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『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その6)

2020-11-01 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月 1日(日)17時45分11秒

尊氏の動きがおかしいという情報は直ちに六波羅にも伝わったでしょうが、その伝達の役割は『太平記』では中吉十郎と奴可四郎という、この場面にしか登場しない二人の武士が担当しています。(p47以下)

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 ここに、備前国の住人中吉十郎〔なかぎりのじゅうろう〕と、摂津国の住人奴可四郎〔ぬかのしろう〕とは、両陣の手分けによつて搦手の勢の中にありけるが、中吉十郎、大江山の麓にて、道より上手〔うわて〕に馬を打ちのけて、奴可四郎を呼びのけて申しけるは、「そもそも心得ぬものかな。大手の合戦は火を散らして、今朝辰刻より始まりければ、搦手は芝居の長酒盛にさて休〔や〕みぬ。結句、名越殿討たれ給ひぬと聞いて、後ろ合わせに丹波路を指いて馬を早め給ふは、この人いかさま野心をさし挟み給ふと覚ゆるぞ。さらんに於ては、われらいづくまでか相順〔あいしたが〕ふべき。いざや、これより引つ返し、六波羅殿にこの由を申さん」と云ひければ、奴可四郎、「いしくも云給〔のたま〕ひたり。われも事の体〔てい〕怪しくは存じながら、これもまたいかなる配立〔はいりゅう〕かあらんと、とかく思案しつる間に、早や今日の合戦に外〔はず〕れぬる事こそ安からね。但し、この人〔ひと〕敵になり給ひぬと見えながら、ただ引つ返したらんは、余りに云ひ甲斐なく覚ゆれば、いざや、一矢〔ひとや〕射懸け奉つて帰らん」と云ふままに、中差〔なかざし〕取つて打ち番〔つが〕ひ、馬を轟懸〔とどろが〕けにかさへ打ち廻さんとしけるを、中吉〔なかぎり〕、「いかなる事ぞ、御辺〔ごへん〕は物に狂ひ給ふか。われらわづかに二、三十騎にて、あの大勢に懸け合うて、犬死〔いぬじに〕したらんは本意〔ほい〕か。鳴呼〔おこ〕の高名〔こうみょう〕はせぬに如かず。ただ事故〔ことゆえ〕なく引つ返して、後の合戦に命を軽くしたらんこそ、忠儀を存じたる者なりけりと、後までの名も留まらんずれ」と、再往〔さいおう〕制し留めければ、げにもとや思ひけん、奴可四郎も、中吉も、大江山〔おいのやま〕より引つ返して、六波羅へこそ帰りけれ。
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奴可四郎はいささか頭の弱い人物に設定されていて、二人のやりとりはコントのような趣があり、『太平記』が語られた際には聴衆の小さな笑いを誘ったのでしょうね。
さて、二人の報告を受けた六波羅の反応はというと、

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 かれら二人馳せ参じて、事の由を申しければ、両六波羅、楯鉾〔たてほこ〕とも憑〔たの〕まれたりし尾張守は討たれぬ、これぞ骨肉の如くなれば、さりとも二心〔ふたごころ〕おはせじと、水魚の思ひをなされつる足利殿さへ敵になり給ひぬれば、憑む木〔こ〕の下〔もと〕に雨のたまらぬ心地して、心細きにつけても、今まで付き纏ひたる兵どもも、またさこそあらんずらんと、心を置かれぬ人もなし。
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ということで(p49)、大手の大将の討死と搦手の大将の裏切りが同じ日に起きたのですから、六波羅にとっては驚天動地の事態ですね。
これで第四節は終わり、第五節「五月七日合戦の事」に入ります。
丹波の篠村は大江山を越えて直ぐの場所なので、尊氏に率いられた搦手の一行は四月二十七日のうちに篠村に移動し、五月七日に反転して京に侵攻するまで、ここに十日間滞在します。
その間、尊氏が何をやっていたかというと、大規模な軍勢催促ですね。
森茂暁氏の『足利直義 兄尊氏との対立と理想国家構想』(角川選書、2015)によれば、

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 伯耆よりの後醍醐天皇の勅命をうけるかたちで、一族を相催しての馳参を命ずる足利尊氏書状が、元弘三年(一三三三)四月二七日から二九日にかけて武士たちに発されている。筆者の収集によると残存例は総計一三点を数える。
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とのことで(p31)、名越高家が戦死し、尊氏が篠村に移動した当日の四月二十七日から二十九日までの日付がある複数の軍勢催促状が確認されており、その残存例が十三点ということですから、実際には相当多数が作成・送付されたはずです。
このような名越高家討死後の尊氏の迅速な対応を考えると、高家討死を聞いて初めて「降参」を決意したとはとうてい思えず、相当前から入念に準備していたはずですね。
以上、『太平記』第九巻に基づいて尊氏の行動を追ってみましたが、鎌倉出発前に既に尊氏・直義兄弟が反逆を決意し、京都に到着した翌日、四月十七日に伯耆船上山の後醍醐に使者を送って後醍醐に味方する旨を連絡したとの『太平記』の記述は、大きな流れとしては自然であり、事実を反映しているように思われます。
まあ、反逆の決意を固めていたとはいえ、いくらなんでも名越高家が出発の当日に死んでしまうという事態は尊氏にとっても吃驚仰天だったとは思いますが、適切なタイミングで反転攻勢をかけようと思っていた尊氏にとって、多少その時点が早まった程度の話だったかもしれません。
さて、こうして尊氏の反逆に至る経緯を眺めてみると、今川了俊が見たという『太平記』の尊氏「降参」の記事とはいったい何だったのか。
少なくとも、ごく普通の意味での「降参」という事態は考えにくいように思われますが、了俊が見た『太平記』には「降参」の二字があったのか。
この問題を正確に考察するためには『太平記』における「降参」の用例を検討する必要がありそうです。
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