学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

松尾著(その3)「ただあらまほしき事を、思ひ寝の夢にも見るらん」

2021-05-25 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 5月25日(火)08時33分2秒

松尾氏は「怨霊となった後醍醐」について、最初に『太平記』第二十三巻「大森彦七が事」を紹介して、後醍醐が「怨霊楠木正成の背後にいて指図し」、「崩御後も怨霊の頭目として、足利尊氏たちと戦い続けていた」とされますが、「大森彦七が事」は後で検討したいと思います。
ついで第三十四巻「吉野の御廟神霊の事」に関し、次のように書かれています。(p27以下)

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 さらに、延文五(一三六〇)年五月ころ、後村上天皇をはじめとする南朝方はしだいに敗色が濃くなり、皇居を金剛山の奥、観心寺(大阪府河内長野市)に遷し、君臣一同が、いつ敵に襲われるかと戦々恐々としていた。宮方の将来に絶望した一人の廷臣(『太平記』には上北面とあるから、院の御所の上北面に伺候した武士)が、出家しようと思い詰めたが、せめて現世の別れに、多年仕えた先帝後醍醐に暇乞いを申し上げようと御廟に参り、祭壇の前で通夜をした。その時に彼は、以下のように泣く泣く訴え祈り続けた。
 いったい今の世の中はどうなっているのか。威力があっても道義のない者は必ず滅ぶと言い置かれた先賢の言葉にも背いている。また、百代までは王位を守ろうと誓われた神約も実現されず、臣が君を犯しても天罰なく、子が父を殺しても神の怒ったためしがない。これはいったいいかなる世の中であろうか。
 夜通し嘆き続けているうちに疲れ果て、ついまどろんでしまったその時、夢に、御廟が振動して先帝が現れた。その姿は、次のようであった。

 昔の龍顔にはかはつて、怒れる御眸〔まなじり〕さかさまに裂け、御鬚左右へ分かれて、ただ夜叉・羅
 刹の如くなり。まことに苦しげなる御息をつがせたまふ度ごとに、御口より焔〔ほのお〕はつと燃
 え出でて、黒煙〔くろけぶり〕天に立ち上る。 (巻三十四「吉野の御廟神霊の事」)

 すなわち、昔のお顔(龍顔とは天皇の顔のこと)とは大きく異なり、怒りに満ちた眼は逆さまに裂け、鬚は左右に分かれて、ただ夜叉(鬼神)・羅刹(人間をだまし、その肉を食うという悪鬼)のようなもの凄い形相であったという。また、まことに苦しげに息をつぎ、そのたびに口からは焔が出たという。
 そうした姿の後醍醐は、日野資朝・俊基を呼び出しており、足利討伐の謀議を始めたが、彼らの姿も「面〔おもて〕には朱を差したるがごとく、眼の光耀いて、左右の牙〔きば〕銀針〔ぎんしん〕を立てたるやうに、上下〔うえした〕におひ違ひたり」、すなわち、顔は朱に塗ったように赤く、眼は爛々と輝き、歯は銀の針を立てたように上下互い違いになっていた。ようするに、彼らも怨霊の姿であった。この時、日野資朝・俊基らが足利氏掃討の戦術を奏上すると、先帝は「まことに気持ちよさそうに笑って、さらば年号の変らないうちに、急いで退治せよ」と命じて御廟の内へお入りになったという。
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松尾氏の説明は『太平記』の記述を概ね正確になぞったものですが、念のため、原文も紹介しておきます。
なお、松尾氏は流布本(岩波大系)を用いておられますが、西源院本を引用します。(兵藤裕己校注『太平記(五)』、p329以下)
細かい表記の違い等を除き、内容的には殆ど同じです。

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 南方の皇居は、金剛山の奥、観心寺と云ふ深山〔みやま〕なれば、左右〔そう〕なく敵の近づくべき処ならねども、隻候〔せっこう〕の御警固に憑〔たの〕み思し召したる龍泉、平石、赤坂城も、攻め落とされぬ。昨日今日まで御方〔みかた〕なりし兵ども、今は皆、心を替へ申して御敵〔おんてき〕になりぬと聞こえしかば、「山人〔やまうど〕、杣人〔そまうど〕を案内者として、いかさまいずくの山までも、(敵)攻め入らんと申す」と、沙汰しければ、主上を始めまゐらせて、女院、皇后、月卿雲客には、いかがすべきと、怖〔お〕ぢ恐れさせ給ふ事限りなし。
 ここに二条禅定殿下の候人〔こうにん〕にてありける上北面、御方の官軍かやうに利を失ひ、城を落さるるの体〔てい〕を見て、敵のさのみ近づかぬ先に、妻子どもをも京の方へ送り遣はし、わが身も今は髻〔もとどり〕切つて、いかなる山林にも世を遁ればやと思ひて、先づ吉野辺まで出でたりけるが、さるにても、多年の奉公を捨てて、主君に離れまゐらせ、この境ひを立ち去る事の悲しさよ、せめて今一度〔ひとたび〕、先帝の御廟に参りて、出家の暇〔いとま〕をも申さんとて、ただ一人、御廟へ参りたるに、この騒ぎに打ち紛れ、人参り寄るとも覚えずして、荊棘〔けいぎょく〕道を塞ぎ、葎〔むぐら〕茂りて旧苔扉〔とぼそ〕を閉ぢたり。いつの間にかくは荒れぬらんと、ここかしこを見奉るに、金炉に香絶えて、草一叢の煙を残し、玉殿燈なくして、蛍五更〔ごこう〕の夜を照らす。
 飛ぶ鳥もあはれを催すかと覚え、岩漏る水の流れまでも、悲しみを呑む音なれば、終夜〔よもすがら〕、円丘の前に畏まつて、つくづくと憂き世の中のなり行く様を案じ続くるに、「そもそも今の世、いかなる世ぞや。「威あつて道なき者は必ず亡〔ぼう〕ず」と云ひ置きし先賢の言〔ことば〕にも背き、百王を護らんと誓ひ給ひし神約も誠〔まこと〕ならず。また、いかなる賎しき者までも、死しては霊となり、鬼となりて、かれを是し、これを非する理〔ことわ〕り明らかなり。況んや君、すでに十善の戒力〔かいりき〕によつて、四海の尊位に居し給ひし御事なれば、玉骨はたとひ郊原の土に朽つるとも、神霊は定めて天地に留まつて、その苗裔を守り、逆臣の威をも亡ぼされんずらんとこそ存ずるに、臣君を犯せども、天罰もなし。子父を殺せども、怒りをも未だ見ず。こは何となり行く世の中ぞや」と、泣く泣く天に訴へて、五体を地に投げ、礼をなす。余りに気くたびければ、首をうなだれ、少しまどろみてある夢の中に、御廟の震動する事やや久し。
 暫くあつて、円丘の内より、誠に気高げなる御声にて、「人や候ふ。人や候ふ」と召されければ、東西の山の峯より、「俊基、資朝、これに候ふ」とて参りたり。この人々は、君の御謀叛を申し勧めたりし者どもなりとて、去んぬる元徳三年五月二十九日に、資朝は佐渡国にて斬られ、俊基はその後、鎌倉の葛原岡にて工藤二郎左衛門尉に斬られし人々なり。貌〔かたち〕を見れば、正しく昔見たりし体〔てい〕にてはありながら、面〔おもて〕には朱を差したるが如く、眼〔まなこ〕の光り耀いて、左右の牙針を立てたるやうに上下に生ひ違ひたり。その後、円丘の石の扉を押し開く音しければ、遥かに見上げたるに、先帝、袞龍〔こんりゅう〕の御衣〔ぎょい〕を召し、宝剣を抜いて御手に提げ、玉扆〔ぎょくい〕の上に坐し給ふ。この御貌〔おんかたち〕も、昔の龍顔には替はつて、怒れる御眸〔まなじり〕逆に裂け、御鬚左右へ分かれて、ただ夜叉羅刹の如し。誠に苦しげなる御息をつかせ給ふ度ごとに、御口より炎ばつと燃え出でて、黒煙天に立ち上る。
 暫くあつて、主上、俊基、資朝を御前近く召して、「君を悩まし、世を乱る逆臣どもをば、誰にか仰せ付けて罰すべき」と勅問ありければ、俊基、資朝、「この事は、すでに摩醯脩羅王〔まけいしゅらおう〕の前に(て)議定あつて、討手を定められ候ふ」。「さて、いかに定めたるぞ」。「先づ、今南方の皇居を襲はんと仕り候ふ五畿七道の朝敵どもをば、楠木判官正成に申し付けて候へば、一両日の間に、追つ帰し候はんずるなり。仁木右京大夫義長をば、菊池入道寂阿に申し付けて候へば、伊勢国へぞ追つ下し候はんずらん。細川相模守清氏をば、土居、得能に申し付けて候へば、四国へ追つ下し、阿波国にて亡ぼし候はんずらん。東国の大将にて罷り上つて候ふ畠山入道道誓をば、殊更嗔恚強盛〔しんいごうせい〕の大魔王、新田左兵衛(佐)義興が申し請けて、治罰すべき由申し候へば、たやすかるべきにて候ふ。道誓が郎従をば、所々にて首を刎ねさせ候はんずるなり。中にも、江戸下野守、同じき遠江守二人をば、殊更悪〔にく〕い奴にて候へば、辰の口に引き居ゑて、わが手に懸けて切り候ふべし」と奏し申されければ、主上、誠に御快げに打ち咲〔え〕ませ給ひて、「さらば、やがて年号を替へぬ先に、疾く疾く退治せよ」と仰せられて、御廟の中へ入らせ給ひぬと見まゐらせて、夢は忽ちに醒めにけり。
 上北面、この示現に驚いて、吉野よりまた観心寺へ帰り参り、内々人に語りければ、「ただあらまほしき事を、思ひ寝の夢にも見るらん」とて、さして信ずる人もなかりけり。
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もう少し続きがありますが、いったん、ここで切ります。
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