投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 7月 7日(水)12時02分43秒
森茂暁氏は「一、はじめに」において、
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これも周知のことだが、直義は尊氏派勢力と激しい戦いを交えたすえ、尊氏によって殺害されたとされている(観応の擾乱)。『太平記』は南北朝の動乱の進展と並行してしかも長い時間をかけて制作されたので、最終的に出来上がるまでに幕府中枢のその時々の政治的な力関係の変動に伴い、さまざまな書き替えがなされたことは十分予想できる。直義についての記述も失脚の後に書き替えられた可能性は高い。そのような状況であるから、ある時点で『太平記』にどのように記述されていたかを知るのは不可能というほかない。しかし、今に伝えられている『太平記』諸本において、書き替えられた可能性の高い個所を比較検討することによって、もとはどのようであったかを考える手掛かりは得られよう。本稿が注目するのは、そのような視点からの『太平記』と足利直義の関係である。
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と書かれていて(p62)、「書き替えられた可能性の高い個所を比較検討することによって、もとはどのようであったかを考える手掛かりは得られよう」という発想には私も基本的に賛成です。
そして、「二、『太平記』と足利直義」において、森氏は『難太平記』の『太平記』関係記事を整理した後で、
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この原『太平記』にどのような内容がどのような表現でもって盛り込まれていたかを知るすべはない。しかし、右の「難太平記」の記事を読む限りでは、この原『太平記』が足利直義やその他幕府関係者の要請を受けて制作された気配はない。原『太平記』はもともと幕府とさして関係のない場で制作が始まったと考えてよいのではないか。その製作の場としては、天台律の宗教的系譜をもつ法勝寺の恵鎮を中心とする教団であったという意見があるが、これは説得的である。
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と書かれていて(p65)、「その製作の場としては、天台律の宗教的系譜をもつ法勝寺の恵鎮を中心とする教団であったという意見」、即ち松尾剛次説には若干の留保が必要ではないかと私は考えますが、しかし、「原『太平記』はもともと幕府とさして関係のない場で制作が始まったと考えてよい」という森説には私も賛成です。
そして私は、『太平記』を『太平記』たらしめている最も核心的な要素はコメディ、特にスラップスティックコメディと狂歌であって、『太平記』の作者は反骨と諧謔の精神に満ち溢れた人たちだと思っており、このような私の立場からは、現在の『太平記』に描かれた直義があまり立派な人間として描かれていない理由は実に簡単であって、それは直義の権力的介入を極めて不快に思った『太平記』の作者たちによる直義への報復ですね。
直義が死んで、その後も南朝を交えた三つ巴の政治的・軍事的大混乱が続いて権力の空白が生まれ、『太平記』への権力的介入がなくなったのをよいことに、『太平記』の作者たちは持ち前の反骨と諧謔の精神を発揮して好きなことを書き、特に直義については、うるせー奴が死んでさっぱりしたぜ、という気持ちで、誹謗中傷に近い記事も適当に創作したのだろうと思います。
もちろん私は「原太平記」が後醍醐の鎮魂の物語であった、などとは全然考えないので、以上のような素直な結論になるのですが、森氏の考え方は複雑に屈折しています。
即ち、「うがった見方をすれば、改訂『太平記』は後醍醐の怨霊が直義にとりつく必然性をこうして作為し、物語の中で後醍醐の鎮魂という方向で直義にふるまわせた可能性なしとしない」の後、森氏は次のように続けます。(p71)
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この方向性は西源院本などの古態本よりも、慶長八年古活字本などの流布本系において一層顕著となる。流布本の例を一二あげると、
(恒良・成良両親王毒殺の最期に)カクツラクアタリ給ヘル直義朝臣ノ行末、イカナラント思ハヌ人モ
無リケルガ、果シテ毒害セラレ給フ事コソ不思議ナレ、
(直義の生涯を総括する形で)サテモ此禅門〔直義〕ハ、随分政道ヲモ心ニカケ、仁義ヲモ存給シガ、
加様ニ自滅シ給フ事、何ナル罪ノ報ゾト案ズレバ、此禅門依被申、将軍〔尊氏〕鎌倉ニテ偽テ一紙ノ
告文ヲ残サレシ故ニ其御罰ニテ、御兄弟ノ中モ悪ク成給テ、終ニ失給歟、又大塔宮〔護良親王〕ヲ
奉殺、将軍宮〔成良親王〕ヲ毒害シ給事、此人ノ御態ナレバ、其御憤深シテ、如此亡給フ歟、
などという記事が新たに付加されている。これは『太平記』がもともとそのような素地をもっているためとみたい。このようにみてくると『太平記』の構想というものがわかってくるし、同時に直義についての叙述は、そのままの形で信用するわけにはゆかないこともわかる。
ようするに、原『太平記』を修訂した足利直義は、観応の擾乱に敗北して最終的には毒殺されたが、しかし、室町幕府草創期において二頭政治の片方を担い、幕府政治史にじつに大きな足跡を残した直義の役割はこれで終わったのではなかった。次には『太平記』の世界で、身をもって後醍醐天皇の魂を慰める役割を背負わされたのである。後醍醐を鎮魂する物語、いいかえれば後醍醐の怨霊を封じ込める物語は、そのまま室町幕府成立の物語へと昇華する性質のものだった。その意味で、『太平記』を二部構成でみる場合、後醍醐物語を内容とする第一部は、室町幕府の確立の物語である第二部と調和こそすれ、決して齟齬したり矛盾したりすることはないのである。
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うーむ。
正直、私には森氏の言われることがあまり理解できないのですが、感想は次の投稿で書きます。
森茂暁氏は「一、はじめに」において、
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これも周知のことだが、直義は尊氏派勢力と激しい戦いを交えたすえ、尊氏によって殺害されたとされている(観応の擾乱)。『太平記』は南北朝の動乱の進展と並行してしかも長い時間をかけて制作されたので、最終的に出来上がるまでに幕府中枢のその時々の政治的な力関係の変動に伴い、さまざまな書き替えがなされたことは十分予想できる。直義についての記述も失脚の後に書き替えられた可能性は高い。そのような状況であるから、ある時点で『太平記』にどのように記述されていたかを知るのは不可能というほかない。しかし、今に伝えられている『太平記』諸本において、書き替えられた可能性の高い個所を比較検討することによって、もとはどのようであったかを考える手掛かりは得られよう。本稿が注目するのは、そのような視点からの『太平記』と足利直義の関係である。
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と書かれていて(p62)、「書き替えられた可能性の高い個所を比較検討することによって、もとはどのようであったかを考える手掛かりは得られよう」という発想には私も基本的に賛成です。
そして、「二、『太平記』と足利直義」において、森氏は『難太平記』の『太平記』関係記事を整理した後で、
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この原『太平記』にどのような内容がどのような表現でもって盛り込まれていたかを知るすべはない。しかし、右の「難太平記」の記事を読む限りでは、この原『太平記』が足利直義やその他幕府関係者の要請を受けて制作された気配はない。原『太平記』はもともと幕府とさして関係のない場で制作が始まったと考えてよいのではないか。その製作の場としては、天台律の宗教的系譜をもつ法勝寺の恵鎮を中心とする教団であったという意見があるが、これは説得的である。
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と書かれていて(p65)、「その製作の場としては、天台律の宗教的系譜をもつ法勝寺の恵鎮を中心とする教団であったという意見」、即ち松尾剛次説には若干の留保が必要ではないかと私は考えますが、しかし、「原『太平記』はもともと幕府とさして関係のない場で制作が始まったと考えてよい」という森説には私も賛成です。
そして私は、『太平記』を『太平記』たらしめている最も核心的な要素はコメディ、特にスラップスティックコメディと狂歌であって、『太平記』の作者は反骨と諧謔の精神に満ち溢れた人たちだと思っており、このような私の立場からは、現在の『太平記』に描かれた直義があまり立派な人間として描かれていない理由は実に簡単であって、それは直義の権力的介入を極めて不快に思った『太平記』の作者たちによる直義への報復ですね。
直義が死んで、その後も南朝を交えた三つ巴の政治的・軍事的大混乱が続いて権力の空白が生まれ、『太平記』への権力的介入がなくなったのをよいことに、『太平記』の作者たちは持ち前の反骨と諧謔の精神を発揮して好きなことを書き、特に直義については、うるせー奴が死んでさっぱりしたぜ、という気持ちで、誹謗中傷に近い記事も適当に創作したのだろうと思います。
もちろん私は「原太平記」が後醍醐の鎮魂の物語であった、などとは全然考えないので、以上のような素直な結論になるのですが、森氏の考え方は複雑に屈折しています。
即ち、「うがった見方をすれば、改訂『太平記』は後醍醐の怨霊が直義にとりつく必然性をこうして作為し、物語の中で後醍醐の鎮魂という方向で直義にふるまわせた可能性なしとしない」の後、森氏は次のように続けます。(p71)
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この方向性は西源院本などの古態本よりも、慶長八年古活字本などの流布本系において一層顕著となる。流布本の例を一二あげると、
(恒良・成良両親王毒殺の最期に)カクツラクアタリ給ヘル直義朝臣ノ行末、イカナラント思ハヌ人モ
無リケルガ、果シテ毒害セラレ給フ事コソ不思議ナレ、
(直義の生涯を総括する形で)サテモ此禅門〔直義〕ハ、随分政道ヲモ心ニカケ、仁義ヲモ存給シガ、
加様ニ自滅シ給フ事、何ナル罪ノ報ゾト案ズレバ、此禅門依被申、将軍〔尊氏〕鎌倉ニテ偽テ一紙ノ
告文ヲ残サレシ故ニ其御罰ニテ、御兄弟ノ中モ悪ク成給テ、終ニ失給歟、又大塔宮〔護良親王〕ヲ
奉殺、将軍宮〔成良親王〕ヲ毒害シ給事、此人ノ御態ナレバ、其御憤深シテ、如此亡給フ歟、
などという記事が新たに付加されている。これは『太平記』がもともとそのような素地をもっているためとみたい。このようにみてくると『太平記』の構想というものがわかってくるし、同時に直義についての叙述は、そのままの形で信用するわけにはゆかないこともわかる。
ようするに、原『太平記』を修訂した足利直義は、観応の擾乱に敗北して最終的には毒殺されたが、しかし、室町幕府草創期において二頭政治の片方を担い、幕府政治史にじつに大きな足跡を残した直義の役割はこれで終わったのではなかった。次には『太平記』の世界で、身をもって後醍醐天皇の魂を慰める役割を背負わされたのである。後醍醐を鎮魂する物語、いいかえれば後醍醐の怨霊を封じ込める物語は、そのまま室町幕府成立の物語へと昇華する性質のものだった。その意味で、『太平記』を二部構成でみる場合、後醍醐物語を内容とする第一部は、室町幕府の確立の物語である第二部と調和こそすれ、決して齟齬したり矛盾したりすることはないのである。
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うーむ。
正直、私には森氏の言われることがあまり理解できないのですが、感想は次の投稿で書きます。
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