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0124 再考:兼好法師と後深草院二条との関係(その4)

2024-07-20 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第124回配信です。


一、兼好の家族関係に関する小川剛生氏の推理

三つの書状

(1)「うらへのかねよし」の現れる書状(金文二八〇一号)

小川氏の現代語訳(p43)
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 よい便があったので申します。今年は「こ御てゝ」(亡き御父上)の七回忌です。こちらでも造仏などをして仏事を営みましたが、形ばかりでもそちらで仏事を修しませんのも気が懸かります折から、些少ではありますが、用途五結(銭五百文)を差し上げます。これで食事など沙汰されて、僧衆へ差し上げられ、御父上の孝養をなさって下さい。これは「四郎太郎」が供養する分です。風誦(経文や偈頌を声を上げて読むこと)を捧げますならば、「うらべのかねよし」と申し上げて下さい。……ところで「下野殿」(旧知の女房か)の病気が革まったと聞きましたのは、その後どうなったでしょうか。このところ亡くなる人があまりに多くて、実にやるせない気分です。生きているうちにあなたにお目にかかりたいものです。明忍御房(剱阿)にも是非逢いたいものです。かしこ。
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(2)「こまちより」と署名する女性が「明忍の御房の御りやう」(=剱阿)に宛てた書状(金文二六一九+金文二七九八号)

小川氏の現代語訳(p49)
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 いつも御音信いただける間柄とは思っておりますが、さしたる事もなく、距離もあるせいか、やや疎遠な御様子ですが、心ならず思っております。明日は亡父の正忌(「こ御てゝの正日」)でありますので、墓などへも参りたいと思っておりましたところ、この御一周忌(「御一しゆき」)が八月でありますのを、前にということで、御仏事を前倒しになされましたら、佐介の蓮華寺で如法経供養が行われましたのを、現在参籠しておりまして、御歴々みな参会されるので、これはまた皆様のことに私のことも兼ねた気持ちが致しまして、ともによい縁ではないかと思いました。すべて深く思われていらっしゃるので、墓前での宝篋印陀羅尼なども唱えて弔って下さっただろうと期待しております。十五日に墓参いたします。十四日はこちらの墓などに参り、写経立筆したいと思います。万事通り一遍でない感情も到底言い尽くせない気持ちです。かしこ。
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(3)倉栖兼雄の書状(金文五〇三号)

小川氏の読み下し文(p51)
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 先日拝謁の後、何条の御事候や、久しく案内を啓さず候の際、不審少からず候、そもそも来る廿二日は故黄門上人位の仏事、先々の如く御寺に於いて定めて行はるべく候か、よつて小林の女房よりかの仏事の為に五結進らせられ候、最少の事に候ふ事、返す返す歎き入り候の由、よくよく申さるべく候ふ由、内々申し遣はされて候、□分何様にも廿二日ハことさら聴聞<〇後闕>
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『金沢文庫古文書 第一輯』(金沢文庫、1962)
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五〇三 金沢貞顕書状

先日拝謁之後、何条御事
候乎、久不啓案内候之際、不
審不少候、
抑、来廿二日、故黄門上人位
仏事、如先々、於御寺定可被行
候歟、仍、自小林女房為彼仏
事、五結被進之候、微少事
候事、返々歎入候之由、能/\可
被申候由、内々申遣されて候、
□□何様にも廿二日は、故、聴聞

(備考)コノ状ハ嘉元三年四月廿八日付覚恵ノ瀬戸橋造営棟別銭注文案ノ紙背ニアレバ、コノ年月以前ノ書状タルコト明ナリ。其ノ手跡ヨリ推スニ多分金沢貞顕書状ナルベシ。
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 以上、金沢文庫古文書から得られた情報をもとに、兼好の在俗期を再現してみたい。
 卜部兼好は仮名を四郎太郎という。前章で一家は祭主大中臣氏に仕えた在京の侍と推定したが、そこから伊勢国守護であった金沢流北条氏のもとに赴いた。亡父は関東で活動し、称名寺長老となる以前の明忍坊釼阿とも親しく交流し、正安元年(一二九九)に没して同寺に葬られた。父の没後、母は鎌倉を離れ上洛したか。しかし姉は留まり、鎌倉の小町に住んだ。倉栖兼雄の室となった可能性がある。兼好は母に従ったものの、嘉元三年(一三〇五)夏以前、恐らくはこの姉を頼って再び下向した。そして母の指示を受け、施主として父の七回忌を称名寺で修した。さらに延慶元年(一三〇八)十月にも鎌倉・金沢に滞在し、翌月上洛し釼阿から貞顕への書状を託された。また同じ頃、恐らくは貞顕の意を奉じて、京都から釼阿への書状を執筆し発送した。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1f10322cc7ebe53e562e3ab38c0d6a5d

二、(1)~(3)は本当に嘉元三年(1305)の書状なのか

特に問題となるのは(3)。
「来る廿二日」の「故黄門上人位の仏事」に、本人も「聴聞」に行くことになっていないか。
しかし、嘉元三年(1305)夏には倉栖兼雄は在京。

永井晋『人物叢書 金沢貞顕』(吉川弘文館、2003)
https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b33581.html

p39以下
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  三 嘉元の乱

 嘉元三年(一三〇五)四月二十二日、得宗北条貞時は鎌倉の宿館が焼失したため、執権北条師時の館に遷った。翌二十三日、内管領北条宗方は得宗の仰せと称して連署北条時村を誅殺した。このことを知らせる鎌倉の使者が六波羅北殿に到着したのは、四月二十七日辰刻のことである。六波羅探題は知らせを受けてすぐに御教書を作成し、異国警固を勤める鎮西探題北条政顕と長門周防守護代のもとに使者を派遣した。長門周防の守護は誅殺された北条時村であり、在国する守護代小笠原蓮念への説明は慎重を要したことであろう。
 また、貞顕は被官人鵜沼某を京都の情勢を伝える使者として鎌倉に下向させた。不穏な情勢を察知した在京人や探題の被官人が続々と六波羅に集まってきたので、両探題は六波羅評定衆や在京人を御前に集め、鎌倉から届いた御教書を読み聞かせた。また、両探題は宿直以外の者は宿館に帰ることを命じた。
 この事件で、貞顕は困難な立場に立たされることになった。誅殺された連署北条時村は貞顕の舅にあたる。鎌倉からの第一報が届いた時、六波羅南殿は「上下色を失い、公私声を呑み候」という状況に陥った。貞顕の祐筆倉栖兼雄は、宿館に待機させられた時の心情を「恐怖の腸、肝を焼き候き」と吐露する。【後略】
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嘉元の乱
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