Mr.コンティのRising JAPAN

マスコミの書かない&書きそうもない!スポーツ界の雑学・裏話を、サッカーを中心にコメントを掲載していきます。

オーストラリアとは

2005-12-31 | Aussie & Kiwi
オーストラリア最大の都市 Sydneyの中心街、 George Street の大きな交差点で初めて信号待ちをした人はおそらくこういう思いをするだろう。“ここはどこなのだろう?オーストラリア人はどこにいるのだろうか?”年々増え続ける特にアジアからの移民の数は留まるところを知らない。私が初めて当地を訪れた1998年頃は韓国からの移民が多かったが今は中国大陸からの移民が多い、それも若年層の。だがここオーストラリアでも中国人犯罪は社会問題化している。他にも最近ではパレスチナやレバノンと言った中近東の小国からの移民もよく目に付く。12月12日付けの Sydney Morning Herald には Sydney にある最も人気のある Cronulla Beach で中東系の移民と地元の白人青年(白豪者)との衝突を伝える記事があった。事の発端は当地の Life Guard 二人が Lebanon 系の移民に殴られた事だがどの様にしてそこに至ったかは述べられていない。これを機に地元の若い白豪者達は反撃に出る。背中に “ We grew up here, you flew here. :俺達はここで育ちお前達は流れてきた“とペイントされたシャツを纏ったり、国旗やあらゆるオーストラリア代表のレプリカシャツを来て、反中東スローガンをコールしながら行進をしたり、”No more Lebs ( Lebanon ) “ と叫ぶグループも。シュプレヒコールを叫びながら空瓶を投げる白豪者も。そして中東系の面持ちの少女二人にその空瓶が投げつけられ、そばに居合わせた警官に何とか守られた。Lebanon系、中東系そして白人達はこぞって携帯メールやブログで当地への応援、集結を呼びかけたらしい。12日現在、13名のけが人が出て12人が逮捕されたらしい。この事件はUAEの 7 days と言う無料紙の1面で紹介された。だが元々オーストラリア大陸はアボリジーニのもので、ここは欧州の犯罪者の流刑地だったので白人達が我らの地と胸を張るのは少し疑問だ。だが欧州からの移民で最も可哀想なのは第二次大戦直後から60年代初めにかけて英国から送られてきた “ Children immigration “ 達だ。戦後間もない頃、戦勝国とはなったが国家は歳入が少なく、孤児達に回せる予算が無かった。そこで政府は孤児や託児所に預けられた子供を何の知らせも前触れも無くオーストラリアの西部に送り続けた。後の本当の親や親戚が子供を捜しに届けを出しても政府は“米国の裕福な家庭に引き取られた”と偽りその事実を隠蔽し続けた。こういうことが60年代初頭まで続いた。オーストラリアに送られてきてもその子供達の殆どは幸せな思いは出来なかったと言う。当たり前だ。この国のサッカーの歴史は移民を抜きには語れない。私の尊敬するアジア・オセアニア代表として1974年大会に出場したオーストラリア代表の主将を務めた Johnny Warren は当時 St.George Budapest と言うチームに所属しており、1971年日本で開催された4チーム対抗戦に招待され、来日している。彼の所属チームは文字通りハンガリーからの移民をベースに創られたクラブチームだ。Johnny Warren の家族は1954年のハンガリー動乱を機にオーストラリアに移ってきたらしいがその他の多くの選手が同じ理由でオーストラリアに入ってきた。参考までのこの遠征で St.George Budapest は日本代表とは 0-0, 日本B代表に 6-2 そしてデンマークのFrem に4-1 で勝利を収め優勝をさらった。この優勝はオーストラリアのクラブチームが最初に海外で勝ち取ったタイトルとして当時で地元では高く評価された。 St.George Budapest は大会後も帰国までの間に東洋工業と2試合、日立製作所と1試合を行い、その3試合に全勝を収めた。他にもギリシア系や旧ユーゴ系の移民達で構成されたクラブチームが50年代以降設立された。だが余りにも民族意識が強すぎて、特に観客席での争いが年々激しくなってきていたらしい。オーストラリア代表がサッカーで世界の舞台に多く出て来られなかったのは、当時移民達の identity がオーストラリアよりも生まれ育った母国の方に求めていたからではないだろうか?ワールドカップで日本と闘う Socceroos はクロアチア系の選手が Mark Viduka をはじめ8名含まれている。続く