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「弘安の御願」論争(その10)─結論

2018-05-16 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 5月16日(水)11時27分56秒

東大の「国際総合日本学ネットワーク」サイト内のインタビュー記事で、松方冬子氏(史料編纂所准教授)は、

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私の先生の先生は岩生成一という台北帝大にいたオランダ語を読む先生です。平泉澄は戦争中に国史学科、今の日本史学科を牛耳っていた先生で、その先生はドイツに留学して帰ってきてから皇国史観になったらしい。昔は普通の人だったのに、帰ってきておかしくなったと。だから留学なんかするものじゃないのだよ、留学はするのはよくないことだよ、と、私は学生の時に先輩に言われました。先生にも言われたし。

http://gjs.ioc.u-tokyo.ac.jp/ja/interviews/post/20170303_matsukata/

と言われていますが、1895年生まれの平泉澄が24歳の時に書いた「亀山上皇殉国の御祈願」を読むと、平泉が留学前に既に十分変な人だったことは明らかですね。

http://web.archive.org/web/20150702191658/http://www015.upp.so-net.ne.jp:80/gofukakusa/just-hiraizumi-kiyoshi-kameyamajokou-junkokunogokigan.htm

「弘安の御願」論争は平泉が八代国治を批判した後、八代が反論しないまま間もなく死去したので、平泉らの上皇説が勝利したかのような漠然とした印象を残して事実上終息してしまったのですが、歴史学者としてはそれなりに有能な平泉澄の八代説批判には鋭い点があるものの、自説の積極的根拠はというと、

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 この上皇の御性格を以て、弘安四年の未曾有の国難に遭遇せさせ給ふては、必ずや「誠にこの日本のそこなはるべくは、御命を召すべきよし御手づから書かせ給」ふて、大神宮に祈らせるゝに相違ない。そは個人心理の考察よりして何人も是認すべき所である。かくて予の上皇説はこゝに深き心理的根拠を得たのである。この一項は実に予の上皇説の骨髄である。
 或は言ふかも知れない。右に挙げた「世のために」の御歌は弘安元年のものであつて弘安四年には何等の関係もないと。予は答へる、弘安元年にさへ既にこの御精神でないか、それが国家の運命の危急存亡に迫つた弘安四年にどうして捨命殉国の御祈願とならないで已まうかと。この関係を認めないならば、予の上皇説は著しく其力を失つてくる。或は半崩壊するかも知れない。しかしながら、もしこの必然の理路をしも認めないならば、そは明かに人格の否定であり道徳の瓦解であり、ひいて歴史研究の意義の大半を喪失せしむるものである事を覚悟しなければならない。
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といった具合で、「予の上皇説」の「深き心理的根拠」、「予の上皇説の骨髄」はもともと文学的感性に乏しい平泉の硬直的な和歌解釈であり、説得力はありません。
また、『続門葉和歌集』に載る通海の和歌の詞書について、

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 この詞書は年代を明記せず、また御願の趣をはばかって書いていないために甚だ不徹底であるが、「その御祈が命に関係したもの」であり、この歌は「通海が公家の捨命殉国の御祈願を読み奉つた後に於て、自ら感慨に堪へずして私に国運の隆昌と、玉算の長久とを祈り奉つたもの」と解せられるから、もし「この通海の歌の詞書に見ゆる公家の御祈が捨命殉国の御祈願であり、而して公家が上皇を指し得る事となれば、全体を綜合して、これは弘安四年に通海が院宣を奉じて伊勢に参向した折の事と解せられ」るであろうことは、平泉博士が詳細に考察を加えられたところである。

http://web.archive.org/web/20061006194023/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/just-kojima-shosaku-kouannogogan.htm

と平泉澄に賛成してしまう小島鉦作も、和歌の解釈があまりに硬直的であり、文学的感性に乏しい点は平泉と共通です。
上皇説・天皇説のいずれが正しいのか、更にそもそも平泉澄が「然らば予輩はいかにして上皇説を確立するか。予は茲に三氏の論文と予の研究とによつて得たる命題数個を捉へ来つて、之を一つの論理的系列に配したいと思ふ」と前置きして設定したところの第一命題、即ち「弘安四年蒙古襲来の際に、亀山上皇か後宇多天皇かいづれか御一方が、身を以て国難に殉ぜん事を大神宮へ祈らせられたといふ御逸事」が存在したのか否かの判断材料は『増鏡』以外にありません。
「弘安の御願」論争に現代的意味は乏しいとしても、『増鏡』にしか存在しない記事の信憑性をどのように判断するか、という一般論に引き直せば、これは十分検討に値する問題ですね。
ま、私は、『増鏡』にしか存在しない記事で、その内容が面白いものは基本的に『増鏡』作者の創作と考えるべきだと思っています。
前斎宮エピソードなどの『とはずがたり』との関係をひとまず置くとしても、『増鏡』作者が記事の素材となる史料を勝手に面白く改変した例は沢山あります。
例えば、古来、『増鏡』有数の名場面とされている承久の乱に際しての北条義時・泰時父子の「かしこくも問へるをのこかな」エピソードは、『五代帝王物語』における別の時点での北条泰時・安達義景の「かしこくも問へるをのこかな」エピソードの焼き直しです。

『五代帝王物語』の「かしこくも問へるをのこかな」エピソード
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d39efd14686f93a1c2b57e7bb858d4c9
「巻二 新島守」(その6)─北条泰時
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3d4146484cdebdcd9701adc3d2ee5105

また、『増鏡』は『弁内侍日記』という後深草天皇に仕えた女房の記録を何度か引用しているのですが、幼帝を中心とする親密な関係者しか登場せず、他に参照すべき史料があり得ないようなエピソードを引用するに際して、『増鏡』作者は『弁内侍日記』に存在しない「津の国の葦の下根の乱れわび心も浪にうきてふるかな」という歌を勝手に追加しています。

「巻五 内野の雪」(その9)─弁内侍(藤原信実女)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ccb2bd809899fcfd234c134aab2e658d

こうした『増鏡』作者の基本的態度に照らすと、「弘安四年蒙古襲来の際に、亀山上皇か後宇多天皇かいづれか御一方が、身を以て国難に殉ぜん事を大神宮へ祈らせられたといふ御逸事」の存在自体が疑わしいと考えるべきです。
そして、「弘安の御願」の場合、一番最後に置かれていて、全ての論争参加者が無視している、

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かの異国の御門、心うしと思して湯水をも召さず、「われ、いかがして、このたび日本の帝王に生まれて、かの国を滅ぼす身とならん」とぞ誓ひて死に給ひけると聞き侍りし。まことにやありけん。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ffdd12bf41310b5a6c470aafa47a4577

という記述の存在が決定的だと思います。
旧サイトで検討した際、私は「まことにやありけん」を、公卿勅使が「経任大納言」であるのに「伊勢の勅使のぼるみち」から歌を送ってきたのが「為氏大納言」となっている点に掛けたものと考えてみました。
しかし、「日本の帝王」による「我が御代にしもかかる乱れいで来て、まことにこの日本のそこなはるべくは、御命を召すべき」と「かの異国の帝」による「われ、いかがして、このたび日本の帝王に生まれて、かの国を滅ぼす身とならん」という誓いは、その語彙に共通・類似する部分が多いだけでなく、一国の「帝王」が、かたや「日本」が滅びることを防ぐために自分の命を神に捧げると決意し、かたや「日本」を滅ぼすために「日本の帝王」に生まれ変わることを決意して実際に死んでしまったという具合に、極めて明瞭な対応関係があります。
従って、「まことにやありけん」は、

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大神宮へ御願に、「我が御代にしもかかる乱れいで来て、まことにこの日本のそこなはるべくは、御命を召すべき」よし御手づから書かせ給ひけるを、大宮院、「いとあるまじき事なり」となほ諫め聞えさせ給ふぞ、ことわりにあはれなる。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2e6a966f476cd5f30390c4b2ad108ab8

に掛かっていて、「かの異国の帝」の話が「まことにやありけん」なのだから、「日本の帝王」の話も本当なのかどうか、よく考えてごらんなさいね、と読者に謎を掛けているのではないかと思います。

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