学ぶ身となった。宗澄は天台僧宗源法印の弟子で、法勝寺の東、下河原あたりに禅房をかまえていた。父覚恵が覚如の才能を見込んで、「本寺本山の学業」をとげ、僧官としての栄達を図らせたいとの配慮からであった。
明けて、弘安六年(一二八三)一四歳、宗澄のもとで研学に励む覚如の身の上に、不慮の事件が勃発した。三井園城寺南滝院の右大臣僧正浄珍なる者が、覚如の垂髪の美貌ぶりを聞き伝え、人をやって、下河原の宗澄の房にいた覚如を、誘拐して、自房に連れ来ったという事件である。浄珍は北小路右大臣道経の孫、二位中将基輔の子で、法流は円満院の二品法親王円助の弟子で、智証大師の遺流を伝えていたといわれるので、いわゆる寺門派の僧であった。
真俗にわたり時めいていた、浄珍の房に出入する人から、下河原の宗澄の房にいる、覚如の垂髪の稚児ぶりの目ざましさを聞いた浄珍は、ある時、自坊の若輩らの会合に、酒宴が加えられた席で、覚如誘拐のことを言い出した。その座には、本寺園城寺の衆徒(僧兵)等も数人いたのを棟梁とし、酔のまぎれに、誰れ彼れとなく加わり、若輩三〇余人が、甲冑を帯し、兵杖を手にするという物々しい出で立ちで、下河原の房へ発向した。
ちょうどその時、宗澄は叡山へ登山中であり、房には、留守の者四-五人がいたにすぎなかった。折もよいというので、押入って覚如を馬にいだき乗せ、衆徒が前後を囲んで引きあげたので、留守の連中は手向かいも出来ず、覚如としては、全く突然の慮外の入室ということになった。浄珍は表面穏便でないことだといいながら、心中ひそかに、喜悦の念をいだいていた。
下河原の房から、山上の宗澄へ急告したので、宗澄はとる物もとりあえず下山してきたが、ただ嘆息を洩らすばかりであった。宗澄の房にも出入する衆徒があり、口惜しいことだ、奪い返そうなどと相談していた。しかし宗澄は、こちらの思いを通そうとすれば、きっと闘戦に及ぶだろう。事件が拡大すれば、山(比叡山延暦寺)・寺(三井園城寺)両門の確執として、京中の騒動にもなる可能性がある。当方としては、留守無人の間の出来事だから、たいした恥辱にもならない。覚如の器量こそ惜しいが、仕方がない。自然に離房したということにし、この事件は、絶対に口外してはいけないと、厳に制止を加えたので、衆徒らも静まり、これ以上紛争が発展することもなく、落着した。
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ということで、宗澄側も「留守無人の間の出来事だから、たいした恥辱にもならない」という発想ですから、「甲冑を帯し、兵杖を手にするという物々しい出で立ちで、下河原の房へ発向した」浄珍配下の寺門の衆徒と同種の連中ですね。
従って、「覚如の器量こそ惜しい」といっても、何が惜しいのかは明らかです。
さて、もう少し続けます。
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南滝院での覚如は、浄珍の愛翫をうけること、きわまりなかった。数多い稚児の中でも、阿古〔あこ〕々々と呼ばれて、寵愛をほしいままにした。将来は院家の管領とし、本尊・聖教の附属も約束された。覚恵はこのことを聞き、山・寺両門を経歴させるということは、自らの本意でもなく、そのうえ、南滝院に入室の事情も、穏やかでないと思ったが、それにしても、不思議な宿縁であると感じていた。
浄珍は覚如を伴い、日々酒宴・遊宴をくりかえしており、そのほか、囲碁・雙六・将棋・乱碁・文字鎖など、長時間の遊戯にふけり、覚如の興を誘おうとつとめた。房中の人も、こぞって覚如を称美していた。ややましな行事としては、和歌・連歌の座も設けられたが、学問とよばるべきものは、内外典につけて、全くなかったので、覚如自身としては、このような生活が、味気なく、不本意に思われていた。
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念のため書いておくと、重松氏が史料としている『慕帰絵詞』や『最須敬重絵詞』は、覚如がいかに素晴らしい人物であったかを賛仰するために、大変な費用と手間をかけて作成された絵巻です。
その中で、覚如の高僧との間の同性愛は特に否定的なものとして描かれている訳ではなく、むしろ当時の寺院社会では当たり前の話であることが前提として展開されています。
さて、この後に「小野宮中将入道師具」という人物が登場します。(p23以下)
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さらに同年中に、覚如は、奈良興福寺一乗院の門主、信昭の室に入った。それについても、信昭が覚如のことを知り、これが誘引につとめた経緯がある。覚恵は覚如を、方々経歴させることは好ましくなく、いつまでも、垂髪の身でなく、早く出家得度させたいというので、信昭の申し出を断わり続けた。信昭は覚恵と知音の小野宮中将入道師具に、覚如の誘拐を依頼した。また、この年七月十二日夜、月光をたよりに輿をかかせ、武器を持った大衆(僧兵)をひきつれ、奪い取ろうと計画していたのを、密告する人があり、守備を堅めていたために、成功しなかった。
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