学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

『中世に国家はあったか』に学問的価値はあったか?(その16)

2021-10-14 | 新田一郎『中世に国家はあったか』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年10月14日(木)12時59分12秒

新田著の続きです。(p97以下)

-------
 イングランドの法と国家の歴史は、「継ぎ目のない織物」にたとえられることがままある。中世から近代へと至る断絶なき連続性を表現したものだが、このことは、現在のイギリス国家(の中心的な部分)へと連続する「イングランド」という政治的な構造物が、この間を通じて属性を同じくすることを意味するものではない。「イングランド国家」の同一性は、歴史を一貫した属性にではなく、織りの模様を少しずつ変えつつも「連続していること」にこそ求められる。そこには、事実として存立し、自己を参照して存続する、国家というシステムの特質が現れている。
 日本についても、丸山真男は次のように述べる。「日本思想史の場合は、古代からの持続的契機の理解なしには、近代も現代も把握できない」(丸山、一九七二)。ここでいう「持続的契機」もまた、必ずしも一貫した同質性を意味するわけではない。つぎつぎに成り立ち続けてきた「日本」の歴史のどこに「国家」と非「国家」との境界線を引くかは、歴史学者に問うよりはむしろ、現代の国家を論ずる政治学者に問うべき問題である。歴史学者にできることは、「非国家」から「国家」への遷移の瞬間を「ここ」と差し示すことではなく、現代の国家へと連続してゆくことになるモノが、その都度どのような環境条件のなかでどのような構造をもち、どのように変遷してきたのか、必ずしも必然性のつらなりではないその過程を、叙述することでるだろう。
-------

うーむ。
「事実として存立し、自己を参照して存続する、国家というシステムの特質」云々は、「国家」という概念を物理的実体のように譬えるばかりか、それを超えて、まるで「国家」が生物であるかのように感じさせる譬喩ですね。
過去の亡霊かと思っていた「国家有機体説」も生き返って来そうな不気味さが漂っており、これは「濫喩」と言わざるを得ないですね。

「国家有機体説」(コトバンク)
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E6%9C%89%E6%A9%9F%E4%BD%93%E8%AA%AC-65232

さて、序章の「本書は何を問題にするのか」で、『中世に国家はあったか』というタイトルが新田氏の発意によるものではないことを知った私は、新田氏に植木等の『無責任一代男』という歌を捧げたいと思ったのですが、よくよく考えてみると、「無責任」というよりは、同じ植木等シリーズでも「主体性のない男」の方が適切だったかもしれません。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/61b3c1e6855c84111ec08862a7c0327b

「主体性のない男」などと言っても若い人には何のことか分からないでしょうが、青島幸男が作ってクレージーキャッツの植木等や谷啓が演じたコントシリーズですね。

「青島だあ。・・・・・青島幸男さん」(『gary 夢見人のお絵描きコラム』)
http://brick861.blog.fc2.com/blog-entry-214.html

しかし、「「日本」の歴史のどこに「国家」と非「国家」との境界線を引くかは、歴史学者に問うよりはむしろ、現代の国家を論ずる政治学者に問うべき問題」であって、歴史学者は政治学者に判断材料を提供するだけの下僕の役割で満足せよ、となると、これは「主体性のない男」では足りず、やはり歴史学者として「無責任」と言わざるをえません。
過去に特段の興味のない現代の政治学者だって、そんな課題を押し付けられたら迷惑ですね。
ま、それはともかく、続きです。(p98以下)

-------
 この点で、私としては、黒田俊雄の基本的立場に一定の共感を示しておきたい。しかし石井進によって提起された批判も、なお重要な意味をもつ。「日本」がつぎつぎに存立し続け、中心を占め続けてきた、ということが、その都度の国家のありように対して条件として作用し続けてきたわけだが、そのことは、現代の国家のありようから中世のそれへ直接に類推をおよぼすことを正当化するものではなく、逆に中世(あるいは古代ないし近世)から近現代へと直接に伝統を作用させることを正当化するものでもない。主権論のように国家存立の根本を問う議論が日本には生まれなかったことと、日本の国家の存立が間断なき連続性にその都度依存してきたということとのあいだには、おそらくは密接な関連がある。
-------

うーむ。
「国家」をきちんと定義しなければ、本当に「「日本」がつぎつぎに存立し続け、中心を占め続けてきた、ということが、その都度の国家のありように対して条件として作用し続けてきた」のか、「日本の国家の存立が間断なき連続性にその都度依存してきた」のかどうかすら疑わしいのではないかと思われますが、新田氏にとって、「国家」は自明の存在のようですね。
その他、多くの疑問が浮かんできますが、次の投稿で書きます。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『中世に国家はあったか』に... | トップ | 『中世に国家はあったか』に... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

新田一郎『中世に国家はあったか』」カテゴリの最新記事