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『仏々(ぶつぶつ)の明治維新』

2016-03-01 | グローバル神道の夢物語
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 3月 1日(火)11時56分50秒

安丸良夫氏の『神々の明治維新』がよく売れたのは、そのネーミングのセンスの良さにもよりますね。
『神々の明治維新』はリヒャルト・ワーグナーの『神々の黄昏』とかアナトール・フランスの『神々は渇く』などを連想させる非常に格調の高いタイトルで、これが「被害者」側の視点に立って『仏々(ぶつぶつ)の明治維新』だったりしたら語感も悪く、全く売れなかったでしょうね。
ま、それはともかく、最近の研究者が『神々の明治維新』をどのように評価しているかの一例として、引野享輔氏(福山大学人間文化学部准教授)の「近世後期の地域社会における『神仏分離』騒動」の「はじめに」を引用してみます。
澤博勝・高埜利彦編『近世の宗教と社会3 民衆の<知>と宗教』(吉川弘文館、2008)所収の論文です。

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 圭室文雄『神仏分離』、安丸良夫『神々の明治維新』の両著は、いまだにその価値を失わない神仏分離研究の金字塔といってよい。両著以前において、神仏分離・廃仏毀釈という出来事は、社会混乱期に行われた暴挙・大珍事に他ならず、その影響力も一過性的なものにすぎないと評価されてきた。しかし、両著の成果によって、そこに込められた明治新政府の周到な政策意図が明らかになり、神仏分離研究に対する重要性の認識は飛躍的に高まったわけである。
 もっとも、圭室・安丸の主要な関心は、神仏分離が近代社会に及ぼした影響であったため、その評価が神道国教化という最終局面に向け、予定調和的に収斂されていく傾向は否めない。たとえば、近世前期にまで遡り、諸藩の寺社整理を取り上げても、それはあくまで神仏分離政策の「前史」として把握される。また、儒者・国学者らによるさまざまな排仏論も、神仏分離・神道国教化の「思想的根拠」として、ひとまとめに評価されてしまう。そして、地域民衆レベルでの神仏分離の意義も、国家強制に対する抵抗か受容かという二者択一的な視点でのみ論じられることになる。
 こうした神仏分離研究の現状に対して、新たな画期となったのが、田中秀和『幕末維新期における宗教と地域社会』である。同著のなかで、神仏分離は近世後期の地域社会における問題と捉え直され、藩国家や神職の立場からその意義が論じられた。圭室・安丸の視点からすれば、一八〇度の転換といってもよいこのような分析視座の移行により、神仏分離ははじめて近世・近代を見通す研究素材となったのである。
 もっとも、同著の考察により、藩国家が神仏分離を実行へと移す道筋はかなり明確になったものの、地域民衆レベルでの関与・対応はいまだ展望的にしか触れられていない。そこで本章では、近世社会の問題として神仏分離をみる田中の視点を継承しつつ、民衆層まで裾野を広げた考察を行ってみたい。具体的な素材としては、福山藩領山手村という一村落の鎮守管理体制に焦点を絞り、近世後期に起こった「神仏分離」騒動を取り上げる。近世的な宗教世界はなぜ神仏分離を生み出したのか。そして、それが近代社会にいかなる影響をもたらしたのか。こうした疑問に対し、近世一村落の指しもつれ事件から、解決の糸口を探ることが本稿の課題である。
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『幕末維新期における宗教と地域社会』(青文堂、1997)は田中秀和氏(1960-96)の遺稿集で、優秀な研究者だったんでしょうけど、ずいぶん若くして亡くなられた方ですね。

「日本史思想史研究会(京都)のブログ」
【書評】井上智勝「田中秀和著『幕末維新期における宗教と地域社会』」
http://nihonshisoshi.blog64.fc2.com/blog-entry-171.html

そして近世史の研究者である引野氏は、圭室・安丸著の「神道国教化という最終局面に向け、予定調和的に収斂されていく傾向」の単純さが我慢ならず、神仏分離を「近世後期の地域社会における問題」と捉え直した田中秀和氏に触発されて「藩国家」より更に深く、地域民衆レベルの解明を目指されているわけですね。
引野氏の論文についての感想は後ほど。
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