学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学の中間領域を研究。

『西欧音楽史 「クラシック」の黄昏』

2015-11-30 | 映画・演劇・美術・音楽
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年11月30日(月)09時09分4秒

今年は年頭の漠然とした予定とはずいぶん違った展開となり、四月から憲法論議にやたらと時間を費やしてしまいましたが、もともとこれは自分の内発的な理由から始めた訳ではなく、シールズのようなあまり知性を感じさせない運動に親和的な憲法学者たち(以下、「アザラシ系憲法学者」という)が騒々しかったので、ちょっとお付き合いしてみようかな、と思ったら結果的に相当長引いてしまいました。
ま、そうはいっても全く無駄だった訳でもなく、アザラシ系憲法学者の中では有数の大物である石川健治氏の「窮極の旅」を読み解く中で、ドイツ・東欧の近現代史に多少詳しくなったことは今年の重要な成果です。
そして次第に田中耕太郎の存在の大きさを意識するようになる過程で、音楽に造詣の深かった田中を理解するために音楽史をやろうかなという超迂遠な、音楽的教養がほぼ皆無の私にとっては相当に無謀な思い付きが生まれ、ここ一ヶ月ほど、岡田暁生氏の『西欧音楽史 「クラシック」の黄昏』(中公新書、2005)と『CD&DVD51で語る西欧音楽史』(新書館、2008)を手がかりとして少しずつCDを聴き、勉強してきたのですが、まあ、それなりに何とか方向が見えてきたような感じもします。
岡田暁生氏は本当に優秀な方ですが、美術史については多少の疑問を感じさせる点もありますね。
例えば『西欧音楽史』の「第一章 謎めいた中世音楽」に、

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 中世後半の時代の中心となるのが、オルガヌムから生まれたモテットというジャンルである。これは三声から成るのが普通で、グレゴリオ聖歌を低音に置き、その上に自由に考案した旋律を置くのはオルガヌムと同じなのだが、上にのせられる旋律がフランス語で歌われる点が違う(「モテット」の語源はフランス語の「言葉〔mot〕」と言われる)。初期のモテットは、低音に置かれたグレゴリオ聖歌の内容を、俗語のフランス語で注解した歌詞をもった旋律を上からのせていたらしい。当時の一般大衆はラテン語が分からなかったからである。だが後になるとモテットは、今日の目からはほとんど荒唐無稽とも見えるパロディ芸術へと発展した。
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とあり(p24)、具体例による説明の後、まとめとして

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 川柳を持ち出すまでもなく、パロディとはある文化が爛熟した時期に生まれるものであるが、力や壮大さではなくミニチュア的繊細さや洗練を追求するという点でも、モテットは典型的な爛熟期の芸術だといえる。響きは非常に親密になり、技巧的でおそろしく凝った装飾的な動きが増え、妖艶な甘さが音楽に漂いはじめるのである。美術でいえばそれは、パリのクリュニー美術館にある一角獣〔ユニコーン〕を描いたタピストリーや、金や銀や青で彩られたため息が出るような細密画『ベリー侯のいとも豪華なる時祷書』などに比せられようか。
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とあるのですが(p25)、パロディの話が飛んでしまっていますね。
クリュニー美術館の一角獣のタピストリーや『ベリー侯のいとも豪華なる時祷書』には特にパロディー的要素はありません。
ま、パロディとは別に「ミニチュア的繊細さや洗練を追求するという点」を論じていると見ることはできるので、論理的に誤りと言う訳ではありませんが、ちょっとつながりが分かりにくいですね。
パロディの話を尻切れトンボにしないためには、ここで装飾写本に登場する滑稽な絵を論じれば良いような感じもします。
ま、そこは人それぞれですが、私としては美術史と音楽史の接点、あるいは隙間には入り込める余地がありそうかな、とも思います。
なお、細かいことですが、ランブール兄弟の豪華時祷書は普通は「ベリー<公>のいとも豪華なる時祷書」と呼ばれていて、2002年に出た岩波の大型本も『ベリー公のいとも美しき時祷書』というタイトルですね。
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