投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月12日(月)10時58分37秒
>筆綾丸さん
>反自然の人工的な世界に生きてきた人
退廃と洗練が同居する遊廓は都市的であり、資本主義的であり、通常の社会の地位・身分が通用しない空間である点でアジール的でもあって、「網野史学」のキーワードが凝縮されているような感じもしますね。
>両氏の倒錯的な感覚
私はある時期まで、「アミノ史学」にはアミノ細胞とナカザワ細胞のコンタミネーションがあるから、これをきちんと切り分けなければならないと思っていたのですが、1970年頃まで遡っても「倒錯的な感覚」において両者は一体であり、互いに影響しあって「アミノ史学」を作り上げていったと考えざるをえないですね。
それにしても、「生駒庵」の一件が仮に1970年の出来事だとして、中沢新一はまだ20歳ですから世間を知らなくても仕方ありませんが、1928年生まれの網野善彦は42歳ですからね。
どうしてここまで「天然」でいられたのかは一個の謎ですが、この「天然」さをエネルギーに変えて論文を量産して行く力強さが網野善彦の凄みですね。
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
時代精神の遊行 2015/01/11(日) 14:41:05
小太郎さん
小太郎さんの解釈のとおりだと思います。
現実の悪所を殆ど全く知らない二人が中世の性や悪党を本気で論ずるのは喜劇と言うべきで、現実は知らないが歴史はよくわかる、というパラドックスなのかもしれませんね。
http://dazai.or.jp/modules/novel/index.php?op=viewarticle&artid=93&page=69
太宰治『斜陽』に、ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、という戯歌がありますが、鳥刺し、鳥刺し、しゅるしゅるしゅ、とパパゲーノとパパゲーナにデュエットさせてみたいところです。
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小熊 私も今回ご著作を通読していて、網野さんは直接に同時代の思想から影響を受けるというよりは、時代精神が網野の形をとって現われるというタイプの人かと思います。(「「日本」をめぐって」(講談社 173頁)
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E4%BB%A3%E7%B2%BE%E7%A5%9E
小熊氏に倣って言えば、地方都市の団地を千鳥足で遊行する時代精神(Zeitgeist)と言ったところでしょうか。
中沢・網野両氏は、「生駒庵」の夫婦を「人間の『自然』」と規定していますが、私には、反自然の人工的な世界に生きてきた人というふうにしか見えず、両氏の倒錯的な感覚がよく理解できません。
小太郎さん
小太郎さんの解釈のとおりだと思います。
現実の悪所を殆ど全く知らない二人が中世の性や悪党を本気で論ずるのは喜劇と言うべきで、現実は知らないが歴史はよくわかる、というパラドックスなのかもしれませんね。
http://dazai.or.jp/modules/novel/index.php?op=viewarticle&artid=93&page=69
太宰治『斜陽』に、ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、という戯歌がありますが、鳥刺し、鳥刺し、しゅるしゅるしゅ、とパパゲーノとパパゲーナにデュエットさせてみたいところです。
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小熊 私も今回ご著作を通読していて、網野さんは直接に同時代の思想から影響を受けるというよりは、時代精神が網野の形をとって現われるというタイプの人かと思います。(「「日本」をめぐって」(講談社 173頁)
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E4%BB%A3%E7%B2%BE%E7%A5%9E
小熊氏に倣って言えば、地方都市の団地を千鳥足で遊行する時代精神(Zeitgeist)と言ったところでしょうか。
中沢・網野両氏は、「生駒庵」の夫婦を「人間の『自然』」と規定していますが、私には、反自然の人工的な世界に生きてきた人というふうにしか見えず、両氏の倒錯的な感覚がよく理解できません。
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