裏磐梯 秋元湖にほど近い森の中から・・・

裏磐梯の森の中の家、薪ストーブ、庭、山、酒、音楽を愛する独居老人の日常生活の記録、綴り続ける備忘録。

 

三十路 思い出深き手びねりの盃 

2023年11月08日 | 若き日の思い出

新橋駅から虎ノ門に向かう裏通りに「ふきだまり」という小さな居酒屋があった。

同期の飲み仲間Kと銀座の営業所からいつもは行かない新橋に向かってブラブラ、

(どうして新橋に行ったか動機不明)開店したばかりの「ふきだまり」に彷徨い込んだ。

L字カウンター、6、7脚の椅子、4、50代の和服、白い割烹着姿の女将、

店内は無駄な装飾なく簡素、清潔、女将ぽつねん、客は誰もいない。

確かメニューもなかった、女将が手早く少量の肴を作ってくれる、

女将が美人とか聞き手上手とか楽しい話題提供者ということはまるでない、が

それにもまして居心地が良かった、のだろう。

その後、同期飲み仲間のMも加わり何度「ふきだまり」に通ったことか。

我々は女将を「おばちゃん」と呼んだ、悪友3人揃うと「おばちゃん」に行こうか・・・

確か私の30歳の誕生日だったと思う、昭和49年(1974年)

おばちゃんに俺たち全員三十路、といった記憶が鮮明にある、

帰り際に棚に目にしたことがなかった盃、器はすべて陶芸をしている「おばちゃん」の作、

記念にもらっていくよ、「おばちゃん」の同意のないままそれぞれのポケットに。

そして現在もその盃は不思議に手元に存在し続けている。

行くと閉店過ぎまで飲むのが常、帰りは無線タクシーを2台呼んでもらう。

プッシュホンの普及してない時代、「おばちゃん」はジーコ、ジーコと何度もダイアルを回し続ける。

当時はその時間帯、呼ぶ客が多く無線タクシーセンターになかなか繋がらない、

ホットラインもあったがそれもやがて周知、だめに。

Mは松戸へ、3人「おばちゃん」中目黒、K、南青山、経て自宅、板橋へ。

私の転職、転居後、Mは毎年やってきてくれるがKは互いに都合がつかず、

年賀状のやり取りだけで終わっていた、一昨日Kのご遺族から喪中のハガキ、愕然。

毎年来るMから親しかった同僚、先輩の死を多く聞くショック、そして今度はKまで・・・

Kご夫妻には公私共に大変お世話になった、記さねばならない多くの思い出がある、が、

ここに記すことができない。

Mは盃のことを全く覚えていないと言うがKは覚えていただろうか?

今や確認することはできない、合掌・・・

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コナシ 上高地小梨平

2023年05月21日 | 若き日の思い出

晴天、相変わらず庭を歩き回っている、知らぬ間に満開のコナシに気付く。

コナシ、すぐにマイカー規制のなかった上高地の6月初旬、

(4日が会社創立記念日、前後休暇を取った 間違いなかろう)

小梨平での夢のような2泊のファミリキャンプ、

先月寝室の本箱を処分した時、大量の未処理の写真が出てきた、

探したが見つからなかったその上高地、小梨平の思い出写真が・・・

黄色いテント、コッフェル、学生時代に使っていたケロシンRADIUS、そしてガソリンのPEAK1

全て写真に写っている、

『車で楽しむファミリーキャンプ』きっかけにして「田渕義雄」との出会い、

これを機に私の人生、家族を巻き込んで大きくかわってしまった・・・

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あした世界が滅ぶとも私はリンゴの木を植える

2023年05月11日 | 若き日の思い出

りんご(姫りんご)の花が満開。

1991年この地に居を移して初めて庭に植えたのが「りんご」の木だった。

そのりんごの木(ツガル)は数年前、枯れてしまい現在は2代目。

「あした世界が滅ぶとも私はリンゴの木を植える」

非常に好きな言葉だった、

だが、この年になり、現実はその言葉とは逆、考えがマイナス思考に傾きがち、

明るく、積極的に残された時間を生きようという気力の衰えを感じる日々、

老書道家が数年寝かせるため、到底使う機会のない和紙を手に入れ続ける、

読むために残された時間などない本を買い続ける老学者、

私も常に自身に訴え続けよう、もい一度、

「あした世界が滅ぶとも私はリンゴの木を植える」

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氷壁

2023年02月20日 | 若き日の思い出

冬型にもどり、気温が下がり始めている、夕方から雪、夕食後、薪ストーブ前でグレンリベットを啜りながら

久しぶり『山のパンセ』を読んでいる、外気温-7°c、偶然「穂高」が出てくる、井上靖の『氷壁』の新聞連載が終わり、

単行本が出版されたころのことが書かれている(1962年7月とある、出版5年後だろうか)

「穂高を知らない人が山によく行くという人に向かって、小坂が落ちたあそこを登ったことがありますかと尋ねる、

軽蔑されては一大事と、ついついあんなところは簡単に登ったと言ってしまう、

こういうことから前穂東壁は実際以上に多くの人たちによって登られた・・・」(山のパンセ、穂高)

氷壁を読み、魚津、小坂、そして私も八代美那子に、小坂かおるに憧れ、東壁に登らなければならない、

との思いに至った若き日、そのための訓練に岸壁に挑む、だが、いつも岸壁を前に怖気、克服する勇気がない、

と言って一緒に励んだ後輩、大野にトップは譲れない、手始めに北岳、バットレスを登ろう、

という計画はそんなことから頓挫、1月の一般ルート北岳で終わった、大野は意気地なしの私から去っていった、

そんなほろ苦い若き日の思い出にしたりながら・・・

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遥か遠い田舎の思い出 

2022年08月27日 | 若き日の思い出

私の母の実家は新潟、直江津の近く、山と海の狭間、寒村、有間川にある、

実家の入口前は北陸道、裏庭は北陸線の土手に挟まれていた。

東京の空襲が激しくなり、父は東京に残り、一家は母の実家に疎開した、

幼児だった私の疎開の記憶は当然ながら全くない。

配給手帳、食糧難の時期、その期間の兄弟4人の口減らしの意味もあったのだろう、

東京での生活が戻った子供の頃、夏休みは田舎で20日ほど過ごすことが当たり前のようになっていた、

当時祖父母は健在、いつも名前の書いた下駄を用意し、我々の行くのを待っていた。

祖父母、叔父叔母、子供3人の7人家族に我々4人が加わリ11人、

食事の用意だけでも叔母は大変なことだっただろう。

裏の木戸から北陸線の土手のトンネルを抜け、浜辺まで1分もかからない海で毎日遊んだ、

2階の窓辺の籐椅子に座ってすぐ目の前を走る汽車を眺め、

甘えん坊の私、ホームシックにかかり涙を流した記憶、夜汽車の車輪、汽笛、潮騒の音の記憶・・・

庭の池、鯉、築山、泉水、家の中のつるべ井戸、囲炉裏、土間、家の前に干している天草の匂いの記憶・・・

村長をしていた祖父、GHQの公職追放で隠居生活、書籍、書道具に囲まれた離れのコマで(小間だろう)

過ごしていた、食事も運び込ませ、一人特別生活、兄と私は時々コマに呼ばれ、

晩酌している祖父の説教を正座して聞いた(説教の内容は全く覚えていない)

ただ、嬉しかったのは食べたこともないおいしいお菓子をもらえること、そんな記憶・・・

姉の持っていた海のこの写真の複写が出てきたのがきっかけか、

この夏、白馬に行く途中、なぜか急に道をそれ、田舎に立ち寄った、

突然なので従兄弟の家に挨拶にも寄らず。

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田渕義雄氏

2020年03月25日 | 若き日の思い出

1月30日死去された彼について一度はどうしても書かねばならない。

できるだけ簡潔に、と思うものの、とりとめなく書いてしまうこと、お許しあれ。

初めて彼を知ったのはごま書房の新書。『車で楽しむファミリーキャンプ』

容易くインスパイヤーされた私はすぐ『フライフィッシング教書』という本を買った。

当時、彼は既に『アウト・オブ・ライフ入門』という書籍も出版しており、世はバブル、その反動的アウトドアブーム、黎明期。

時勢に乗りベストセラー、テレビのモーニングショーにも出演するほどの時の人になっていた。

私は何故かそのベストセラーを買う気になれなかった。その後発行された月刊誌、『BE-PAL』も一度も読んだことがない。

なぜか?世の流れに乗る、時代に擦り寄る、マジョリティーに属してしまうのが嫌、ということなのか。

彼も同じ方向を向く人間、彼の出版物が彼の意に反し、勝手に流れに乗ってしまった、という独断的思いがあった。

近年彼の出版物を目にすることが極端に少なくなった。彼の意志なのか推し量れぬが、出版が彼の生業の一つ。彼とて仙人では過ごせぬ。

時は過ぎゆき、下界の人種が変わり、思想が変わり、潮流が変わり、価値観が変わり、諸々変わり、が、ブレず、変わらずは彼の思想、人生哲学。

川上村の彼の家を見ず知らずの人間が勝手に訪問したり、彼のアルカディアを訪ねる団体旅行如き企画を目にするたび、

長年の時を費やし、築き上げてきたアルカディアに安易にドカドカと踏み込んでくる、ジレンマ、彼の心中はいかに、と想像する。

私は彼が川上村に住み始めてから一度たりとて足を踏み入れたことはない。そこは近づいてはならぬ聖地と思っているから。

彼の根本思想、聖地での生活から生まれる瞑想、思想、彼から発せられるメッセイジ(書籍を買うこと)をじっと待てばいい。

彼の信奉者ならそれが礼儀というもの。

田渕義雄氏のプロフィールで知れる、 fireside森からの便りから引用

(1944年東京生まれ。作家。1982年、八ヶ岳に程近い金峰山北麓の山里に居を移し、作家活動を続ける。

自給自足的田園生活を実践して孤立無援をおそれず、自分らしく生きたいと願う人々に幅広い支持を得ている。

また園芸家、薪ストーブ研究家、家具製作者でもある)

40年以上前の最後のファミリーキャンプは田淵氏が家を建てる前、川上村、彼が年中キャンプしていた、最も愛してた場所だろう、ところで。

そして朝食は彼推薦のトースターでトースト。多分子供たちもてい覚えていることだろう。

その後、彼がBE-PALに連載した随筆をまとめた単行本、森からの手紙を読み、益々宮使いが嫌になった。

思わぬチャンスが訪れ、家族を説得し、1991年、孤立無援をおそれず、転職、転居した。

フライロッドを握り始めたのは無論のことであた。店の名前は迷いなくCurtis Creek。

当時はまだこの名前を使った企業、店名はなかったと思う。

語りたいことたくさんあれど、もうその彼はこの世にいない。

老人の取り留めない話、やめよう、長話になってしまった。

いずれにせよ、語る私自信、彼を追ってあの世に行く日もそう遠くない。

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CI ロゴタイプのことなど 徒然に

2020年03月07日 | 若き日の思い出

高度経済期の頃、アメリカ発祥の思想、手法のCI(corporate identity)、日本の企業においてもそのCI嵐が吹き荒れた。多くの企業が先を争うようロゴを変えた。

世の流れはMI,BIからVI(Visual Identity)へ、CIといえばVIの事に。私の務める社もその分野の弱体企業とは言え、CI受注が営業活動に加わり

営業マン、無知、無学な私の重荷になった。関わった企業はたった3社、設計製図機器メーカーM社、

これは経営者トップの主意を聞くことから始まり、数社との数度のコンペを経て採用されたので、関わったとえるだろう。

お名前失念、ある外廓団体の社史年史の編纂お手伝い、及び印刷。

音響機器メーカーK社(当時VIの成功例として話題になった)K社のVIを語るはおこがましいにも程があるが。

私が関わったのは単にVI運用マニュアルの印刷受注だけなのだから。そんな僅かな経験だが、ロゴマークが大変気になる。

CI,VIの方向性決定はトップダウンが主、ロゴを見れば経営者の能力、企業体質、が分かる、それほど重要なロゴ、

そんな気がする、無知、生意気すぎるにも程があると自覚の上。

最近気になるロゴ、車に興味はほとんどない、が、外車のエンブレムに比べ日本車???

特に戦車じゃあるまいし、M車(だが、企業体質として永遠に変革は無理と思う)テニス観戦大好き、今のロゴではバドミントンの狭い世界ならいいたろう。

だがもっと世界的スポーツのテニスではいかにも野暮ったいYYように思う(あくまでも私感)超スポーツ、未来フィーリング、そんなロゴに。

実力NO,Iと誰もが思う、N嬢、小兵ながら頑張るN(その他世界の数多くのトッププレーヤーも使用)のためにも誇りを持って軽々振り切れるデザインに、と思う。

YYラケットを使用しているプレーヤーを応援してしまう。マナーでいろいろあるがキリオス、大好きだな。最近元気ない韓国チョン・ヒョン頑張れ。

言うは易し、だがM社と正反対の生い立ち、実力ある企業YYならできる。

自身を全くわきまえることができない、ボケ老人が徒然に語る好み、お許しあれ。(つぶやきの補足で記す)

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オープンデッキ 今日も古いもの・・・

2020年02月21日 | 若き日の思い出

今日も物置のPeak 1よりずっと思い出多きラジウスを懸命に探している。探しているものは見つからず、

全て処分したはずのオープン・リールソフト数本でてくる。

カセット、CDが世に出る前の今やその存在さえ知らぬ人がほとんどだろう。

東陽堂・・・といっても知る人も更にいないだろうし、テープ・サウンドという季刊誌が存在していたということも。

当時最高の性能を誇るコンピュータ用西独BASFテープを使用し、マスタープリントの贅沢なソフト、ああそれに当時世を席巻したSwiched on Bach、

残念なことに捨ててしまったのだろう。といっても再生するハードがない。若い頃、帰宅は常に深夜、静寂な世界で音楽を聴く、

どうしてもPPの世界、LPのスクラッチノイズが我慢できなかった。そこでボーナスを叩いて高価なオープン・デッキを買う。テープ・ヒスは我慢できた。

さすが独身貴族といえどもアンペックスは無理、やっとTEACの4トラック(TEACは20万円位だったか、当時アンペックスは5倍ぐらいはしたろう)で我慢。

だがその時代は長く続かなかった。すぐに簡便なカッセットの時代がやってきてしまった。

だがあの大きなオープンリールが静かに回るあの迫力ある風景は本当に素晴らしかったな・・・と今も思う。

(追記)Swiched on Bachのテープソフトが見たい、ソフトケースでいいのだ。世にCDはあってもオープンリールソフトは滅多にあるまい。

今朝も物置ゴソゴソと、やはり処分してしまったのだろう。出てきたのはボロディンのハイドン、ベートーヴェンだけ。

ハードがなく聴くことのできないソフトを懸命に探す、我ながらしつこい。

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復活 Peak 1

2020年02月20日 | 若き日の思い出

古いペンション仲間、大先輩のお宅を訪れ、久しぶりの歓談。

本当に楽しい時間を過ごすことができた。ありがとうございます。

それにしても当時、若く、希望に満ち、生き生きとしていた仲間たち、

年取り少しずつ、消えていく。悲しいことだ。

閑話休題、あの #Peak 1、手を汚し、知識を総動員して懸命に修理に挑む。

古い革手袋を切り取り作ったポンプのパッキンが功を奏し、圧がかかるようになる。

点火、あの燃焼音、綺麗な青い炎、おおお、Peak 1復活。

ますはお湯を沸かし、妻とコーヒーを飲む、何十年ぶりだろうか。

Peak 1、ガソリン火力の強さは今日山では当たり前のLPGの比ではない。

昔しのガスボンベはブタンが主、冬山では気化せず熱量不足、全く使用できなかった。

今日では気化しやすいプロパンガスが主になり、冬山でもなんとか使用できるようになったが、

今でも極寒の山や、極地ではバーナーはガソリンや石油でなければならない。

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Coleman PEAK1

2020年02月18日 | 若き日の思い出

子供たちがまだ1,3歳の頃、狭苦しい団地住まいの憂さ晴らし、週末を楽しむために小型車を所有した。

そんな時、更に田渕氏の車で楽しむファミリーキャンプとう本との出会い、

田渕氏言わく、この本の読者にしか手にできない新しい秘密の遊びの書である、と。

まさにその通り、この書の出会いによって週末、休日の過ごし方が一変した。

キャンプ道具がどんどん増えた。PEAK1もその一つ。

北八ヶ岳、北岳、広河原、上高地コナシ平、霧ヶ峰、訪れた場所は今や思い出しきれない。

田渕氏推薦のキャンピングギアの一つPEAK1、物置からやっと探し出すも、エアポンプが壊れれいる。

早速修理に出すつもりであるが、およそ40年前に購入、修理可能か、興味深いところだ。

最近の中国製のColemanなど買うつもりなど全くない。

それにしても田渕氏、この世からあまりに突然、あまりに早く消えてしまった・・・

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雲ノ平の憶い

2017年12月10日 | 若き日の思い出

数日前、ハードディスクに録画した雲ノ平という番組を観た。

それはほとんど埋もれ、忘れてしまった遠い記憶、懐かしい青春の想い出、その時の感動を再び苦しいほど鮮明に蘇らせた。

その雲ノ平の記録は古いアルバムに残されていた。

初めて雲ノ平を訪れたのは1964年7月13日(19歳、53年前ということか)

裏銀座縦走を目指したものの、幕営した三ッ岳で激しい嵐に襲われ、テントの支柱はへし折られ、飛ばされ、テントをかぶり、

濡れネズミ、寒さに歯の根も合わず、長い夜明けを待ち、命辛がら烏帽子小屋に逃げ込んだ。

晴天の翌日、支柱の無事だった一張りを持ち、雲ノ平へ。嗚呼、その時の感動は・・・最早言葉にすることができない。

2度目は翌年1965年、立山から奥穂高縦走の時。

長期の体力消耗の激しい山旅の途中、雲ノ平の前年の感動喜びはなかった・・・

3度目は社会人になっての夏休み、記録はまるで無い。

1970年前後の7月、やはり激しい風雨の中、野口五郎の稜線をずぶ濡れになって歩いた記憶、

水晶岳の頂上を踏んだ記憶、美しい草花、池塘、雲の平小屋の記憶は蘇るも・・・

槍の頂を踏んで上高地に下ったはず、だがその記憶が不思議なほどない。

ああ、北アルプス最奥部雲ノ平、行ってみたい、思いは募るばかり。

残された時間わずか、体力を考えると実現は難しい。老人の悪あがき?だが是非トライしてみたい。

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ミヤマオダマキ

2014年03月23日 | 若き日の思い出

しつこい春の雪が昼過ぎやっと止んだ。

雲間から強い春の日差し、一週間ほど前に福島の園芸店で買った窓辺のミヤマオダマキが花開く。

咲いた花は純白、見つけた瞬間、うれしさのあまりよく見ないで選んでしまった。

すぐに青花を買いに行くことになるだろう。

庭にはいろいろの種類の園芸種のオダマキがある。だがいずれもミヤマオダマキの美しさには遠く及ばない。

この花には強い思い入れがある、忘れがたき遠い日の思い出がある。

私のもっとも愛する山、白馬岳。信州、越中、越後側から、その頂に立った回数は数え切れない。

社会人になってからの休暇は3日、山中2泊がやっと。夏休みは決まって白馬、雪倉、朝日岳のコースを歩いていた。

そんな中のいつの日か、霧の深い日があった。大雪渓を登りきった時、霧に見え隠れする杓子菱目指し、そのまま直登してしまおう、そんな気分になる。

霧の流れる中に展開した天上のお花畑、どこまで続くか、広大、今までに出会ったことのない美しき高嶺の花々、夢心地、まさに天国をさまよい歩いている思い・・・

霧にまぎれて不法に迷い込んだお花畑、とりわけ美しい一叢、それがミヤマオダマキの一叢だった・・・

40年、白馬岳に登っていない、花々咲き乱れる初夏、今年は是非と思う。

白馬岳から旭岳裾野を回り込み、ダイレクトに長池を目指して彷徨う。それは山々に囲まれた信じられないほど見事な秘密の花園を彷徨うということだ、そしてコマクサ咲き乱れる雪倉岳。

夕暮れの朝日岳、日本海に沈む太陽、浮かぶ漁火のきらめき、薄暗いランプの灯火の下、薪ストーブを囲み寡黙にウイスキーを啜る。

そんな世界、今でもあるだろうか・・・

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伊藤新道・・・

2012年02月12日 | 若き日の思い出

山用のGPSアプリを調べていたら、偶然カシミール3Dというfreeソフトの存在を知る。試しにPCにダウンロード、早速試してみた。そしてこんなfreeソフトが存在することに愕く。

カシミール3D地図上で若い頃歩いた北アルプスを詳細に辿る。稜線、谷、渓谷、峰峰、拡大、縮小しながら。あぁ、荒れ谷高瀬川に今では高瀬ダム、七倉ダム、2つもダムができている。

東京オリンピックの年、昭和39年の初夏、信濃大町より高瀬川を遡り、濁り沢出会いで幕営、梅雨末期の豪雨、あっという間に沢に架かるトロッコの橋は濁流に流され、本流では濁流に押し流される巨岩がぶつかり合う音がまるで落雷のように谷間に轟く。

巨岩が水中でぶつかり合い火花を散らす、濁流があちこちで光りを発する、物理的にありえることだろうか?だが自身信じられないと思いつつも、まぶたにその光景がありありと浮かぶのである。

その後も悪天候続き、雲の平までが精一杯。槍、上高地の時間はない。

伊藤新道・・・夢中で降った、だが実に不思議な、現実離れした夢の世界を彷徨ってのような、それでいて半世紀前に通った道とは思えないほど部分的ではあるが鮮烈な記憶として残っている。

辿るカシミール3D、三俣蓮華岳から湯股川に降るその伊藤新道のルートを辿る。地図上道は存在している。

だが、実際調べれば昭和58年に廃道になってしまた。

湯股川に架かっていた5本の吊橋もすべて落ちてしまったのだろう。実に惜しい、単に三俣蓮華への最短距離というだけではない、夢のような山深い魅力ある山道であった。

できれば伊藤新道を遡り、天上の楽園、雲の平に行ってみたい・・・と激しく思う。

DIY GPSにカシミール3Dを入れたiphoneを持って伊藤新道から雲の平に行ってみようか、だがこれは体力的にまったく無理、空想するだけにしよう。(写真 1964年7月14日の伊藤新道)

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コマクサ

2011年07月27日 | 若き日の思い出

初めてコマクサに出会ったのは後立山、天狗岳の稜線、黒部側の斜面だった。

白馬から後立山縦走、朝の光の下、朝露に濡れ風に打ち震えて咲くコマクサに偶然出会う。

夢中で何度もシャッターを切った、それは鮮烈な記憶としていまも残る。

今改めてこのちっぽけな粗末なモノクロ写真を見てあのときの感動はいったい何だったのだろうか、と思う。

当時の山頂はゴミの山が当たり前、登山者のモラルも一般的にはとても低く、高嶺の花の女王は心無い登山者によって盛んにむしりとられていた時代、

どの山でもコマクサは激減し、とても希少な、誰もが憧れを抱く高嶺の花、といた時代背景、それはアルプスのエーデルワイスと似た存在であった。

その後コマクサを求めて、大きな群落を求めて、白いコマクサを求めて北アルプスの山をさまよい歩いた遠い昔があった・・・

今では登山者のモラルも比べることのできぬほど向上し、どの山でもコマクサは数を増し、それほど珍しい植物ではないらしい。

このごろ園芸店でよくこの花を見る。品種改悪された真っ赤な花、四季咲きと称すもの・・・

孤高の女王としての気品を失った、それは目を背けたくなるような姿であった。

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氷壁

2011年02月10日 | 若き日の思い出

今、氷壁を読んでいる。そして半世紀前に感情移入し、激しく感動して読んだ頃を懐かしく思い起こしながら違った視点から読み直している。

今尚新鮮な感動がある。氷壁・・・

前穂東壁ザイル事件がおきたのが昭和30年、井上靖は翌31年朝日新聞に氷壁を連載開始し、32年に単行本を出版している。(新潮社)

山登りに詳しいと思えない彼が係争中のこのセンセーショナルな事件を取材し、短期間に氷壁を書き上げた事実は驚くべきことである。

学生時代山登りが好きでよく山に登った。当然ながら山好きの人間がたどる自然な成り行きで井上靖の氷壁を熟読し、

多くの山登りが好きな若者がそうであったようにヒロイン、八代美那子に、小坂かおるに憧れ、そして恋した。

前穂東壁に登りたい、せめて無雪期の東壁に登らなければならない、という強迫観念に取り付かれた。氷壁の世界に入り込むためにはバリエーションルートを克服しなければならない・・・

岩登りのゲレンデ、三ツ峠通いが始まった。岩壁の登り下りの繰り返し、三つ峠の短いすべてのルートの繰り返し登った、岩場の前にテントを張って頑張った。

山登りはいつも簡単な入門コースの岩登りになった。だが、臆病者は高所を、垂直をどうしても克服することができなかった、トップを登る自分を想像し、いつも手に汗をかいた、いつも岩壁を前にすくんだ。 

そして友との計画、トップで登る自分にまったく自信が持てなかった、北岳バットレスを中止し、一月の一般ルートでお茶を濁した。バットレスは岩登りの入門コースであるにもかかわらず・・・

一緒に岩を登っていた友の誘いがなくなった。東壁どころではなかった、私の氷壁の世界は、八代美那子は憧れで終わってしまった。

氷壁は苦い思い出でもある・・・

 

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