投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 7月10日(土)09時15分31秒
森茂暁氏の『足利直義 兄尊氏との対立と理想国家構想』(角川選書、2015)を見ると、森氏は1998年の「『太平記』と足利政権─足利直義の係わりを中心に」(長谷川端編『軍記文学研究叢書8 太平記の成立』、汲古書院)の立場を基本的に維持されていますが、後醍醐の鎮魂云々はあまり強調されていないようですね。
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近年にわかに脚光を浴びる、室町幕府の基礎を創ったキーマンを追う!
南北朝の動乱期に、武力によらない仏国土の理想郷を目指した足利直義。兄尊氏とともに室町幕府の基礎を築いたにもかかわらず、最期は兄に毒殺されたとも伝えられる悲劇の人物の政治・思想・文化に迫る。
https://www.kadokawa.co.jp/product/301412001333/
同書の「序章」は、
足利直義のプロフィール
直義怨霊の鎮魂
追憶のなかの直義
直義の実像を求めて
と構成されていますが、森氏は直義が死後に「大倉宮」として神格化され、天龍寺の傍らに「大倉宮」を祀る仁祠が作られたこと、醍醐寺座主三宝院満済の『満済准后日記』に「宗門を隆盛に導いた庇護者、換言すれば恩義ある巨人の一人というべき直義のことについてまったく触れるところがない」(p19)こと等に言及された後で、「直義の実像を求めて」において、次のように書かれています。(p20以下)
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このように直義の生き様と死後の扱われ方をみてゆくと、直義という歴史的人物の特異な立ち位置を認めざるを得ない。直義の歴史的役割のもっとも顕著な特徴はそこにあるといって過言ではなく、直義の歴史的位置はこの点を掘り下げることによって自ずと明らかとなる。
これまでの直義研究は、楠木正成や高師直といった南北朝時代の立役者についての研究同様に、軍記物語としての『太平記』に依存しすぎてきたといえる。むろん『太平記』が南北朝時代の理解を豊かにする重要史料たることは動かない。直義についても、彼が伝統尊重型の人間で、冷徹かつ禁欲的な性格の持ち主であること、また王朝などの伝統的な保守勢力と太いパイプを有したことなど正確な情報を提供していることは事実である。
しかし、直義の描写は『太平記』の編纂の過程において、制作の趣旨や目的に応じて、仏教の因果応報の考え方に立ちつつ意図的に改変されてきたむきがある。この点については直義の実像を考える場合には、留意しなくてはならない。
『太平記』の直義に対する筆致は概して厳しい。護良親王を殺害させたのも(巻一二)、後醍醐天皇の皇子恒良・成良親王に飲ませた毒薬を「調進」したのも直義だと記し(巻一九)、その因果応報的な結末として直義は尊氏によって毒殺されたのだと続ける(巻三〇)。しかし史実ではすくなくとも成良親王は直義に毒殺されてはいないし、また直義毒殺説そのものを疑問視する考え方も根強い(峰岸純夫『足利尊氏と直義』吉川弘文館、二〇〇九年)。
こうした点については、『太平記』がその成立時点において背負った歴史的な制約であった蓋然性が高い。『太平記』の成立は応安の末ころ(一三七〇年代半ば)といわれるが、この時期は幼将軍足利義満を補佐して幕府政治を舵取りした管領細川頼之の時代の終盤期にあたる。執政の地位にいた頼之が『太平記』の監修に深く関わった可能性は高い。その頼之が『太平記』を監修するさい、幕府政治にとっての新しい門出にあたり負の歴史的遺産は過去のものとして因果応報的な結末を与えたうえで葬り去ろうと考えたとしても一向に不自然ではない。直義の歴史的存在はスケープゴートにうってつけであった。
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うーむ。
『太平記』が「後醍醐天皇の皇子恒良・成良親王に飲ませた毒薬を「調進」したのも直義だと記し」ているのは確かですが、原文を見ると、
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新田義貞、義助、杣山より打ち出て、尾張守、伊予守、府中その外〔ほか〕所々落とされぬと聞こえければ、尊氏卿、直義朝臣、大きに怒つて、「この事はひとへに、東宮の宮の、かれらを御扶〔たす〕けあらんとて、金崎にて皆腹を切りたりと仰せられけるを、誠と心得て、杣山へ遅く討手を差し下しつるによつてなり。この宮、これ程に当家を失はんと思し召しけるを知らで、ただ置き奉らば、いかさま不思議の御企てもありぬと覚ゆれば、ひそかに鴆毒をまゐらせて失ひ奉れ」と、粟飯原下総守氏光に下知せられける。
東宮は、連枝の御兄弟に将軍宮とて、直義朝臣の先年鎌倉へ申し下しまゐらせられたりし先帝の第七宮と、一つ御所に押し籠められて御座ありける処へ、氏光、薬を一裹〔つつ〕み持参して、「いつとなくかやうに打ち籠もりて御座候へば、御病気なんどの萌〔きざ〕す御事もや候はんずらんとて、三条殿より調進せられて候。毎朝に一七日〔ひとなぬか〕の間聞こし召し候へ」とて、御前にぞ差し置かれける。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/32d6571d5c77d753fb36d0dbff8c15a9
ということで、「尊氏卿、直義朝臣」が二人一緒に恒良親王に激怒し、恒良親王を殺害、成良親王も巻き添えにすることを決定した訳ですから、毒薬を「調進」したのが直義だといっても、直義だけ「因果応報」というのも変な話です。
また、「直義毒殺説そのものを疑問視する考え方も根強い」とありますが、森著の出版後に亀田俊和氏が否定説を明確にされる以前は毒殺否定論者は峰岸氏くらいで、その論旨も些か感情論に流れた奇妙なものですね。
峰岸純夫氏「私は尊氏の関与はもとより、毒殺そのものが『太平記』の捏造と考えている」(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/509a8a7307af6da03899e5bc1e1ed0e3
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/025910d8e89a27fb3fbe6f944dff93b0
「歴史における兄弟の相克─プロローグ」(by 峰岸純夫氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6d8c004086ae3f61b8dd85ce4ebf117b
更に細川頼之関与説についても、「『太平記』の成立は応安の末ころ(一三七〇年代半ば)」とする説は、そのころまでには書かれていたであろう、という程度の話であって、「管領細川頼之の時代の終盤期」に一気に『太平記』が編纂されたと考える研究者を私は知りません。
まして、「執政の地位にいた頼之が『太平記』の監修に深く関わった可能性は高い」と主張する研究者は森氏のほかに誰かおられるのか。
そして肝心のスケープゴート論は後醍醐の鎮魂云々とは結び付いておらず、ちょっとちぐはぐな感じがしないでもありません。
「幕府政治にとっての新しい門出にあたり負の歴史的遺産は過去のものとして因果応報的な結末を与えたうえで葬り去ろうと考えた」という屈折した論理は、森氏のような現代の虚弱なインテリには似合うとしても、細川頼之のような軍人政治家にはふさわしくないように私には思われます。
森茂暁氏の『足利直義 兄尊氏との対立と理想国家構想』(角川選書、2015)を見ると、森氏は1998年の「『太平記』と足利政権─足利直義の係わりを中心に」(長谷川端編『軍記文学研究叢書8 太平記の成立』、汲古書院)の立場を基本的に維持されていますが、後醍醐の鎮魂云々はあまり強調されていないようですね。
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近年にわかに脚光を浴びる、室町幕府の基礎を創ったキーマンを追う!
南北朝の動乱期に、武力によらない仏国土の理想郷を目指した足利直義。兄尊氏とともに室町幕府の基礎を築いたにもかかわらず、最期は兄に毒殺されたとも伝えられる悲劇の人物の政治・思想・文化に迫る。
https://www.kadokawa.co.jp/product/301412001333/
同書の「序章」は、
足利直義のプロフィール
直義怨霊の鎮魂
追憶のなかの直義
直義の実像を求めて
と構成されていますが、森氏は直義が死後に「大倉宮」として神格化され、天龍寺の傍らに「大倉宮」を祀る仁祠が作られたこと、醍醐寺座主三宝院満済の『満済准后日記』に「宗門を隆盛に導いた庇護者、換言すれば恩義ある巨人の一人というべき直義のことについてまったく触れるところがない」(p19)こと等に言及された後で、「直義の実像を求めて」において、次のように書かれています。(p20以下)
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このように直義の生き様と死後の扱われ方をみてゆくと、直義という歴史的人物の特異な立ち位置を認めざるを得ない。直義の歴史的役割のもっとも顕著な特徴はそこにあるといって過言ではなく、直義の歴史的位置はこの点を掘り下げることによって自ずと明らかとなる。
これまでの直義研究は、楠木正成や高師直といった南北朝時代の立役者についての研究同様に、軍記物語としての『太平記』に依存しすぎてきたといえる。むろん『太平記』が南北朝時代の理解を豊かにする重要史料たることは動かない。直義についても、彼が伝統尊重型の人間で、冷徹かつ禁欲的な性格の持ち主であること、また王朝などの伝統的な保守勢力と太いパイプを有したことなど正確な情報を提供していることは事実である。
しかし、直義の描写は『太平記』の編纂の過程において、制作の趣旨や目的に応じて、仏教の因果応報の考え方に立ちつつ意図的に改変されてきたむきがある。この点については直義の実像を考える場合には、留意しなくてはならない。
『太平記』の直義に対する筆致は概して厳しい。護良親王を殺害させたのも(巻一二)、後醍醐天皇の皇子恒良・成良親王に飲ませた毒薬を「調進」したのも直義だと記し(巻一九)、その因果応報的な結末として直義は尊氏によって毒殺されたのだと続ける(巻三〇)。しかし史実ではすくなくとも成良親王は直義に毒殺されてはいないし、また直義毒殺説そのものを疑問視する考え方も根強い(峰岸純夫『足利尊氏と直義』吉川弘文館、二〇〇九年)。
こうした点については、『太平記』がその成立時点において背負った歴史的な制約であった蓋然性が高い。『太平記』の成立は応安の末ころ(一三七〇年代半ば)といわれるが、この時期は幼将軍足利義満を補佐して幕府政治を舵取りした管領細川頼之の時代の終盤期にあたる。執政の地位にいた頼之が『太平記』の監修に深く関わった可能性は高い。その頼之が『太平記』を監修するさい、幕府政治にとっての新しい門出にあたり負の歴史的遺産は過去のものとして因果応報的な結末を与えたうえで葬り去ろうと考えたとしても一向に不自然ではない。直義の歴史的存在はスケープゴートにうってつけであった。
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うーむ。
『太平記』が「後醍醐天皇の皇子恒良・成良親王に飲ませた毒薬を「調進」したのも直義だと記し」ているのは確かですが、原文を見ると、
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新田義貞、義助、杣山より打ち出て、尾張守、伊予守、府中その外〔ほか〕所々落とされぬと聞こえければ、尊氏卿、直義朝臣、大きに怒つて、「この事はひとへに、東宮の宮の、かれらを御扶〔たす〕けあらんとて、金崎にて皆腹を切りたりと仰せられけるを、誠と心得て、杣山へ遅く討手を差し下しつるによつてなり。この宮、これ程に当家を失はんと思し召しけるを知らで、ただ置き奉らば、いかさま不思議の御企てもありぬと覚ゆれば、ひそかに鴆毒をまゐらせて失ひ奉れ」と、粟飯原下総守氏光に下知せられける。
東宮は、連枝の御兄弟に将軍宮とて、直義朝臣の先年鎌倉へ申し下しまゐらせられたりし先帝の第七宮と、一つ御所に押し籠められて御座ありける処へ、氏光、薬を一裹〔つつ〕み持参して、「いつとなくかやうに打ち籠もりて御座候へば、御病気なんどの萌〔きざ〕す御事もや候はんずらんとて、三条殿より調進せられて候。毎朝に一七日〔ひとなぬか〕の間聞こし召し候へ」とて、御前にぞ差し置かれける。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/32d6571d5c77d753fb36d0dbff8c15a9
ということで、「尊氏卿、直義朝臣」が二人一緒に恒良親王に激怒し、恒良親王を殺害、成良親王も巻き添えにすることを決定した訳ですから、毒薬を「調進」したのが直義だといっても、直義だけ「因果応報」というのも変な話です。
また、「直義毒殺説そのものを疑問視する考え方も根強い」とありますが、森著の出版後に亀田俊和氏が否定説を明確にされる以前は毒殺否定論者は峰岸氏くらいで、その論旨も些か感情論に流れた奇妙なものですね。
峰岸純夫氏「私は尊氏の関与はもとより、毒殺そのものが『太平記』の捏造と考えている」(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/509a8a7307af6da03899e5bc1e1ed0e3
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/025910d8e89a27fb3fbe6f944dff93b0
「歴史における兄弟の相克─プロローグ」(by 峰岸純夫氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6d8c004086ae3f61b8dd85ce4ebf117b
更に細川頼之関与説についても、「『太平記』の成立は応安の末ころ(一三七〇年代半ば)」とする説は、そのころまでには書かれていたであろう、という程度の話であって、「管領細川頼之の時代の終盤期」に一気に『太平記』が編纂されたと考える研究者を私は知りません。
まして、「執政の地位にいた頼之が『太平記』の監修に深く関わった可能性は高い」と主張する研究者は森氏のほかに誰かおられるのか。
そして肝心のスケープゴート論は後醍醐の鎮魂云々とは結び付いておらず、ちょっとちぐはぐな感じがしないでもありません。
「幕府政治にとっての新しい門出にあたり負の歴史的遺産は過去のものとして因果応報的な結末を与えたうえで葬り去ろうと考えた」という屈折した論理は、森氏のような現代の虚弱なインテリには似合うとしても、細川頼之のような軍人政治家にはふさわしくないように私には思われます。
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