五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

自分は何処へ旅しているのだろう?

2014年01月12日 | 第2章 五感と体感
自分の信念に基づいた信仰や思想は、信念が強ければ強いほど、信じる人の概念を強固していきます。
もし、それが安心立命のためでは無く、不安感を掻き立てるようなものであれは、自分の正中線が、いつしか自分の軸から離れたものになっていくようです。

何が正しいか?

正しいと思えば思うほど、正義を定義化していってしまうのが、人間の愚かさであると私は常々思っています。

人は、魂と身体と心で成っています。

もし、身体と心だけで人が生きているとしたら、どうなるのか?と、考えていた時期がありますが、去年「チェーホフの馬」という長い長いモノクロの映画を根気よく最後まで観続けた後に感じた虚しさは、まさしく魂を抜いた人間を描いた実験的なものであったといってもよいのではなかろうか、という解釈に至りました。
人の性善説を信じていることは、魂を通して人が心と身体を動かしていることの解釈に繋がります。

ひとたび魂を信じてみると、虚しさの中に一筋の光が射して、身体の中のどこからエネルギーが湧き出してくるのです。

「自分は何のために生きているのか?」

どんなに自分が信仰を深め、思想の思索を深めたとしても、この問い掛けかけからスタートしていないと、表層をなぞるだけのものにしかなりません。

人類発生から人はあらゆる問い掛けをしてきました。
多くの哲学者が、真剣に考えてきたことは、「自分の存在」についてです。そして「自分はどうやって死ぬか?」です。
不思議なことに、何千年考えても、決まりきった答えは見い出されていません。
この世に生を受けた人が、成長するにつれ自然と湧き出してくる普遍的な問い掛けでもあるように思います。

これは、魂からの問い掛けだと思っています。
何故なら、私自身が4,5歳の頃から湧き上がっている問い掛けでもあり、誰から教えられたものでもないからです。
どんなに幼くても、知恵が無くても、湧き上がってくるこの問い掛けは成育史上の経験から湧き出してくる感情や思いからは別の処からやってくるように思えるのです。

自分の内にある答えを求めることは、自分自身のテーマでもありますが、たぶん生きること自体がその「応え」でもあるようにも思います。

チベットの死者の書による高僧の死ぬための修行過程を読んでも、答えは自分の生き方に他ならないように思えるのです。

WHO(世界保健機構)では、魂を身体と心と同じレベルに持っていく提唱をしてきましたが、世界中に多数ある個々の宗教概念と云う大きな壁に隔たれて、この定義を盛り込むことができませんでした。2年ほど前の話題です。

普遍性というものは、人には取り扱えないくらい大きな無限なものであるのかもしれません。

このたび、NPO法人CULLカリタスカウンセリング学会では「自分は何処へ旅しているのだろう?」という50の設問集を発行しました。無料配布ですが、郵送を希望される方は送料を頂いております。この設問集を携えて、今年は方々に出向くこととなりそうです。


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