Mr.コンティのRising JAPAN

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東アジア選手権シリーズ 中国の黄昏 中華人民共和国建国

2005-07-30 | Football Asia
戦前の中国は清王朝を倒して設立された中華民国であった。その中華民国とは6度対戦しているが、1939年の極東選手権で引き分けた以外は全敗。1940年代になる満州事変、日華事変を経て混乱の時期に入り親日派であった汪兆銘政府が中華民国と認められ、そのチームとの対戦が中華民国との公式試合とされ、紀元2600年奉祝東亜競技大会や満州国十周年健祝大会などで対戦しそれぞれ勝利を収めているが真の中華民国代表とは言い難かった。戦後、中華民国が韓国と共にアジア代表で五輪に出場し1回戦でトルコに 0-5 と敗れた。その後毛沢東の共産党と蒋介石の国民党との間の争いが更に激化、1949年に毛沢東率いる共産党が天安門で新中国、中華人民共和国の設立を宣言。一方の国民党は台湾に逃れて中華民国の継続を宣言。それぞれが中国大陸、台湾は自国の領土と主張した。当時の蒋介石国民党は日本統治時代の建造物や個人財産を一方的に没収し世界一裕福な政権であった。それは我々祖先が当地に永年かけて築いた財産に他ならない。しかしながら、反共政策を採るアメリカの支持を受けた中華民国は国連安全保障理事国の常任理事国となるなど国際世界での地位を確保して言った。そして日本を含め多くの西側諸国がそれに同調し共産党政府は孤立していた。今中国が常任理事国であるが、それは当時の蒋介石政権が米国等に後押しされての事で、今の共産政権とは異なる国が選ばれただけだ。しかし、サッカーの世界では北京、台湾でそれぞれ統括されている両サッカー協会の存在が認められ、1957年スウェーデンワールド杯予選では中国代表がインドネシアと予選を行い敗れている。 1957年、当時北京政府と国交が無かったが日本代表は招待を受け中国に遠征。中国代表との試合は組まれなかったが人民解放軍チームの八一隊(代表選手になった賈秀全がガンバ大阪に移籍する前に所属した事もある)や上海、瀋陽、北京市のチームと7試合対戦。2勝1敗4分に終り帰国後は、中国選手の技術高さが報告されたらしい。当時は文革前で穏健派の劉少奇主席、周恩来首相が実権を握っていた時代で、外交活動も活発していたが、翌1958年のFIFA総会では台湾問題で脱退を表明してしまった。そして中華人民共和国代表チームと対戦することが出来たのは1975年香港で開催されたアジアカップ予選で、この時日本は0-1 で敗れている。日本が始めてアジアカップにフル代表を送った大会とされているが、エース釜本はこの大会には怪我のせいか参加していない。当時中国はFIFAを脱退中だったがAFCには所属しておりこの大会には問題なく参加していた。その中国に伝説の名選手がいた。

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