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「衝撃的なことに同僚の名越高家はつい先ほど戦死した」(by 谷口雄太氏)

2021-07-19 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 7月19日(月)10時16分39秒

『太平記』の描くところによれば、鎌倉出発の時点で、尊氏は討幕を確定的に決意しています。

『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2bdfb8e70f1853746d3cf35e2a023377
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/be18e0b821a943d858475427b61f1f64

『梅松論』では、鎌倉出発の時点で尊氏に確定的な叛意があったとは書かれていませんが、その内心については「凡そ大将たる仁躰もだしがたしといへども、関東今度の沙汰然る可らず。これに依りて深き御恨みとぞ聞えし」とされ、更に、

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一方の大将は名越尾張守高家。これは承久に北陸道の大将軍式部丞朝時の後胤なり。両大将同時に上洛ありて、四月廿七日同時にまた都を出給ふ。
 将軍は山陰・丹波・丹後を経て伯耆へ御発向あるべきなり。高家は山陽道・播磨・備前を経て同じく伯耆へ発向せしむ。船上山を攻めらるべき議定有りて下向の所、久我縄手において手合の合戦に大将名越尾張守高家討たるゝ間、当主の軍勢戦に及ばずして悉く都に帰る。
 同日将軍は御領所に丹波国篠村に御陳を召る。抑も将軍は関東誅伐の事、累代御心の底に挟るゝ上、細川阿波守和氏・上杉伊豆守重能、兼日潜かに綸旨を賜て、今御上洛の時、近江国鏡駅において披露申され、「既に勅命を蒙らしめ給ふ上は、時節相応天命の授くる所なり。早々思し召し立つべきよし」再三諌め申されける間、当所篠村の八幡宮の御宝前において既に御旗を上げらる。

http://hgonzaemon.g1.xrea.com/baishouron.html

ということで、同日の出来事ではあっても、名越高家と尊氏の動向を関係づけてはいません。
そして鏡駅で細川和氏と上杉重能が後醍醐の綸旨を披露して「再三諌め申」したとのことなので、この時点で尊氏の決意も固まっていたと読むのが自然ですね。
要するに、名越高家の討死までは尊氏の叛意は固まっておらず、「同僚の名越高家」が「つい先ほど戦死した」という「衝撃的なこと」をきっかけに、尊氏が「幕府への忠誠か、反逆か、決断を迫られた」という谷口説は、『太平記』や『梅松論』の記述とは一致しません。
では、谷口氏がいかなる史料に依拠しているかというと、これは『難太平記』ですね。
『難太平記』の「六波羅合戦の時。大将名越うたれしかば。今一方の大将足利殿先皇に降参せられけりと。太平記に書たり」という表現は、「降参」という表現を使うかどうか、そして『太平記』に本当に「降参」という表現があったのかどうか、という問題を除けば谷口説そのものです。
しかし、これは今川了俊自身が、直ちに、

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返々無念の事也。此記の作者は宮方深重の者にて。無案内にて押て如此書たるにや。寔に尾籠のいたりなり。尤切出さるべきをや。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2bdfb8e70f1853746d3cf35e2a023377

と否定している見方ですね。
ところで、現在残っている『太平記』の写本には「降参」という表現は存在していませんが、従来、了俊が見た『太平記』には「降参」という表現が実際に存在していたことを前提に、学者は種々の議論を重ねてきています。
しかし、『太平記』における「降参」の用法を検討した私は、「降参」はあくまで了俊の解釈、『太平記』の六波羅合戦前後の記事を読んだ了俊の感想を集約したもの、と考えています。

『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その7)~(その11)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d431b73290254e3e146776bbfd35042e
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/da6bf07d6b30f3f011d455d929651d20
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/25747ea4cf8c55f09a64bafe1b6d6044
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4dbdce2e2857d750af5d75bfdecb668c
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/13d2c7d1d9e4c7c5733b2666510a0273

「降参」に関する私見が正しいかどうかはともかくとして、谷口氏は『難太平記』の一部の表現に基づき、『難太平記』の作者である今川了俊自身が否定している見解を採用している訳ですね。
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