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網野善彦を探して(その14)─「アカハタ記者を伊藤律問題でやめていた小野義彦氏」(by 犬丸義一)

2019-01-25 | 「五〇年問題」と網野善彦・犬丸義一
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 1月25日(金)11時03分39秒

犬丸義一「私の戦後と歴史学」(『年報・日本現代史第8号 戦後日本の民衆意識と知識人』、現代史料出版、2002)に戻って、続きです。(p257以下)

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五 歴史学研究会大会での民族問題論争

 この間、私は東大歴史学研究会の研究会に生協活動の合間を縫って参加する。コミンフォルム批判で国家論、民族問題の重要性が痛感され、一九五〇年歴研大会は「歴史における国家権力」をとりあげる。大会には前年の大会にも参加していたが、この大会でアカハタ記者を伊藤律問題でやめていた小野義彦氏が発言し戦後日本の国家権力の買弁的ブルジョワ権力への転化を主張した。この大会が終わった後、かねて小野氏の論文を読み、国際派ということを聞いていたので、声をかけ、小野氏の家に出入りするようになった。隣が内野壮児氏だった。小野氏の『前衛』で没になってゲラのままだった未発表論文を筆写して回覧したりした。
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いったんここで切ります。
歴史研究会大会は五月に行うのが慣例ですが、1950年の大会は1月のコミンフォルムによる野坂参三の平和革命路線批判の後、6月6日のマッカーサーによる共産党中央委員24人の公職追放指令に伴う共産党の分裂の直前ですから、政治的にかなり微妙な時期ですね。
小野義彦(大阪市立大学名誉教授、1914-90)については、その著書『「昭和史」を生きて』(三一書房、1985)を少し紹介したことがあります。

「伊藤律がすぐ私のもとにやってきて、私の思想調査のようなことを……」(by 小野義彦)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0c3b6212ebcd81fde18fde76bef8d379

小野は「国際派」の学生に大きな影響を与えていたようで、安東仁兵衛『戦後日本共産党私記』(現代の理論社、1976)にも登場します。(p88以下)

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 四九年の秋も終ろうとする頃、私はグラウンドの地下室にあった『学生評論』の部屋で力石からある人物に会うことをすすめられた。力石はその頃、確か学対部員となって本部に勤務していたはずである。その彼が本部の宿直の夜に小野義彦という理論家と知り合った。この人は戦前の京大の学生運動のリーダーであってわれわれ全学連にも深い理解と支持を抱いている、しかし徳田らの指導方針に批判を持っているために『アカハタ』の一記者という仕事に甘んじているが、知り合い語り合うほどに感服させられた、是非訪ねてこい、といわれた。
 教えられた小野の家は私の家族が間借りしている目黒の近く、大崎の駅から歩いて十分ほどのところであった。夜、ひそかに訪ねるという形をとった。確かこの頃、小野は伊藤批判の故に「出勤に及ばず」ということで閉門状態に置かれていたと思う。*
 見るからに明晰な相貌をした小野は力石から私の訪問を知らされていたと見えて、早速私を啓蒙にかかった。「三二テーゼ」と比較しながら戦後の権力体制の変動を説くという手法である。絶対主義的天皇制は? その背骨たる軍事的・警察的機構とは? そして半封建的な寄生地主制は? ひとつひとつ小野は問うてきた。問われて見れば事実は明々白々、もはやそれらの権力要素は崩壊し去っている。「そうですね、すると当面する革命の性格は何でしょうか」、実にハッとするような瞬間であったといって決してオーバーではなかった。「とうぜん社会主義革命……」と私は答える。眼からウロコが落ちる、とはこういう瞬間を指すものであろう。地域人民闘争も夏の国鉄の全逓の大敗北も、党の戦略が根本で狂っていることの所産に過ぎないのではないか。私は宙を飛ぶような勢で目黒のわが家に戻り、小野が貸し与えてくれた論文を大学ノートに筆写しはじめた。それは戦前と戦後の天皇制を比較・検討するという論題のもので、中央から発表を禁じられた禁断の論文である。私は夜を徹して全文を写し取った。中西功の意見書を知らなかった私はこの夜を境に社会主義革命論者となり、党中央に対する明確な造反の意志を固めることになったのである。
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ということで、犬丸が読んだ「小野氏の『前衛』で没になってゲラのままだった未発表論文」と安東の言う「戦前と戦後の天皇制を比較・検討するという論題のもので、中央から発表を禁じられた禁断の論文」は同じものでしょうね。
この論文を読んで、犬丸が安東と同じような「眼からウロコが落ちる」経験をしたのかは分りませんが、仮にそのような出来事があったとしても、後に共産党から除名されることになる小野について犬丸が書けることは自ずと限定されるでしょうね。
それと、犬丸が「アカハタ記者を伊藤律問題でやめていた小野義彦氏」云々と書いている事情は、安東が次のように説明しています。(p90)

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* 内野の話によれば、四九年の秋から冬にかけて『アカハタ』編集局の内部には中央に対する批判的空気が充満していた。とりわけ伊藤律の指導に対する不信は強く、伊藤が本部内の大久保という女性に無礼かつお粗末なラブレターを渡し、それが細胞委員会で問題になって律を糾弾しようとしたのが統制委員会に知られ、西沢隆二が小野を呼び出して出勤停止処分を言い渡した。
 なお内野の回想によれば、内野らの批判グループが党内闘争のためのグループ結成をめざし、七・八人の同志が吹田秀蔵の家で新年宴会を兼ねて集まったちょうどその日にコミンフォルムの論評が報道されたという。
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小野義彦の『「昭和史」を生きて』では、伊藤律に言及する箇所のすべてにおいて伊藤に極めて冷ややかな記述があるのが気になっていたのですが、このような個人的事情があるのであれば仕方ないなと思います。
なお、西沢隆二(ぬやまひろし)は徳田球一の義理の娘と結婚しており、徳田の威を借りて党内で権勢を振るっていたそうですが、「北京機関」時代に徳田との関係が悪化し、伊藤とも激しく対立して、伊藤を中国の刑務所に閉じ込めるのに貢献したようですね。
1949年の時点では、西沢と伊藤はともに徳田球一を支える立場として利害が一致しており、西沢は小野らの攻撃から伊藤を守ってあげたのでしょうね。
司馬遼太郎は西沢と交流があり、『ひとびとの跫音』に西沢が登場しているらしいと聞いて読んでみたのですが、共産党活動の機微に関するようなことは全く出ておらず、つまらないので途中でやめてしまいました。

西沢隆二(1903-76)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%B2%A2%E9%9A%86%E4%BA%8C
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