Mr.コンティのRising JAPAN

マスコミの書かない&書きそうもない!スポーツ界の雑学・裏話を、サッカーを中心にコメントを掲載していきます。

どうなる日の丸飛行隊

2005-12-24 | 冬季五輪
今年もあと1週間少し。街は Christmas Carol が溢れている。来年はドイツで FIFA ワールドカップが開催されるが、その前にイタリア、トリノで2月10日より第20回冬季五輪が始まる。世間はこれから始まるフィギァースケートの全日本選手権に関心が集まっているが大会後に五輪代表に選ばれた選手達は是非メダルを勝とて欲しい。でも少し過熱しすぎではないか?それに引き換え、スキージャンプは全くと言って良いほど話題に昇らない。新聞の片隅に載るワールドカップに転戦する我らが代表選手の戦績も芳しくない様だ。私は冬季五輪と言うと子供の時に見た札幌五輪での日の丸飛行隊の表彰台独占が忘れられない、といいたい所だが、後に行われた90m級の方が印象に残っている。メダル独占の偉業を達成した70m級 が行われたのは授業のある日で、学校から帰宅後そのニュースはテレビで観て知った。90m級が行われたのは日曜日でトライアルからの中継が行われていた。日本人の期待を背負った70m級の金メダリスト笠谷幸男は1回目106mを飛んで111mを飛んだ Poland のフォルトナに次いで2位に着けていた。当時は今と違って2回目の試技の順番は1回目の順位によって変えたりしなかったので、笠谷の順番45番目(だったと記憶している)は変らなかった。2回目の試技では1回目トップのフォルトナを初め有力選手が次々と失速し、いよいよ笠谷の順番が廻ってきた。96mを飛べばトップに立てるはずであった。そして笠谷の後ろには有力選手はもういなかった。日本人全てが笠谷の2冠達成を期待した、そして信じていた。しかし、笠谷の飛行は優勝ラインの10mも手前の85m付近に落ちてしまい、7位に沈んでしまった。テレビから伝わってきたこの瞬間の会場の雰囲気は今でも忘れられない。そして中継していたNHKのアナウンサーの落胆振りも。五輪が終わってしばらくの間、笠谷のこのジャンプが忘れられなかったがジャンプ競技こそ冬季五輪では最も期待出来る種目と思う様になった。しかし再びジャンプで日本人金メダリストを見られるのには26年後、再び地元(長野)で開催されるまで待たねばならなかった。その間にも好成績は見られた。1980年のレークプラシッド五輪の70m級で八木弘和が銀メダル、秋元正博が4位に入賞したが以降、フィンランドの英雄、マッティ=ニッカネンが登場し、ノルディック王国フィンランド、ノルウェー、そしてオーストリア、東西ドイツには大きく水を開けられる事に。毎年10数回開催されるワールドカップでは1985年に地元札幌で秋元が優勝するなど単発的には好成績が見られたが五輪でのメダルは遠かった。1991年の Valdi Fieme での世界選手権のラージヒル、ノーマルヒルでは日本人最高ながら10位に終わった東和紀が1回目でトップにつけて、2回目の試技を最後に飛んだ。笠谷以来の金メダルが期待されたが、5位に終わってしまった。しかしレークプラシッド五輪以来の入賞だった。この大会では複合競技リレーで日本チームが銅メダルを獲得。翌年そして翌年からの五輪での同種目連覇に繋がる。そしてジャンプも上昇してくる。翌年のアルベールビル五輪では原田がラージヒルで4位に入った。3位オーストリアの Heinz Kuttin とはわずか 3.5 差であった。そして5位チェコの Parma とは 13.3 の差をつけていた。この五輪から原田の時代が始まる。 続く