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BY 鈴木小太郎

「石巻市史 第二十七篇 人物 石母田正輔」

2014-03-02 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 3月 2日(日)16時00分57秒

石母田正輔翁の略歴について、今まで石巻ウィキに頼ってきましたが、参考までに『石巻市史 第五巻』(石巻市史編さん委員会、昭和38年)の「第二十七篇 人物」に立項されている「石母田正輔」も載せておきます。

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石母田正輔
 石母田家の祖はもと伊達郡石母田荘の郷士であつたが、伊達政宗に使えて宮城県大沢村芋沢に移つて、三千石の知行を与えられ、代々大番士、奉行職勤仕の名門であつた。正輔は文久元年一月二十五日勘定奉行石母田寛衆の長孫として芋沢に生れ、家父九郎の勧めで師範学校を卒業、教育界へ身を投ずべきであつたが、これを嫌つて新聞記者を熱望し、奥羽日日新聞社へ入社した。然るに薄給生活の資を償うに足らざる故、官界に移つて千葉県龍ヶ崎警察署長となり、次いで島根県警察部長に栄転した。松江日報主幹であった藤原銀次郎と肝胆相照らしたのが、即ち当時のことであつた。日清戦後台湾総督府の民政長官として、新領土開発に大功を樹てたのは後藤新平であるが、石母田は同じ仙台藩のよしみから後藤と、製糖事業を経営中の荒井泰治の推挽をうけて渡台の上、新竹州知事に就任した。同地にあること数年、その間州政の開発振興に貢献するところ多大なものあり、特に本島民の撫育訓練に全力を注いだ結果、恰かも救世の慈父の如く尊敬と信頼を博したという。その後荒井が発起して北海道、札幌に電燈事業を経営することとなつたので、石母田は州知事を辞して渡道札幌電燈社々長に就任した。当時第一水力発電所を設けた場所は定山渓であつたが、電気と共に同地に埋もれている温泉開発に着目し、札幌定山渓間の電車を布設した結果、定山渓温泉が一躍遊覧地として繁賑を呈するに至つた。同温泉の業者は、これを石母田社長の恩恵として、今も深く景慕している。
 大正元年仙北軽鉄の開通と、北上改修の着手によつて、石巻町も漸く開発の曙光に接したが、折柄、町長の人選難という事態に当面したため、町会協議の上、その人選を荒井軽鉄社長に一任、そこで荒井が無理に石母田を説得して町長就任を承諾せしめたのであつた。町長、町会議員、郡会議員、商工会々長、市長としての石母田の公共事蹟は、前篇各章に記述した通り、特に水道事業の完成と市制実現の事蹟はまことに偉大なものあり、石巻町制施行以来歴代町長市長中最高の殊勲殊功を樹てた偉大な人材であつた。
 石母田は武家育ちのため、資性剛毅らい落にして清廉、学殖深く石仏と号して漢詩をよくし、歌句の風流を解し、また書画骨董の鑑識につた。明るかつた。その容貌は偉躯長髯を蓄えて堂々大人の風格があり、万人畏敬の的とされた。市長満期後は住吉の自邸聴潮閣に悠々自適していたが、昭和十六年五月八日、老衰のため瞑目した、享年八十二。遺骨は仙台の江厳寺に葬られたが昭和十八年一六会々員によつて、同藩の先輩漢学の大家国分青崖が石母田に寄せた堅貞石維の詩碑を住吉公園に建てられ、さらに二十八年には市が市制二十周年記念として、その胸像を同公園に建設し、佐藤露江撰、山内習書にかかる左の表章碑文を台座に刻した。

太白山人題 堅貞石維
 金 華 仙 嶽 秀 而 霊  治 不 誇 功 士 典 型
 記 昔 江 楼 同 被 臥  潮 声 鞺 鞳 夜 闌 聴
 憶 倒 金 尊 唱 鳳 兮  間 来 大 志 托 幽 棲
 浮 雲 冨 貴 須 臾 事  不 説 牛 刀 且 割 鶏
  昭和十八年二月
 青崖国分先生寄懐石母田石髯詩
                     所南 千葉郁書

 石仏石母田正輔翁は剛直にして卓識の先覚者、石巻町長初代市長を歴任し市政建設に幾多不朽の功績を遺さる 仍市制二十周年に際り翁の高風を景仰し其偉業欽慕の章表として茲に此像を建つ
                     露江撰、山内習書
  昭和二十八年四月       石巻市

 なお石母田家の遺族まつ子夫人、五男何れも東京へ移住し、二男正は現在法政大学教授、新進歴史学者として、斯界に重きをなしている。

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