五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

自分の幸福とメメントモリ

2015年06月14日 | 第2章 五感と体感
自分の幸福とメメントモリ2015年6月14日

私達のNPO設立10周年を記念しての講座が昨日行いました。参加者の皆様とランチビールで乾杯し、充実した時間を過ごさせていただきました。ありがとうございます。
6月13日昨日のテーマは「自分の幸福とは?自分の真善美とは?」
いつもの通り壮大なテーマですが、普遍的なテーマでもあり、案外ひとりで自問自答しているうちに、面倒くさくなってくるものでもありそうです。
だからこそ、テーマに留まりながら自問自答する時間はほんとうに尊いものだと思っています。

一日かけて、このテーマと向き合い、講座後に会場の隣駅にある病院に親戚を見舞いました。来週に転院することを憂いでいるようで、彼を取り巻く関係者に数カ月に渡り混乱を生じさせているのも、やはり「自分の幸福の問題」であろうとしみじみ思うのでした。
人は一人で死ぬことはできても、それまでの過程は一人で処理する事はできません。死んだ後も自分が自分を処理する事は不可能です。
大抵の人は、この大前提を思い起こすことが苦手なようです。

かといって「自分はどうか?」と自問自答しても、用意周到な準備と心構えをしているとは言えません。

命と身体が切り離された時、「自分の命」が向かう先はどんな環境なのか?「自分の身体」はどう処理されるか。
そして、自分が生きた証しである事務的、法的な処理は誰がするのか?
よくよく考えてみるととてもシンプルな事項3つだけなのです。
では、「自分の死に関する意思」=「メメントモリ」が叶うために、自分は何をすれば良いのか?
自分の死に関する意思は、自分が考えるものであり、他者が決めるものではありませんが、その意思が現状に叶うものでなければ、現状に従いながら自分自身が心身を委ねるしか術はありません。
諸々の準備の整っていない病人を前に、こんなことを思い、整ってはいなくても少なくとも私はこれらのことを思索する機会を得ていることに感謝するのでした。しかし、自分が今際の際に立たされてみないとほんとうのところは解りません。最低限周囲から嫌がられる病人にはなりたくな、というのが本音です。

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忘れること

2015年06月13日 | 第2章 五感と体感
忘れること2015/06/13

「いつも明るいですね~」と言われることが多い私ですが、自分では「明るい性格というよりも忘れちゃうことの得意な性格」と表現した方がしっくりします。
人には、それぞれ役割を持たされています。
その役割は、生まれてから今日までに育まれた役割も含まれています。使命とも云う事ができそうです。

育った家庭での役割や現在の家族の中での役割には逃れることのできないものもありましょう。
逃れる事の出来ない重い重責に四六時中囚われていたら、こんなつまらないものはありません。

自分の身体は一つですが、心のお部屋はいくつもありますし、心の中は宇宙そのものでもあります。
今いるお部屋から出たら、しっかり扉を閉めて、次の興味へと移ることでほんとうに忘れる時間を持つ事ができるのです。

自分が辛いことを我慢する必要はありませんが、常に辛いことを思い続けたり、お口に出していると自分の心がどんどんと狭いお部屋に追い込まれていきます。

昨晩、夢の中で太極拳をしている夢を見ました。24式をひとつひとつ舞っている自分の体感が朝の目覚めを爽快にしているのです。
どこまでもおめでたい私だなぁ~と、このような自分の傾向に感謝しました。

忘れる事は知恵の内。
老子は、「忘れなさい」と仰っています。
修業を重ねれば重ねるほど忘れることが必要なのだと説いています。

まことのことだ、と実感しております。

「身につく」というのは「忘れること」でもありそうです。


よき忘れ方をしたいものです。


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情報の取り扱いに注意

2015年06月12日 | 第1章 意識と知覚
情報の取り扱いに注意2015年6月12日

親切心か、自分自身の存在の何らかを示したいためか、それは解りませんが、色々な情報を自分に伝えてくれます。
それが、「また聞き」であったりすると、とても困ります。

人から聞いた「第三者」のことを更に私にしてくれても、その事実を確かめる事も出来なければ、手を出すことも出来ません。
その伝言ゲームの様な話題を更に私が他の人に伝えたらどういうことになるでしょう。ましてや「誰さんが誰さんの事を○○と言っていた」等と言う「負の伝達」は、無意味で幼稚な伝達内容です。
根も葉もない噂とはそうやって拡がってゆくのです。

悩みの当事者のお話は聞きますが、それ以上の人間関係の輪を広げて話を聞くことは大変危険なことでもあります。悩む当事者は、まさか輪唱されると思って打ち明けるとは思っていません。

もし、誰かが第三者の悩みの話を自分に伝えたとしたら、ここで伝言ゲームを終了したいものです。

口を閉じる。
SNSやメールでの発信は自分のところで止める。

SNSでの情報についても、その人の現実吟味力が問われます。

何らかの悩みを他者に打ち明ける時は、その人がどのような傾向の人であるかを思い巡らしたほうが良さそうです。

情報伝達のための口や手を慎み大事にしてこそ、思いやりなのです。


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名園で語りを聴く

2015年06月11日 | 第2章 五感と体感
名園で語りを聴く2015年6月11日

初めて清澄庭園を訪れました。
花菖蒲が満開でした。艶やかな花の色に梅雨の合間の太陽が降り注ぎ、花菖蒲が咲く周辺ではお弁当を広げ長閑に昼の時を愉しんでいる人が程良い按配で散らばっていました。

清澄庭園は、紀州の紀伊国屋文左衛門の庭園に後に岩崎彌太郎が商船に各地の名石を乗せ、収集し設えた庭です。東京に城が建つと噂されるくらいの勢いだったようです。石の景色だけを見ると江戸城以上かもしれません。

水の交通に便の良い木場や白河であるから叶ったであろう名石庭園。

広い池にはいくつかの島があり、池の端の巨石を踏みながら散策できるようになっています。

その池には庭全体を見渡すことのできる涼亭があります。

昨日は、そこで語りを聴く機会を頂きました。

友人の紹介で随分前にお目にかかり、「老子」や「求めない」の執筆者・加島祥造先生の御縁との繋がりもあり、いつかは聴きたいと思っていました。

柴川康子さんの老子の語りと盛岡弁での宮沢賢治の語りは、身体に強い負荷のかかることの無い空気に乗せたような声から醸し出す「ことだま」であり、優しく人肌の温もりの中にいるようでした。
「うつくしく歳を重ねていらっしゃる方だ。」と、思いました。

「美しい」とは、決して重ね続けるものでは無いことを池の水面の輝きの中で戯れる鷺を眺め、やはりあえて漢字では書きたくないのが私の「うつくしさ」の概念であることを改めて考えるのでした。

ことだまは言霊です。ことだまを操るにはまだまだ甘い自分を反省しながら、深川丼に舌鼓を打つのでございました。

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梅雨の72候

2015年06月10日 | 第2章 五感と体感
梅雨の72候 2015年6月10日

梅の実が熟す時期。梅雨。24節気72候では、ちょうど6月6日の「芒種」の頃が終わり「蟷螂生」(かまきりしょうず)の頃に入りました。

「芒(のぎ)」は、イネ科特有の細い毛の様な部分のこと。
芒種とは穀物の種をまく時期と書かれてあります。
蟷螂の卵からうじゃうじゃと蟷螂の子供が出てくる様子を想像すると鳥肌が立ちますが、蟷螂は、どんな相手でも鎌を振りかざし戦うので「蟷螂の斧」ということわざもあるそうです。

梅雨の72候を纏めてみました。

芒種→蟷螂生→腐草為蛍→梅子黄→腐草為蛍→梅子黄→夏至→乃東枯→菖蒲華→半夏生→小暑→温風至→蓮始開→鷹乃学習

6月11の頃、腐草為蛍(くされたるくさほたるとなる)の頃がやってきます。蛍が光り出す頃です。
そして、6月22日は夏至です。
夏至6月22日の頃、乃東枯(なつかれくさかるる)靭草(うつぼぐさ)が枯れる頃です。

6月27日の頃が菖蒲華(あやめはなさく)

6月30日は夏越の祓(なごしのはらえ)
6月と12月の末日には祓(はらえ)の行事が行われます。神社の境内で茅の輪をくぐる習わしがあります。関西では夏越の祓に「水無月」という和菓子を頂く風習があります。

7月2日の頃、半夏生(はんげしょうず)。この頃に豪雨が多くなります。
半夏とはサトイモ科の烏柄杓(からすびしゃく)のことで、この花は薬草として用いられたそうです。

7月7日の頃は、いよいよ小暑です。それが過ぎると暖かい南風が吹き出し、温風至(あつかぜいたる)となります。

7月12日の頃が蓮始開(はすはじめてひらく)。

7月17日の頃、鷹乃学習(たかすなわちわざをならう)

7月23日の頃の大暑のあたりでめでたく梅雨明け。

じめじめした季節を72候を意識してみると少しは気分の湿度が下がるかもしれません。


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真善美

2015年06月09日 | 第2章 五感と体感
真善美2015年6月9日

真善美を事典で調べてみました。

認識上の真、理論上の善、審美上の美。人間の理想としての普遍妥当な価値を云う。デジタル大事泉より

認識上の真、理論上の善、審美上の美。人間の理想としての普遍妥当な価値を云う。これに聖を加える事もある。広辞苑

とても頭がすっきりする説明です。

この場合の「聖」は広辞苑のいくつかの意味の中で「けがれなく尊い事」と解釈したいと私は思います。
人間が何らかの尺度を持ち思索し解釈する、その「尺度」を「普遍妥当な価値」と置き換えると腑に落ちる体感が湧いてきます。

普遍妥当な価値の尺度は、人の意識と研鑽によって洗練されていくものだと解釈していますが、洗練されてゆけばゆくほど、より「単純」で「素」であるものに審美の価値を見出してゆくもので、その美しさを見出してこそ真善美としての美と云うことができるようにも思います。

宇宙の始まりから段々と自ずと形になっていったものに無駄なものはありません。自然に含まれている諸々の生命のかたちも美しいものなのです。

「美」という字を解体してみると「大きな羊」となります。貢物が美しいものの語源となると「大きな羊ほど美しい」=「価値がある」というわけで、そうなると私が解釈している「美」はかき消されてしまいます。
審美上の美は、宇宙の始まりから段々と自ずと形になっていったものに感ずる人の心の状態を示すこと、と私なりに解釈していたいものだ、と思うのです。



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沙羅双樹咲いた

2015年06月08日 | 第2章 五感と体感
沙羅双樹咲いた

我が家の沙羅双樹こと夏椿が早くも開花しました。咲いていることに気付いたのは6月6日の朝の事です。
うつくしや憂いもありや夏椿
下手な一句も思いつき、例年よりも二週間は早いであろう開花に、少々戸惑いながらもこのところ平家物語を捲る時間が多いので夏椿との以心伝心が叶ったのかもしれません。
蝋のような白い花は儚くも一日も持たず、椿らしく花ごと地面に落下します。
高いところに咲いていたのか、玄関先の龍の髭の上に落下した姿を見つけて咲いた事を知りました。

春は馬酔木(あせび)
夏は夏椿
秋は萩
冬はつわぶき

どの花も季節の始まりあたりに咲き出す花ですが、春夏秋冬の好きな花を思い浮かべるとこれらの花が私に浮かぶのです。

四季の変わり目に先頭を切る割には地味な花々ですが、馬酔木の花は奈良の春を想い、夏椿は諸行無常の響きを投影し、いにしへの雅(みやび)にも鄙びにも相応しい萩は私の秋の象徴でもあり、紅葉の季節が終わる頃、枯れた色々の中に映えたつわぶきの黄色を見出すと冬の訪れを感じます。
春夏秋冬の四季の折々から見出すうつくしさは、華美なものに目を合わせるよりも合わない目線の様な佇まいに気を感ずる方が私の感性に響くのです。

散るさくらの風情とさくらの蕾萌える彩りもうつくしく、
立ち枯れた紫陽花や百合も堪らなく愛おしさを感ずることもあり、表装の設えにしても少々盛りの時期にずれた風情に要を置くと美しさが映えるのです。四季を繰り返し生きてゆき重ねてくるとその微妙なズレ加減にぴたりとしたものを感ずるスケールが自分に育まれていることに気付いたりするのです。
歳を重ねるごとに季節の花々と向き合う自分は、直に向き合うものとは違うところに目線を向けているようにも思います。
これも生き抜く道の理(ことわり)かもしれません。


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惑わされている自分

2015年06月07日 | 第1章 意識と知覚
惑わされている自分2015年6月7日

湧き出る感情の取り扱いについて、ほんとうに自分自身の傾向を知っているだろうか。
その自問自答ができるのは、身近な家族との関係性を意識化したときかもしれません。
最近、自分が半世紀間ある概念にとらわれ続けていたことに気付き出し、「ああ~~損したわ~」と、思うことが度々あるのです。
つまり、感情の取り扱いが上手でないのは、自分では無く身近な家族であることに改めて気付いた時に、今までそのことに気付いていたはずなのに、実は私自身が、その呪縛から本当に解き放たれていなかったことにハタと気付いたのです。
湧き出る感情の処理の一つとして、同じ事を第三者に訴え続けたとしてもそれは解決にはなりません。同じ事を繰り返して訴えたところで、訴える先は焼け石に水のようなものです。第三者は確かに静聴してくれますが、悩みが深くて長い期間の問題であればある程、広い広い宇宙に小石をポンと投げる事と同じなのです。
ほんとうに返してほしい人が自分の理想の答えを返して欲しくても、その相手が自分の傾向と向き合わない限り、叶うことではなさそうです。
であるから故に、問題意識を持った自分が何らかの気付きを求めて自分自身の傾向と向き合った方が手立てがあるようです。

変わらない家族の傾向を変える事に力を注ぐことよりも、「自分の傾向と向き合い、変わらない相手との関係をどのような解釈で向き合うか」を優先してみると「自分自身の個性の正中線」が如何に大事なことであるかが見えてくるのです。自分の一貫性を他者に惑わされないためには、現在相手に惑わされている自分を認める事が転換のきっかけになるようにも思います。

相手に惑わされている時は、暗示にかかったように自分の役割があたかも相手のニーズに応える事であるかのように思い込んでいるのですが、自分がその相手に惑わされていると体感的に自覚した時に、澄んだ青空を感じたのです。
「人の身体は神の神殿である」とは、そんな気付きがある時に「なるほど」と思うわけです。

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麗しい

2015年06月05日 | 第2章 五感と体感
麗しい
2015年6月5日

野村萬師の狂言「清水座頭」を観ました。
長い謡いの掛け合いが多い味わいの深い狂言です。

盲目の二人が清水寺に良縁を求めてそれぞれ詣で、盲目故の出会いがいざこざを生むわけですが、結果互いに手を取り合ってハッピーエンドとなる微笑ましいお話です。

ともかく昨晩は野村萬師の謡いに惹きこまれました。
浄土の響きを想像させるものでした。

カトリック聖歌に「楽の音(ね)に合わせて賛美の歌をうたおう」という歌詞があり、ミサで時々歌うのですが、この歌詞を歌う度に宇治の平等院の雲中供養菩薩の楽天が思い浮かぶのです。もちろんバッハも弾いているし聴いていますが、「自分は東大寺二月堂で千年前に学んでいたと妄想」しているくらいの私は、このイメージがポンと浮かんできてしまうのです。これからしばらくは清水座頭の謡いの声が私の脳みその中枢あたりに深く留まりそのうち宇宙の果てまで添ってくれるのではないかと思うくらい沁み入っています。

そして、アド役の野村万蔵師の手を取る萬師の所作の指の先までのなんと美しいこと・・・。橋掛かりをいつまでもいつまでも目で追いたい心持になりました。
なんと幸せな御二人だろう、と。
話の中の盲目の二人と演じる二人の幸福感が
ぴたりと同一化したような、そんな感じです。

麗しい。
こんな時に使いたい言葉だと思いながら現世に戻る私でありました。

天に携える私の記憶がまた一つ増えました。
物は持てねど魂には持てぬ荷物はありませぬ。

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周到な準備

2015年06月04日 | 第9章 愛
周到な準備2015年6月4日

最近つらつらと「自分自身の周到な準備」について思うことがあります。
転地異変による準備については、一週間分の食料、水、燃料確保を心掛け、出かける時も長い距離であればあるほど靴に気を遣い持ち物にも気をつけています。
この場合の周到な準備とは、自分の身体を守るための準備です。
「自分の身体が何らかの理由で動くことが出来なくなった時、果たして自分がやってきた周到な準備が有効的であるだろうか。」
そんな自問自答をしてみると、何が周到な準備なのかを「心と身体と魂」のカテゴリーで分けて置く必要があるように思うのです。

煩悩だらけで欲深く、自分の望みを叶えるために好きなように動くことが出来ている状態が今の私の状態であるわけで、全てお手上げな状態となった時の自分が準備してきた「周到」を想像すると、案外物質的なものではないような気がします。
動かなくなった自分自身については、素直に創世の神々と向き合う準備のほうが最終的に一番大事な事なのかもしれません。
周りを慌てさせないよう事務的な段取りを書き留めて置くことは、世俗において必要な事です。
自分自身の魂と自分の生育史における諸々の後始末についてを上手に分けるには、やはり自分の心の傾向と上手に向き合ってこそ叶うことかもしれません。

叶わないことについて、いつまでも人のせい、社会のせいにしていると美しく咲いている目の前の花を全て枯らしてしまいますね・・・。

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間を取る

2015年06月03日 | 第2章 五感と体感
間を取る

自分がどんな時に感情が強く動き、どんな言葉を発し、どんな行動を起こすか。
感情が動く時の「動きの強さ」は、激しく感じたり、抑圧的に重くなったりと、事象や相手によって様々です。
でも、その様々な感情の動きは、自分の生育史上の経験から育まれて、自分の経験が自分の傾向を形成しているようです。
昨日の勉強会では、そのようなことを「間を取る」ことから意識化してみました。

ストレスが無いと感じる時は、間の取り方に余裕がありますが、ストレスが強くなると不安の感情が何らかの形でうごめき出し、自分を守ろうと頑張ります。自分を守るために、間を取ることができなくなると、それぞれの守り方で自分を防衛し出します。
その守り方は、人によって様々でしょう。時と場合によっても違うはずです。
でも、その中から自分の傾向、「クセ」を見出すと、自分の間の取り方が見えてくるようです。

さてさて、どんな防衛機制で自分自身は間を取っているのでしょう。

抑圧、抑制、逃避、感情転移、投影、摂取、知性化、反動形成、退行、同一化、置き換え、昇華、合理化、補償 (フロイトの14の防衛機制)

時と場合で違うようですが、ストレスが強い時は、自分ならではの傾向があるようです。
そして、「間」を操ることが上手にできることは、自分の傾向を自分自身が知ることと関係がありそうです。

間の取り方。。。
抑圧的な長い時間であるのか、間を取れず瞬間的なものなのか、何かにすり替えてしまうのか、間を取りながらも感情ばかりが蠢いているものなのか、間を取ることを怖がるのか、間を取ってはいても自分がその「間」とどのような向き合い方をしているのか、。「自分」と「間」との関係性は、そうそう簡単に答えが出るものではなさそうです。
兎にも角にも「間」は、自分の内にある答を引き出すために大切な時空でありましょう。


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楽しく繋がる大人の嗜み

2015年06月01日 | 第2章 五感と体感
楽しく繋がる大人の嗜み
2015年6月1日

生涯に出会う人々の人数は、その人によってそれぞれでしょうが、出会いをどう活かしてゆくかは、多い少ないに関わらず個人の意識次第です。
段々と歳を重ねて行く毎に自分の身の丈も解るようになり、同時に相手がどんな人かを見極める時間も長くかからなくなってきたように思います。

他者との関係において自分のどの部分と違和感が無いか?

他者と同じ方向を目的とした役割を担ってみると、段々と自分の望みと他者の望みの差異が見えてきます。
その時に自分がどう解釈するかが、違和感の良し悪しを判断していきます。

違和感の良し悪しは、自分の身の丈を知らずに判断すると、後から自分が孤独になりかねません。
故に自分の傾向を自分が知ることは、将来の孤独感を思うととても大切な作業かもしれません。

自分の愛の原型を全て満たしてくれる人を期待すればするほど、人との心地よい繋がりは難しそうです。
自分のどの部分を満たすことで、他者と繋がってゆくかを意識する事は、ある意味大人の嗜みと云えましょう。

自分の何と繋がるか。こればかりは他者は教えてくれませんし、指摘されたとしてもどうでしょう。。。自分で見つけない限り納得いくものではなさそうです。

子供の内から喧嘩したり、悔しい思いをしたり、仲間外れにされたり、新しい環境に放り込まれたりしたときの感情体験は、人生の大きな経験と宝物でありますね。

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