秋の草花咲く涼やかな道を毘沙門沼まで散歩、
睡蓮満開、諸橋近代美術館の小高い丘の休憩館でゆっくり風景を眺める。
私は白布山を背景にしたこの中世の厩を模した美術館の風景を愛する、
大きな企業のバックアップがあってやっと存続できる民間美術館、
裏磐梯唯一の誇れる文化施設、閉館の憂き目なきことを心より祈る。
11月13日まで特別展『ROOMS』開催中、裏磐梯お越しの際は是非お立ち寄りあれ。
道端を彩る初秋の草花、ススキ、ハギ、オオハンゴンソウ、ツリフネソウ、ヨツバヒヨドリ、
秋の草花咲く涼やかな道を毘沙門沼まで散歩、
睡蓮満開、諸橋近代美術館の小高い丘の休憩館でゆっくり風景を眺める。
私は白布山を背景にしたこの中世の厩を模した美術館の風景を愛する、
大きな企業のバックアップがあってやっと存続できる民間美術館、
裏磐梯唯一の誇れる文化施設、閉館の憂き目なきことを心より祈る。
11月13日まで特別展『ROOMS』開催中、裏磐梯お越しの際は是非お立ち寄りあれ。
道端を彩る初秋の草花、ススキ、ハギ、オオハンゴンソウ、ツリフネソウ、ヨツバヒヨドリ、
初秋の風吹き抜ける荒れた庭に咲く花々、
咲き始めたこぼれ種で増え続けたアサマフウロ、あちこちに大きな茂みを作っている、
いずれ抜き捨てなければならない勢い、そしてフロックス、
比べ、たった一輪のデプレア フルール ジョーヌのこの美しさ・・・
私の母の実家は新潟、直江津の近く、山と海の狭間、寒村、有間川にある、
実家の入口前は北陸道、裏庭は北陸線の土手に挟まれていた。
東京の空襲が激しくなり、父は東京に残り、一家は母の実家に疎開した、
幼児だった私の疎開の記憶は当然ながら全くない。
配給手帳、食糧難の時期、その期間の兄弟4人の口減らしの意味もあったのだろう、
東京での生活が戻った子供の頃、夏休みは田舎で20日ほど過ごすことが当たり前のようになっていた、
当時祖父母は健在、いつも名前の書いた下駄を用意し、我々の行くのを待っていた。
祖父母、叔父叔母、子供3人の7人家族に我々4人が加わリ11人、
食事の用意だけでも叔母は大変なことだっただろう。
裏の木戸から北陸線の土手のトンネルを抜け、浜辺まで1分もかからない海で毎日遊んだ、
2階の窓辺の籐椅子に座ってすぐ目の前を走る汽車を眺め、
甘えん坊の私、ホームシックにかかり涙を流した記憶、夜汽車の車輪、汽笛、潮騒の音の記憶・・・
庭の池、鯉、築山、泉水、家の中のつるべ井戸、囲炉裏、土間、家の前に干している天草の匂いの記憶・・・
村長をしていた祖父、GHQの公職追放で隠居生活、書籍、書道具に囲まれた離れのコマで(小間だろう)
過ごしていた、食事も運び込ませ、一人特別生活、兄と私は時々コマに呼ばれ、
晩酌している祖父の説教を正座して聞いた(説教の内容は全く覚えていない)
ただ、嬉しかったのは食べたこともないおいしいお菓子をもらえること、そんな記憶・・・
姉の持っていた海のこの写真の複写が出てきたのがきっかけか、
この夏、白馬に行く途中、なぜか急に道をそれ、田舎に立ち寄った、
突然なので従兄弟の家に挨拶にも寄らず。
いつもは目立たぬバラ、ノアゼット( Noisette )がとても美しく咲いている。
特にエメ・ヴィベールなど花を見ない年もある、が、今年は何度も繰り返し咲く、
セリーヌ・ホレスティエの香りの良きこと、美しいこと。
今日は私の誕生日、といっても特別の感慨はない、
ベス・チャトー(Beth Chatto 1923-2018)NHKで放映された2008年、荒れ地で育む“奇跡の庭”
を録画し、今でも繰り返し観ている、庭を管理するスタッフ全員去った夜、ベスは一人猫と暮らす、
自分のことが自分で出来なくなる時、死を迎えたい、と語っていた、と思う、
ベスはどのように死を迎えたのであろうか。
人生の終焉、私も全く同じ、更に臆病、身近な人を失う悲しみに耐える自信が全くない、
健康寿命更新中、が、先の見えない暗闇の中、長生きする勇気すらない、
夕食後、ダイニングルームで音楽を聴きながらニートでグレンリベットを一人啜りながら考える誕生日・・・
車の修理が終わったとの連絡がデーィーラーから、
この地に居を移して初めてバス、電車利用、乗り継いで会津若松に行く、
いつもの流れゆく風景と全く違い、何か楽しい旅行気分、
猪苗代、会津若松は電車では31分、車よりだいぶ早い。
趣きなく帰宅は修理の終わった車。
一日雨、気温20°c以下、小寒い、セーターを着ればいいじゃないの、
との声も遠くから聞こえるが3時、待望、薪ストーに火を入れる、
室温上がり、湿度下がる、この上ない気持ち良い暖かさ、心地よさ、
そんなダイニングルームでAppleTV、大音量で久しぶり、ブルックナー シンフォニー7番を観る、
8番はよく観、聴くが7番は聴くことが少ない。
Celibidache,7番といえども凄まじい迫力、 チェリベダッケ、すでに30年以上前になってしまうが
この時のサントリーホールに行くことが出来ていたら、どんなに素晴らしかったことだろう、ましてや8番、
いずれにせよCDでよく聽くが、
今でもHD画質ではないものの指揮するチェリベダッケを観れる、聴ける、
You Tubeに感謝。
昨日と打って変わって爽やかな晴天、
今日は早朝から甲府沼でバス釣、下の孫娘も今日はバスが釣れたと機嫌がいい。
二男家族に続いて昼は流しそうめん、青空の下、今回も考えられぬほど楽しくうまい。
8月18日
17日長男一家、車に食材満載して来、残念ながら一日雨、
ユートピアデッキでのバーベキューはあきらめ、雨を避け、エントランスで開催。
昼過ぎから始まったBBQ、4時すぎまで全員食べ飲み満腹、一旦休憩、
雨降りやまず、8時頃夕食、新たなる食材を追加してBBQ再開、22時近くまで続く。
よく食べよく飲んだ、あれほどの食材ほとんどが全員の胃袋に収まってしまった、驚き・・・
アガパンサスが咲いている、草花の中にひっそり咲く、古株だが実に控えめ。
立ち姿の美しい花なので毎年ゆったりした場所に移植しようと思うが実行でずまま。
ピンクの睡蓮開花、黄色も買ったはず、咲いてくれるだろうか、
2時すぎ激しい雨、気温一気に下がる、半袖では寒い、窓を閉める。
今朝 睡蓮が咲いた、窓から眺め気付く、白色の睡蓮、まさかの思い、
数日前に蕾を見つけたばかり、成長開花の速さに驚く。
睡蓮の学名はNymphaea(ニンファエア)名の由来通り清純な美しき水の精「nymph」
次の蕾の開花、果たして何色が咲くだろうか、
蕾は他に幾つか認められる、楽しみなことだ。
昨日は「盆の入り」墓参り、喜多方の高台、上ノ山の墓地公園は墓参りの車で溢れる賑わい、
遠くに飯豊山を望む墓前で合掌、近い将来確実に我々もこの中に埋葬される。
白洲次郎の遺言は「葬式無用 戒名不用」
私は戒名不用、葬式は「家族葬」を望む、
数日後に長男家族一家がやってくる、忘れず伝えておきたい。
車、突然故障、保険会社にレッカー車手配、ディーラーは16日まで休み、一週間ほど車なしの生活になる、
帰宅はタクシーで、最近私の散漫な運転がとても多い、
この故障は帰路、重大な人身事故などを防ぐ先祖のお導きと捉える。
8日から二男家族が来ている。
8月9日は恒例のガーデンバーベキュー、この夏最高かと思うほど気温が高い、
ちょっとためらうほどの炎天下のBBQ、
だが、すぐに涼風、暑さを忘れ、気分は最高、
焼き肉の香り、ビールの旨さ、いつまでも続くBBQ。
8月10日
「流しそうめん」話が出て盛り上がった時、果たして実行できるだろうか、
冗談半分、私は乗り気ではなかった、が、
二男嫁さんの行動力はすごい、実家裏山の竹林から「流しそうめん」に
好都合の太さの青竹を車に積んで来たのだ。
そうめんがスムーズに流れるように竹の節削り、竹樋を支える三脚作り、
図面なし、ぶっつけ本番故、「流しそうめん」の装置づくりに二時間ほど要した、が
こんなに上手く出来上がるとは、
薬味、揚げたて天ぷら、もちろんビール、
想像できなかった楽しさ、美味しさ、一人2把は食べただろう。
ご実家のお母様が竹林から竹を切り出してくれたという。
一日に庭から笑え声が絶えない、この幸せ、いつまで、とふと・・・
ドライブも兼ねて上山のCostcoに行く、既に通い始めて6年、
Costcoでなければ、という品物もいろいろ出てくる。
酒棚に切れたことがない愛飲のTHE GLENLIVET、たまたま切れて数日、
そんな時、初めて目にしたTHE GLENLIVET、1750mlの大ボトル、
ええ・・・THE GLENLIVETが、心の中の価値がグーと下がってしまった、
アル中用か、と思いつつ、迷いつつカートの中に。
行き帰りの桧原湖湖畔走行時、気になった桧原湖の見たことのないペールグリーンの湖水の色、
きれいだが、大雨の影響か?
昨日の裏磐梯の集中豪雨は恐怖を感じるほど激しかった。
夕方、防災放送はよく聞き取れぬが、突然サイレン、間を置いて遠雷かと思うほどの音、
秋元湖が危険水位まで達し、放水が始まったようだ、数100メートル離れている長瀬川の轟音だろう。
この地に居を移し初めての経験、非常放水ゲートのない時代、40年近く前か、
秋元湖の決壊の恐れが出て、この集落の住民は公民館に避難する過去があった、と聞いた、
幸いにも被害はこのまま行けば庭の白樺の倒木と小川の少しの氾濫で収まりそうである。
小川の水源、甲府沼は戦後、鉱夫たちが深く掘った(鉱夫沼が間違って甲府沼に)
長瀬川に直接流れる水路が機能するので大きく氾濫する恐れはない。
白馬岳という山になぜこれほど引き込まれるのか、学生時代、社会人、
そして老人になってからも3度、登り続けたか?今や明確に登った記憶をたどることはできない。
記憶を蘇らす手助けは奇跡的に手元に残ったこのガイドブックと、学生時代のアルバムの数葉の写真だけ、
社会人になってからは毎年訪れたにもかわらずエクタクローム、(スライド用として撮影)
すべて散逸、記録は全く残っていない。初めて白馬、北アルプスに登ったのはこの本を手にし、1963年7月、
大雪渓、白馬大池、蓮華温泉のコースであった、翌年後立山縦走、その後数度訪れたが、白馬の虜になったのは
1966年(昭和41年7月)就職先が決まり、すでに合宿で剣岳に行っている連中に合流しようと唐松岳から
祖母谷に降り(南越)、剣岳からやってくる仲間を待ち構え、2日後に出会い、祖母谷で一泊共に楽しく過ごす。
残った燃料、食料等譲り受け、翌日清水下り(祖母谷温泉から白馬岳に登るコース)に向かうも途中、
重荷を背負った私は空身同然の仲間についていけず、バテ、避難小屋跡で一泊、白馬に向かう仲間と別れる。
白馬で2泊、白馬岳周辺,清水岳、旭岳の花々を求め歩き回り、清水岳で白花コマクサの初めての出会に感激。
白馬から初めて雪倉岳、朝日岳に向かう、旭岳鞍部からダイレクトに長池を目指す、道なき違法ルート、
そこは正に花々咲き乱れる天国のような世界だった。
鉢ヶ岳、雪倉岳、そして朝日岳、降った朝日平の霧の中から聞こえる歌声、
突然現れた主は草原に座って手帳に何かを書いていた若い女性一人、自然、互いに「こんにちわ」
それ以外交わした言葉の記憶はない。日本海に沈む夕日、そして漁火、朝日小屋泊まりの人たち数人、
その美しい風景に魅入っている、私は遠くからその中に先ほどの女性の存在を確認。
朝日平に2泊して蓮華温泉に降った。翌日、食料もまだ十分ある、テントを張ったままにして、
空身で白馬大池に行く。そこで不思議な邂逅、あの女性と、通常の日程であれば出会こともないし、
出会ってすぐに互いに確認出来るはずもない、と今も思う。
下山を共にし、蓮華温泉のテント(10分ほど離れた場所にある)の撤収も手伝ってくれ、
バスで平岩駅まで一緒した。
4時間以上、交わした言葉のほとんど全て記憶にない。彼女は糸魚川、私は松本、行き先が逆、
平岩駅売店でコーラ(クラウン)を買って彼女に渡した時、発した言葉「わー冷たい」
そんなつまらぬことを今でも鮮明に覚えている、彼女の名前さえ聞いていないのに・・・
白馬岳には複合的に絡み合った思い出、記憶がぎっしり詰まっている。
数日前、NHK、小さな旅で「朝日岳」を観た。
4年前、数十年ぶりに朝日岳小屋に泊まったのはまだシーズン前、
白馬大池、白馬 雪倉、朝日のコースを歩いた老人2人、70歳、73歳の私2人だけ、
「名物女性主人」が前泊の白馬山荘との衛星電話のやり取りの声が2階にいる私に聞こえる。
「73歳が先に到着している」と。
おそらく白馬岳、今回が最後だろう、自身の人生の終点はすぐそこ、だが、これだけはわかっている。
八木一郎の序文のように・・・
「俺が死んでも この縦走路は残る 限りある心のきわみをこえて
この縦走路は残る」
1966年7月