投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 3月 1日(土)23時24分27秒
石巻市立図書館訪問、いろいろ成果があったのですが、石母田氏関係で一番役に立ったのは五人兄弟の末っ子、石母田達氏の『激動を走り抜けた八十年』(私家版、2006年)に出会えたことでした。
達氏は二男・正氏より12歳下の1924年生まれで、「アカ」の兄を一家の恥と思っていた軍国少年だったにもかかわらず、終戦後は一転して共産主義に目覚め、1947年に日本共産党専従職員となり、1972年には衆議院議員、1977年の党大会で中央委員、1982年の党大会で幹部会員に選出されたという共産党のエリート活動家ですね。
達氏は両親や兄の思い出を沢山書かれていますが、私が一番びっくりしたのは「やさしかった母の思い出 私の生い立ち」というエッセイです。
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(前略)
私の母はやさしかったが、父は頑固できびしかった。私が党に入って“家父長制“ということばを聞いたとき、真っ先に父のことをその典型として思い浮かべた。私たち兄弟は、毎朝父を風呂に連れて行って、身体の隅々まで洗い、いつも父の足を揉まされたものだ。そのためよく学校を遅刻した。
試験前の徹夜勉強を“卑怯者“のやることだといって電気を消して歩き、何か気に障ると短刀を出しては子ども達に自決(切腹)をせまるような前近代的な父であったが、一面“自由主義的“な面もあった。
父は息子の一人が共産主義者となり、戦争中官憲や軍人からも、かなり強い干渉があったにもかかわらず、息子に転向をせまったり、戦争を賛美することはしなかった。
父にとっても次兄の正は、自慢の一つだったので、息子のやることは誰が何といっても正しいことだと信じていたようだ。
次兄は高等学校時代から戦争に反対し、官憲に追いまわされ、たびたび留置場にもつながれた。そのたびに父は釈放に奔走した。
特高警察が家のまわりをいつもうろうろし、“国賊、非国民“と、石を投げ込む者もいた。“愛国婦人会長“として、毎日のように紫のたすきをかけて、戦地に他人の息子たちをおくりだす母に、非難の声は集中した。
母はたまりかねて、次兄を生まれ故郷の北海道につれて行き、その心をひるがえさせようとしたが、成功せず、ついに青函連絡船で兄を海につきおとして自殺しようと決心した。しかし母にはそれができなかった。母が次兄の正と私を特にかわいがったのは、私には末っ子という理由があったとしても、兄には戦争中、兄が受けた仕打ちに対するつぐないに似た気持ちがひそんでいたのではあるまいか。
(一九六八・十二発行「この道」より)
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石母田正氏は「母についての手紙」(『歴史と民族の発見』所収、1952年)の中で母親との札幌旅行を美しい思い出として描いており、達氏の説明とは全く食い違っているのですが、果たしてどちらを信頼すべきなのか。
私はどうも達氏に誤解があるのではないかと思っていて、その理由の第一は札幌旅行の時期ですね。
これは石母田氏がまだ18歳、旧制二高の三年生だった1930年の出来事で、そもそも「戦争中」ではありません。
母親が「“愛国婦人会長“として、毎日のように紫のたすきをかけて、戦地に他人の息子たちをおくりだす」時期はずいぶん先のことですね。
また、石母田氏は何か具体的に社会に危害を加える犯罪に加担した訳ではなく、単に危険思想団体に加入した疑いを持たれていただけで、それも初犯ですから、殺して自分も自殺というのはさすがに大げさですね。
息子を殺して、とまで思い詰めるようなことが仮にあったとしても、それは石母田氏が本格的に政治活動に関わるようになって以降、かつ日中戦争が長引いて戦時色が濃くなった時期に入ってからではないかと思います。
そして、その頃の切羽詰った心境を母親が何かの機会に達氏にちらっと漏らしたところ、達氏が想像を交えて時代を遡らせて記憶してしまった、程度の話のような感じがします。
※追記 この話は「意図的な創作とまではいいませんが、政治家である達氏が選挙民向けに自己の人物像をアピールする際に、ついつい大げさに話を盛り上げてしまった程度のこと」、というのが私の結論です。
「札幌番外地」(by義江彰夫)
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5f20a8bf7cbd498a77b0b55bab2f3b09
※追々記 更に考えた結果、「これは記憶の混乱ではなく、政治家である達氏が選挙目当てに作った格好良い物語の一部であって、自殺云々は意図的な創作と捉える方が自然」、というのが私の最終的結論です。
「緩募─仙台・江厳寺の石母田家墓地について」
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f08b4cad02e087ba2b82da9e3792cf2d
石巻市立図書館訪問、いろいろ成果があったのですが、石母田氏関係で一番役に立ったのは五人兄弟の末っ子、石母田達氏の『激動を走り抜けた八十年』(私家版、2006年)に出会えたことでした。
達氏は二男・正氏より12歳下の1924年生まれで、「アカ」の兄を一家の恥と思っていた軍国少年だったにもかかわらず、終戦後は一転して共産主義に目覚め、1947年に日本共産党専従職員となり、1972年には衆議院議員、1977年の党大会で中央委員、1982年の党大会で幹部会員に選出されたという共産党のエリート活動家ですね。
達氏は両親や兄の思い出を沢山書かれていますが、私が一番びっくりしたのは「やさしかった母の思い出 私の生い立ち」というエッセイです。
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(前略)
私の母はやさしかったが、父は頑固できびしかった。私が党に入って“家父長制“ということばを聞いたとき、真っ先に父のことをその典型として思い浮かべた。私たち兄弟は、毎朝父を風呂に連れて行って、身体の隅々まで洗い、いつも父の足を揉まされたものだ。そのためよく学校を遅刻した。
試験前の徹夜勉強を“卑怯者“のやることだといって電気を消して歩き、何か気に障ると短刀を出しては子ども達に自決(切腹)をせまるような前近代的な父であったが、一面“自由主義的“な面もあった。
父は息子の一人が共産主義者となり、戦争中官憲や軍人からも、かなり強い干渉があったにもかかわらず、息子に転向をせまったり、戦争を賛美することはしなかった。
父にとっても次兄の正は、自慢の一つだったので、息子のやることは誰が何といっても正しいことだと信じていたようだ。
次兄は高等学校時代から戦争に反対し、官憲に追いまわされ、たびたび留置場にもつながれた。そのたびに父は釈放に奔走した。
特高警察が家のまわりをいつもうろうろし、“国賊、非国民“と、石を投げ込む者もいた。“愛国婦人会長“として、毎日のように紫のたすきをかけて、戦地に他人の息子たちをおくりだす母に、非難の声は集中した。
母はたまりかねて、次兄を生まれ故郷の北海道につれて行き、その心をひるがえさせようとしたが、成功せず、ついに青函連絡船で兄を海につきおとして自殺しようと決心した。しかし母にはそれができなかった。母が次兄の正と私を特にかわいがったのは、私には末っ子という理由があったとしても、兄には戦争中、兄が受けた仕打ちに対するつぐないに似た気持ちがひそんでいたのではあるまいか。
(一九六八・十二発行「この道」より)
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石母田正氏は「母についての手紙」(『歴史と民族の発見』所収、1952年)の中で母親との札幌旅行を美しい思い出として描いており、達氏の説明とは全く食い違っているのですが、果たしてどちらを信頼すべきなのか。
私はどうも達氏に誤解があるのではないかと思っていて、その理由の第一は札幌旅行の時期ですね。
これは石母田氏がまだ18歳、旧制二高の三年生だった1930年の出来事で、そもそも「戦争中」ではありません。
母親が「“愛国婦人会長“として、毎日のように紫のたすきをかけて、戦地に他人の息子たちをおくりだす」時期はずいぶん先のことですね。
また、石母田氏は何か具体的に社会に危害を加える犯罪に加担した訳ではなく、単に危険思想団体に加入した疑いを持たれていただけで、それも初犯ですから、殺して自分も自殺というのはさすがに大げさですね。
息子を殺して、とまで思い詰めるようなことが仮にあったとしても、それは石母田氏が本格的に政治活動に関わるようになって以降、かつ日中戦争が長引いて戦時色が濃くなった時期に入ってからではないかと思います。
そして、その頃の切羽詰った心境を母親が何かの機会に達氏にちらっと漏らしたところ、達氏が想像を交えて時代を遡らせて記憶してしまった、程度の話のような感じがします。
※追記 この話は「意図的な創作とまではいいませんが、政治家である達氏が選挙民向けに自己の人物像をアピールする際に、ついつい大げさに話を盛り上げてしまった程度のこと」、というのが私の結論です。
「札幌番外地」(by義江彰夫)
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5f20a8bf7cbd498a77b0b55bab2f3b09
※追々記 更に考えた結果、「これは記憶の混乱ではなく、政治家である達氏が選挙目当てに作った格好良い物語の一部であって、自殺云々は意図的な創作と捉える方が自然」、というのが私の最終的結論です。
「緩募─仙台・江厳寺の石母田家墓地について」
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f08b4cad02e087ba2b82da9e3792cf2d
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