下賀茂神社の糺の森を歩いてきました。
出かけたついでなので、上賀茂神社も参拝し、その奥に見える神山(こうやま)を眺めてきました。葵祭で神様をお迎えしているいまこの時に、伺えたことは幸運でした。神様をお迎えする行事はありますが、お送りする行事はないそうです。
どうも、神様は私たちの知らないうちにお帰りになるようです。
下賀茂神社の糺の森。
源氏物語で光源氏が須磨に流される前に、夕方、牛車を止めて、父の墓陵のある下賀茂神社の糺の森の暗がりを見つめるのです。
やるせない罪悪感と懺悔、そして、父を偲ぶ寂しさ、悲しさがこみ上げてくる光源氏の想いの内が、読み手にひしひしと伝わってくるのです。
悲しくて、とても美しい。
背中のまん中が、寒々とするくらい、寂しさと侘びしさを感じます。
平安の頃から変わらないこの森も、現代の手が入り、整備されてはいますが、生い茂る木々の葉を眺める古の人と同じように歩いてきました。
森の息吹を感じるということは、魂との対話と同じことです。
人は、自由に考えることのできる意思を神様から頂きました。今更ながら、すごいことだと思うのです。
自分の呼吸とともに入ってくるもの、出てくるもの、精神と自然を一体とする精神性は、日本人の無意識を司るアイデンティティなのでしょう。
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源氏物語で光源氏が須磨に流される前に、夕方、牛車を止めて、父の墓陵のある下賀茂神社の糺の森の暗がりを見つめるのです。
やるせない罪悪感と懺悔、そして、父を偲ぶ寂しさ、悲しさがこみ上げてくる光源氏の想いの内が、読み手にひしひしと伝わってくるのです。
悲しくて、とても美しい。
背中のまん中が、寒々とするくらい、寂しさと侘びしさを感じます。
平安の頃から変わらないこの森も、現代の手が入り、整備されてはいますが、生い茂る木々の葉を眺める古の人と同じように歩いてきました。
森の息吹を感じるということは、魂との対話と同じことです。
人は、自由に考えることのできる意思を神様から頂きました。今更ながら、すごいことだと思うのです。
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