学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

千寿王(義詮)が新田義貞軍に合流した日付について

2021-07-24 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 7月24日(土)09時56分59秒

今まで千寿王(義詮)は五月二日夜半に鎌倉を脱出し、五月九日に新田義貞の軍勢に加わったと書いてきましたが、後者については『太平記』自体に異説が記されています。
まず、五月九日とするのは第十巻第三節「天狗越後勢を催す事」です。(兵藤裕己校注『太平記(二)』、p106)

-------
 その日の晩景に、戸祢川の方より、馬、物具爽かに見えたる兵二千余騎、馬煙を立てて馳せ来たれり。敵かと見れば、さはあらで、越後国の一族、里見、鳥山、田中、大井田、羽川の人々にてぞありける。【中略】面々に馬より下りて、おのおの対面して式代〔しきだい〕し給へば、後陣の越後勢、甲斐、信濃の源氏等、家々の旗を指して、五千余騎にて小幡庄まで追つ付き奉る。
 「これひとへに、八幡大菩薩の擁護に依るものなり。暫くも逗留あるべからず」とて、同じき九日、武蔵国へ打ち越え給ふ。即ち記五左衛門、足利殿の御子息千寿王殿を具足し奉つて、二百余騎にて馳せ付いたり。その後、上野、下野、上総、下総、常陸、武蔵の兵ども、期〔ご〕せざるに馳せ付き、催さざるに馳せ来たつて、一日の中に二十万騎になりにけり。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2b878e24056e3a1c120263f82ca51606

『梅松論』にも、

-------
扨も関東誅伐の事は義貞朝臣その功をなす所に、いかゞ有りけむ、義詮の御所四歳の御時、大将として御輿に召されて、義貞と御同道にて関東御退治以後は二階堂の別当坊に御座有りしに、諸将悉く四歳の若君に属し奉りしこそ目出度けれ。是実に将軍にて永々万年御座有るべき瑞相とぞ人申しける。

http://hgonzaemon.g1.xrea.com/baishouron.html

とあって、合流の日時は記されていませんが、「義貞と御同道にて関東御退治」となっています。
しかし、中先代の乱後に尊氏が建武政権から離反することを記す『太平記』第十四巻第二節「両家奏状の事」において、新田義貞の奏状の中に「尊氏が長男義詮、才〔わず〕かに百余騎の勢を率して、鎌倉に還り入りしことは、六月三日なり」とあります。
「両家奏状の事」では、最初に尊氏からの「早く義貞朝臣が一類を誅罰して、天下の泰平を致さんと請ふ状」が紹介されていて、これは兵藤校注『太平記(二)』では三ページ弱、三十六行の分量です。
他方、その直ぐ後に紹介される新田義貞の「早く逆臣尊氏直義等を誅して、天下を徇〔しず〕めんと請ふ状」の方は約六ページ、七十七行で、分量は二倍です。
また、その内容も尊氏の奏状は事実が不正確で論理に力強さがないのに対し、義貞奏状は理路整然と尊氏の八つの罪を追及していて説得力に溢れています。
この場面、『太平記』の作者は明らかに義貞側を応援しているような書き方で、直義に献上された「原太平記」にこのような記事があったとは考えにくいところです。
さて、二つの奏状は極めて重要なので、後で丁寧に論ずるつもりですが、とりあえず義詮に関係する部分を紹介すると、先ず尊氏の奏状に、義貞は自分(尊氏)が京都で逆徒を退けたと聞いた後、やっと追随したのであって、朝敵を誅すると称したのは名目のみであり、実際には窮鼠が猫を噛んだようなものだ、などとあります。
そして、鎌倉攻めでも三回戦って勝つことができず、「屈して城を守り、壁〔そこ〕を深くせんと欲するの処、尊氏が長男義詮、三歳幼稚の大将として、下野国より起こる。その威〔い〕遠きに動いて、義卒招かざるに義詮に馳せ加はる。嚢沙背水〔のうしゃはいすい〕の謀〔はかりごと〕、一たび成つて、大いに敵を破ることを得たり。是〔これ〕則ち戦ひ他に在りと雖も、功は隠れて我に在り」(p347)などと言っていますが、まあ、さすがにちょっと乱暴な言い方ですね。
これを受けて、義貞奏状では、

-------
義貞、朝敵追罰の綸旨を賜り、初めて上野より赴きしことは、五月八日なり。尊氏、官軍の臀〔しりへ〕に付いて六波羅を攻めしことは、同じき月七日なり。都鄙〔とひ〕相去ること八百余里、豈に一日の中に言を伝ふることを得んや。而るに、義貞京洛の敵軍破れぬと聞いて旗を挙ぐる由、上奏に載す。謀言〔ぼうげん〕真〔まこと〕を乱る。その罪一つ。
尊氏が長男義詮、才〔わず〕かに百余騎の勢を率して、鎌倉に還り入りしことは、六月三日なり。義貞、数百万騎の士を随へて、立ち所に凶党を亡ぼすことは、五月二十二日也。而るに、義詮三歳幼稚の大将として合戦を致すの由、上聞を掠〔かす〕むる条、雲泥万里の差違、何ぞ言ふに足らん。その罪二つ。
-------

とあって(p352以下)、義詮に従った軍勢が「二百余騎」から「百余騎」に半減の上、六月三日説が記されています。
まあ、あくまで義貞がそう主張しているだけであって、五月九日との記述と矛盾している訳ではない、との説明も一応は可能ですが、ちょっと妙な感じですね。
このような記述の齟齬は、同じ西源院本の中にも他にいくつか例があって、私はこれらが『太平記』の作者が複数であること、そして編集作業が必ずしも組織的に厳密に行われた訳はないことの証左の一つではないかと考えています。
ところで、千寿王が義貞軍に合流したのは何時が正しいのかを考えてみると、六月三日ではあまりに遅くて、鎌倉入りの政治的意味が全く異なってきますね。
そこまで遅いと、『梅松論』に描かれたような細川三兄弟による義貞への強談判もやりにくそうな感じがします。
ただ、『太平記』第十巻第二節「義貞叛逆の事」では、新田義貞の生品明神での旗揚げは五月八日とされているので(p104)、合流がその翌日の九日となると、あまりに手回しが良すぎるような感じもします。
結局、日付の特定は困難ですが、一応、『梅松論』に描かれたように五月二十二日の鎌倉陥落前には合流していたと考えておきたいと思います。
なお、尊氏の奏状は、元弘三年(1333)時点で義詮が四歳であって、父親の尊氏が「尊氏が長男義詮、三歳幼稚の大将として、下野国より起こる」などと書くはずがなく、『太平記』作者が相当に脚色していることは明らかです。
それは義貞奏状も同じであって、二つの奏状は『太平記』作者の全面的な創作と考える方が良いのかもしれません。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「足利高氏は妻子を失い滅亡... | トップ | 新田義貞奏状に基づく「降参... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』」カテゴリの最新記事