Mr.コンティのRising JAPAN

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東アジア選手権シリーズ 中国の黄昏 アジアの壁

2005-07-31 | Football Asia
その名は容志行。日本の釜本と並んでアジア屈指のFWと言われているが、当時の中国事情から彼のプレーが取り上げら得れる事は殆ど無かった。しかし、1978年アベランジェFIFA新会長が中国サッカーを視察。その人気とレベルの高さに驚嘆したと言う。そしてFIFA復帰へ腐心し20年ぶりに復帰。スペインワールド杯の予選エントリーは締め切られていたが特例を持って認められ何と抽選で日本と同組に振り分けられた。1980年12月香港で開催されたワールド杯一次予選で日本は1次リーグで中国と対戦。開始6分、この容志行のロングシュートが決まりそのまま逃げ切った。中国は決勝で北朝鮮を3-2で破り2次予選に。2次予選でも順調に勝ち点を伸ばし本大会出場権をほぼ手中にしたがニュージーランドが最終戦のサウジアラビアとの試合でアウェーながら5本のシュートをゴールに叩き込み勝ち点、得失点で中国に並んだ。プレーオフの会場は当初香港が予定されていたがニュージーランド側の“香港だと中国のホームと同じ”という抗議でマレーシアのクアラルンプールに変更された。そこでニュージーランドに 1-2 と破れ、本大会への出場権は両手から滑り落ちてしまった。 1987年東京で雨の中で行われたソウル五輪最終戦、3週間前の広州での敗戦を“血の教訓”とした中国は日本を徹底的に研究しつくし、アウェィながら 2-0 で勝利を収め五輪出場への出場権を勝ち取った。しかしソウル五輪では西ドイツ0-3 スウェーデン 0-2 と連敗。最後のチュニジアとは0-0 と引き分けて勝点1は記録したが無得点で大会を後にした。それから14年後、名将 ボラ=ミルティノビッチ に率いられ遂にワールド杯本大会に進むが、ここでも3連敗無得点で帰国した。
中国代表の五輪、ワールド杯予選の戦い振りの印象は一言“取りこぼし”だ。1985年のワールド杯1次予選の最終戦はホームで香港に、1989年のワールド杯最終予選でも終了直前にカタールに逆転を喫し、1993年の1次予選でもイラクに破れそして今回のワールド杯予選。24年前に遡ってのアジア地区予選でもそうだが格下に敗れ予選突破出来無い事が目立つ。その原因は選手間のコミュニケーション不足から来る戦術の不徹底からではないかと言われている。それは国内に存在する南北間の対立で、例えば広州で試合をしている時に遼檸省の選手が多いと例え代表だと応援に力が入らない。だがそれよりも他国よりプロ化が遅かったことも原因と考えられる。サッカーに必要な駆け引きや経験がまだ少ないと思う。戦後日本は対中国戦9勝6敗3分けだが、1992年のダイナスティ杯から、プロリーグが日本に誕生して以降だと日本の6勝1敗1引分だ。特筆すべきはアジアカップでは日本には4連敗中。その上韓国からはまだ勝ち星を挙げたことが無い。それは五輪チームでも同じでアテネ、シドニー、アトランタ、バルセロナと五輪予選でも韓国には6連敗中だ。 この東アジア選手権で欧州組抜きの韓国相手に初勝利を上げられるかも注目だ。


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