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平松令三氏「高田宝庫より発見せられた新資料の一、二について」(その2)

2022-08-23 | 唯善と後深草院二条
平松令三氏(1919-2013)は「三重県津市一身田町にて郵便局長であった平松乾三の長男として真宗高田派本山専修寺の門前に生まれ」、京大で赤松俊秀に師事、一身田郵便局長を勤める傍ら「赤松俊秀と第三高等学校での同級生であった高田派本山専修寺法主常盤井堯猷の進めにより、同寺に伝わる親鸞以来の法宝物類の調査を継続的に行」った人で、郵便局長を退職後、龍谷大学教授になったというなかなか珍しい経歴の方ですね。

https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/822851.html

「新法主の御手によって高田宝庫の一部分が整理せられた際」、『教行信証』の二つの古写本が発見された訳ですが、一つは「慶長五年(一六〇〇)高田派第十三世堯真上人の命により、その御子堯秀上人(慶長三年得度)と信楽院慶忍なる者とが書写したもの」、もう一つは「奥書等はないが、筆跡より見て室町時代のもの」です。
両者はほぼ同一内容ですが、前者は後者を写したのではなく、「少なくとも慶長五年まではこの二本のほかに底本が専修寺に伝来しており、二本ともそれから書写された」という関係ですね。
さて、「しかしこの二本の最大の特色は、化身土巻末巻の巻尾に、次の跋文を有することである」の続きです。(p110以下)

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 今此教行信証者、親鸞法師選述也、立章
 於六篇、調巻於六軸、皆引経論真文、各備往
 生潤色、誠是真宗紹隆之鴻基、実教流布
 之淵源、末世相応之目足、即往安楽之指
 南也、而去弘安第六暦歳癸未春二月
 二日、彼親鸞自筆本一部六巻、従先師
 性信法師所、令相伝畢、為報仏恩、欲企
 開板於当時伝弘通於遐代之刻、有度々
 夢想之告矣、于時正応第三天歳次庚寅
 冬臘月十八日夜寅剋夢云、当副将軍相州
 太守平朝臣乳父平左金吾禅門<法名果園>
 屈請七口禅侶、被書写大般若経、彼人数
 内被加於性海、而奉書写真文畢、爰白馬
 一疋金銭一裹令布施之覚而夢惺畢、同
 四年正月八日夜夢云、当相州息男年齢
 十二三許童子、来而令正坐於性海之膝上、
 覚而夢惺畢、同廿四日夜夢云、先師性信
 法師化現而云、教行証開板之時者、奉触
 子細於平左金吾禅門、可刻彫也、言已乃
 去覚而夢惺畢、同二月十二日夜夢云、有
 二人僧、而持五葉貞松一本松子一箇、来与
 於性海、覚而夢惺畢、依上来夢想、倩案
 事起、偏浄教感応之先兆、冥衆証誠之
 嘉瑞也、若爾者、機縁時至、弘通成就者歟、仍
 奉触子細於金吾禅門、即既蒙聴許、而所
 令開板也、然此本者、以親鸞自筆御本、令
 校合、令成印板者也、庶幾、後生勿令加減於
 字点矣、

 本云
  于時正応四年五月始之、同八月上句終
  功畢、                    
      (以上反点送仮名を略す。ただし句切点は筆写)
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いったん、ここで切ります。
二つの写本が「高田宝庫」から発見された後、三重県四日市市の中山寺でも同種の写本が発見され、重見一行氏が両者の異同を分析されています。
中山寺本の本文は峰岸純夫氏の「鎌倉時代東国の真宗門徒-真仏報恩板碑を中心に-」を紹介する際に引用済みですが、峰岸氏によれば、

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(注)高田本山二本によれば(b)次(d)令(e)也がそれそれ脱落している。(a)(c)本山二本各「六」「果」とある。その他本山二本は最後の「于時──」の前に「本云」とあり、「勧進沙門性海」がなく、訓点、傍注に多少の相違がある。これらの多くが、高田本山蔵二本と中山寺本との相違、という形で現れている故、訓点を含めて原祖本にはなかったと考えられる(重見氏注)。

http://web.archive.org/web/20131031003035/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/minegishi-sumio-shinshumonto.htm

とのことで、細かい字句の異同を除くと、一番最後に「勧進沙門性海」があるのが中山寺本、ないのが「高田宝庫」の二本ですね。
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