Mr.コンティのRising JAPAN

マスコミの書かない&書きそうもない!スポーツ界の雑学・裏話を、サッカーを中心にコメントを掲載していきます。

年の瀬にワールドカップを振り返る その1

2006-12-30 | FIFA World Cup
今年も残すところあと数日。先日“あさまでテレビ”を看た。(まだ全編ビデオで見ていないけど。)かつての日本代表選手や著名な解説者、そしてサポーター代表が集い今年最大のサッカーイベント、FIFA World Cup の総括等を行なっていた。そして最近の一般紙の中でも今年のワールドカップを振り返る論説が出ていた。 何度思い返しても2敗1分 得点2失点7勝点1でグループ最下位は変わらない。(当たり前か?)そして世間では“ ZICO はダメだったオシムは日本サッカーの救世主”という風潮が渦巻いている。果たして本当にそうだろうか?今年のワールドカップは1次リーグ敗退で終わったが、ワールドカップはこれからも続く。いつの日か上位進出できる日もあるだろうが、アジア地区予選を突破出来ない時もまた来るかもしれない。世間で言われている様に ZICO JAPAN はダメだったのだろうか?

ZICO JAPAN
4年前の日韓ワールドカップで史上初の1次リーグ突破を果たしたが、結局はベスト16止まり。しかし中心メンバーの殆どは4年後のワールドカップでも戦えるだろう。いやむしろ円熟期を迎えるので非常に楽しみな大会になるだろうな、と思った。そこに“舞い降りた”のはブラジルの英雄で J リーグの看板選手でもあった神様 ZICO。最初に指揮を取ったジャマイカ戦では中盤には中村、中田、稲本、小野が並び1982年のセレソンの様に“和製黄金のカルテット”と呼ぶ人も多かった。だが実際に1982年スペイン大会でのセレソンのカルテットをテレビでさえ観たことのある人はどれだけいるだろう?ジーコ、ソクラテス、ファルカン、エデル(トニーニョ・セレーゾよりも攻撃面では圧倒的にエデルが貢献していた。今でも私はエデルがこの時の黄金に中盤の1員と思うんだけど。勿論トニーニョ・セレーゾも前回のアルゼンチン大会にも出場した素晴らしい選手。)彼らは華麗なテクニック、パス回しだけでなくミドルレンジからもがんがん鋭いシュートを放ちゴールを上げていた。(ソクラテス 2 エデル 2 ジーコ 4ファルカン 3 得点 ) だからとても82年大会のブラジルとは比較出来なかった。 まぁ“黄金のカルテット”はその後お披露目される事は無く、もしかするとあの中盤は ZICO JAPAN 旗揚げの“興行用”だったのかもしれない?だがドイツワールドカップに向けてのメンバーこそ史上最強の代表ではなかったか?想像だけどメキシゴ輪メンバーと試合をすれば面白いかな?(釜本が居る分メキシコ組が勝つか?) したがって期待が高くなるのは当然であった。アジアカップ優勝、コンフェデレーションズ杯での健闘もそれに欧州でプレーする選手も増えた事などが拍車をかけた。トルシエ前監督の“赤ワインに例えれば熟成を重ね今が飲み頃”という例えもうなづけた。

日本の位置付け
では何故日本は1次リーグも突破出来なかったのだろう?私が初めてワールドカップを観たのは1974年の西ドイツ大会。決勝戦だけがテレビ放映された。ただ当時小学生だった私はこの大会の権威は判らなかった。綺麗な緑の芝生の上にオレンジ色のオランダ選手のユニフォームが良く映えていた事だけを覚えている。“世界サッカー選手権”と何かに書かれていた。以降1978年アルゼンチン大会から4年に一度の大イベントとして楽しみにして来たが、最近のマスコミ諸氏の中には日本のワールドカップの位置づけ、サッカーのワールドカップがどれほどの大会なのかを明確に、そして正確に理解出来る人がどれだけいるだろうか? 今大会アジアからは韓国、サウジアラビア、イランが他にアジア地区予選を勝ち抜いてワールドカップに出てきた。確かに日本はメキシコ五輪銅メダルと言うアジアサッカー史上では3本の指に入るであろう快挙があるがこの3カ国と比較しても日本は“サッカー新興国”なのだ。サウジアラビアがワールドカップに初出場したのはあのドーハの悲劇に日本国中が涙にくれた予選を勝ち抜いての1994年アメリカ大会。その前の1988年(カタール)1984年(シンガポール)のアジアカップで2連覇を果たし、1989年10月シンガポールで開催されたワールドカップアジア最終地区予選に臨んだが中国、韓国に破れ6か国中5位に終わり更なる強化を施しようやくワールドカップ出場に漕ぎ着けた。イランも今回で3回目の出場だが、初出場は1978年アルゼンチン大会。まだアジア枠が1つしかない時代。当時のパーレビ国王が豊富なオイルダラーを強化に充ててのワールドカップ出場だったが、1968年のアジアカップから3連覇を果たし、1972年ミュンヘン五輪 1976年モントリオール五輪にも出場。そして1974年アジア大会での優勝を経てのワールドカップ初出場であった。アルゼンチンワールドカップ後に革命が勃発しパーレビ王朝は倒されたが、もし革命がなければイランはもっともっと強くなっていただろう。韓国のサッカー史はもう語るまでも無い。アジア諸国でさえこれだけの積み重ねを施してのワールドカップ出場だった。日本が国を挙げて本格的にサッカーに取り組み始めたのは1990年代に入ってから。70年代~80年代は選手や関係者達の血の滲む様な努力と犠牲によって韓国をはじめアジア諸国と戦ってきたのだ。韓国、イラン、サウジアラビアはアジア枠が1または2しか無い時すでにワールドカップ出場を果たしており、日本は出場枠が3に拡がったフランス大会にようやく出場を果たした。スポーツは全てが積み重ね。その時代を知らずして“ワールドカップで日本は惨敗だった”とか“ワールドカップとは….”等マスコミが講釈を垂れ流しているのを見ていると本当に腹が立つ。 月並み言葉だが“ワールドカップ”は甘いものでは無いのだ。 続く

6月22日 サムライブルーのフィナーレ その2

2006-08-13 | FIFA World Cup
中田英寿は前半終了後控え室に戻るときに何やら川口に話しかけていた。ワールドカップが終わって中田の引退番組を見た時にあれはロナウドに得点を許し、川口に“今のはキーパーだろ。”と言っていたシーンだった事が解った。この大会のヒデはどちらかと言うと守備面での貢献が非常に高い。この試合では彼の攻撃的な能力を見せてほしい。“あと2点必要ですか。”“えぇ。立ち上がりで交通事故的に1点取って。終了間際に偶発的にもう1点。てな事になりませんかねぇ。”地元のビールを飲みながらGさんと会話を交わす。キックオフ直後、さっそくカカーがミドルを撃ち、6分にはロナウジーニョのヒールパスをロナウドがダイレクトで撃つが外してくれた。まだツキはあるかも。前線で玉田の動きが良い。それだけにマークもしつこい。ニュルンベルグで隣に座ったグランパスサポーターの事を思い出す。そしてその話をGさんにもする。しかし、53分。セレソンはいとも簡単に追加点を奪う。ロナウジーニョから右サイドに大きなロブが送られる。これはゴールラインを割ったかに見えたがシシーニョが追いついて中に入れる。一旦は坪井がヘッドで左にクリアするがそれをコーナーフラッグの直前でロビーニョに拾われ、後ろのジウベルトに繋がれ、中に入れる。そこにはジュニーニョ=ペルカンブカーノが待ち構えており。そのまま狙い澄ましてミドルを炸裂さすとGK川口の正面を破ってゴールネットを揺らした。“川口とれないかなぁ?”“いやぁ、川口が取れなければ日本人は取れないですよ。”“これであと3点必要になったね。”“う~ん。厳しすぎるなぁ。”と言うよりも、これで事実上終わりだった。あと日本が3点取るなんて考えられない。でも不思議と悔しさは沸いてこない。56分に仲田浩二が小笠原に替わって投入される。そして中田英、中村が2列目に上がる。その直後に中田英がミドルを放つ。画面ではクロアチアが追加点を挙げ勝点4で2位に浮上した。59分にはロナウジーニョの大きな縦パスを受けたジウベルトがドリブルシュートを決めて3点目。もう試合の結果よりももう1点取ってくれないかと思う。ブラジル相手に2点以上奪うなんて過去何カ国あっただろう。60分には巻に替わって高原が投入される。“高原、今日はスタメンじゃなかったのか。”Gさんが呟く。Gさんおお店の前を数回通った高原。ハンブルグ在住の邦人達に愛された彼も大会後はハンブルグを後にする。“置き土産がほしいですね。” しかし、ブラジルの猛攻が続く。ロビーニョが放ったミドルは川口がセーブする。高原がファンと交錯して倒れて起き上がれない。担架で運び出される。大丈夫かな。もう交替枠は2人を使っている。一旦はピッチに入ったが、やはりダメ。大黒と交替してしまった。“なんだ、高原もう交代?”“えぇ、元々足に故障を持っていたから。”Gさんも残念そうだ。71分にはパレイラ監督はロナウジーニョ、カカーを下げてリカルジーニョ、ゼ・ロベルトを入れてきた。ロナウジーニョを下げてくれたので、何とか得点機をと思うが、この2人も強烈だ。スタンドからはやがてセレソンサポーターの“オーレ!オーレ!”から“オ~オォ~、ブラジル!!”の歌が始まる。1978年大会前にセレソンの応援歌としてリリースされ、1982年大会ではブラジルの試合ではテレビ音声から結構聞こえてきた御馴染みの歌だ。この歌の前で日本がワールドカップでプレーしている。何て幸せなんだろう。テレビに映し出される代表選手達に口には出さないがエールを送る。“どんどん行けよ。相手はセレソンだ。負けても恥じゃない。こんな機会は滅多にないぞ。”CKのチャンスの中澤が上がって来る。“中澤行けよ。見せてやれよ。”と心の中で叫ぶ。“俊輔、ドリブルで上がれよ。ヒデ、前だ、前。加地いいぞ、もっと勝負してやれ。玉田、あと20分弱だ。前線で掻き回してやれ。川口気にするな、次のシュートを抑えれば良いぞ。” 79分にオーストラリアが同点に追いつき勝点4で再び2位に浮上する。もう日本の2位はおろか、3位も無いだろう。そして81分にロナウドにとどめの4点目を入れられる。ロナウドはこれで完全に復調したかもしれない。日本が“育ての親”になってしまったようだ。そしてブラジルは最後の交替枠を使ってGKを替えた。“もう余裕だね。” この試合後もブラジルではサッカーが下手な人を“ジャポネーゼ”と言い続けるのだろうか? 85分、ブラジルゴール前でFKを得る。蹴るのは中村だ。“ここで1点欲しいですね。”“そうだね。最後に見せて欲しいね。”しかし我々の願いも空しく、俊輔のシュートはわずかにゴール右に数メートル外れる。そしてホイッスル。“あぁ。残念。終わったねぇ”“終わりましたね。”そして試合中継もあっさりと終わってしまった。今頃日本では延々と“ワールドカップを振り返って”とか“4年後に向けての課題は。”とテレビから聞こえて着ている事だろう。 結局ブラジルとの差なんてこの日の点差以上にあったのだ。それを発展の軌跡と言うのか?それとも途上段階と捉えるのか? “4年後も見に行くの?”“いや、南アフリカですから。それに日本も出られるか。” そんな話を少しGさんとした。時計の針はもう11時半だ。睡魔が急に襲ってきた。“どうぞ。お疲れでしょう?あちらのベッドで。” Gさんに挨拶をして、ベッドに潜り込む。あぁ、終わったんだなと思うがすぐに眠りに落ちてしまった。明日は帰国かぁ……

6月22日 サムライブルーのフィナーレ

2006-08-13 | FIFA World Cup
ハンブルグの AOLアリーナからGさんの寿司ティクアウェィ店に戻り、置かせてもらっていた荷物をピックアップし19日の夜に泊めて頂いたGさんの自宅に向う。 そして“お疲れでしょう。お風呂どうぞ”のお言葉に甘えて先の一風呂浴びさせて頂いた。本当に後で自分の厚かましさには呆れ、Gさんの心温まる歓待にはただただ頭が下がる思いだ。外はまだまだ明るいが時計の針は午後9時を少し回っている。夏時間を割り引いても午後8時。ハンブルグから遠く離れたドルトムントでは日本代表とブラジル代表の試合が始まっている。“日本戦、テレビでやっていますよ。どうぞ,どうぞ,ゆっくりしてください。私夕飯の準備を始めますから。”とGさんに教えて貰い早速テレビ観戦を始める。試合は既に5分ほど過ぎていた。幸運な事にまだ 0-0 のままだ。日本は玉田、巻が先発だ。コンディションの心配された中村もいる。出場停止の宮本に替わって坪井が起用されている。小笠原、加地がクロアチア戦に続いてスタメンだ。一方のブラジル。メンバーを落としてくれないかな?とロナウド、ロナウジーニョを探すが二人ともテレビに映っている。パレイラ監督は不振のロナウドを日本戦で使って調子を取り戻させようとしているのだろう。その為にはロナウド1人よりもロナウジーニョも居た方が効果的と言う事か?それに不安視されているファン、ルシオもそのまま出ているのも3試合連続完封させて決勝トーナメントに自信を付けさす為か? 7分にはさっそくロナウジーニョからロナウドにスルーが通り、坪井が振り切られシュートを撃たれるが川口がファインセーブで防ぐ。テレビのアナウンサーは“ヨシカツ=カワグチ。ユビロ=イワタ”と紹介。ドイツ語の Jubilo の発音はユビロとなる。9分にはロナウドが中田英をかわしてシュートを放つが上に外してくれた。11分には右サイドをロビーニョが突破しシュートを放つがまた川口がセーブ。セレソンはサイドバックのロベルト=カルロス、カフー、ディフェンシブ=ハーフのゼ・ロベルト、エメルソン。それからFWのアドリアーノをスタメンから落としている。それでも両サイドバックにはシシーニョ ( レアル・マドリード ) 、ジウベルト ( ヘルタ・ベルリン ) 、ボランチにはジュニーニョ=ベルナンブカーノ ( オリンピック・リヨン ) 、ジウベウト=シルバ ( アーセナル ) 。そしてFWはロビーニョ (レアル・マドリード ) これで控えなのだから王国の選手層の厚さを今更ながら認識させられる。でも日本の巻誠一郎だって頑張っている。13分にはインターセプトをするが足を取られる。でも彼のがむしゃらなプレーは共鳴を覚える。“いいぞ。どんどん行け。遠慮するな。”心の中で叫ぶ。15分には巻が頭で落としたのを中村が拾い加地に戻し、中の稲本へ。稲本がそのまま撃つが大きく枠を外す。その直後にはロナウジーニョ、カカと繋がれ最後はロビーニョに撃たれるが川口がセーブ。20分巻、小笠原そして玉田と繋がりシュートに持ち込むがGKジダが難なくキャッチ。21分にはロナウド、23分にはジュニーニョが連続して放ったシュートは川口がまたまたセーブで防ぐ。10年前のアトランタ五輪を思い出す。あの時は 1-0 で勝ったが今回は2点差勝利が必要だ。テレビ音声から日本のサポーターの大声援が聞こえてくる。今大会初めてのナイトゲームの日本はやはり動きが良い。クロアチア、オーストラリア、どちらかが炎天下の試合で無ければ結果はもっと違ったかもしれない。テレビの片隅にはたまにF組の順位が映し出される。クロアチアが勝点4で2位になっている。シュツッツガルトで行われているクロアチア対オーストラリア戦は 1-0 でクロアチアがリードしている。日本はまだ勝点2で4位のままだ。ボール支配率がJapan 40 Brazil 60 と映し出される。大波の様に押し寄せるセレソンの攻撃。防波堤は川口だけなのか?ここであるシーンを思い出した。1977年3月イスラエルのテルアビブで行われたイスラエルとのワールドカップ予選のダイジェストがNHKのニュースセンター9時と言う番組で紹介された。試合はホームで地力に優るイスラエルが徹頭徹尾攻め続けているがGK田口が必死でセーブをする。アナウンサーも“日本はゴールキーパー1人でやっている感じです。”と。あれから約30年。舞台はワールドカップ、相手はブラジル。日本サッカー界の進歩の跡だ。そして34分。日本サッカー界歴史的瞬間が訪れる。中田からボールを受けた玉田が稲本にはたき前線に。稲本は左の三都主に渡し、走りこんで来た玉田にスルーが通る。玉田は落ち着いてルッシォを振り切りそのままシュート。ボールはゴールネットを豪快に揺らし日本が先制ゴールを決めた。テレビ音声からは大歓声が聞こえてくる。アナウンサーは何やら早口言葉でまくし立てるが聞き取れるのはタマダ、とヤーパンのみ。“Gさん。入りましたよ。日本が先制しましたよ。”とキッチンのGさんに歴史的ゴールを教える。Gさんは小走りにやってきて映し出されるリプレイを食入る様に見る。ブラジルの失点は日韓大会の準々決勝イングランド戦以来5試合ぶり。日本にとっては本当に歴史的な得点だ。ワールドカップでブラジル相手にリードするなんて何十年も夢見た、いや夢にも出て来ないシーンだった。この時間の為に沢山に人が努力をしたのだ。 “でも、あと1点必要でしょ。”とGさんは冷静なコメント。そうだ。あと1点だ。 これでセレソンは本気になったかパス回しが早くなった様だ。そして画面の片隅にJapan が勝点4で3位に上がってきた。あと1点取ってシュツッツガルトがそのままならば2位に上がる。予感はあった。稲本から巻におしいスルーが渡れば、右サイド加地の突破をジウベルトがファールで止める。その中村から放たれたFKに巻が飛び出して頭に当てるがオフサイド。そしてロスタイムが1分と表示される。何とかこのまま後半を迎えたい、と願う。そしてロナウジーニョが日本ゴールに上がると右のシシーニョに浮き球のパスを。それをシシーニョがヘッドで中に入れ、ロナウドがそのまま頭で押し込み同点ゴールを喫してしまった。スロービデオを見ているみたいだった。Gさんが夕飯の準備を終えてキッチンを出て来る。“今追いつかれましたよ。”と言うと選手達が控え室に吸い込まれていくシーンが映し出される。“あぁ前半が終わったのですか?”“そうです。あと10秒くらいでしたかね。” 本当にあと十数秒だった。この十数秒を埋める為に更に積み重ねが必要なのだろう。 Gさんが丹精を込めてこしらえてくれた夕飯に舌鼓を打ちながら、色々な話をする。今のお店を立ち上げたのはワールドカップ日韓大会終了後から。ドイツ大会のワールドカップも楽しみにしておられたけど過ぎてしまえば本当に早いものと言っておられた。この時勢でまた次の大会がやってくるのでしょうとも。その時に開設間近の2店舗目が更に発展している事を願う。テレビ画面では選手達が出て来た。日本のテレビ局は兎に角しつこい、というかうるさい、と言うか。このドイツのシンプルさを見習って欲しい。画面の片隅にはオーストラリアが勝点4で2位となっている。38分に同点に追いついたのだ。日本は再び勝点2で最下位となっている。こうなるとオーストラリア戦の3失点目が重くのしかかってくる。中田英が右手に前半は巻いていなかったバンテージを巻いていた.....続く

6月22日 ハンブルグにて チェコ敗退

2006-08-07 | FIFA World Cup
やがてピッチに選手が現れる。チェコはポボルスキーに替わってドイツ、ハノーファー所属のシュタイナーが投入される。イタリアは交替は無かった。すると目の前でデルピエロとインザーギがアップを始めたではないか。至近距離とはこのこと。試合よりもそちらの方が気になる。Nさんに“彼ら2人はとても有名な選手なんですよ”と説明すると“じゃぁどうして試合に出ていないのですか?”と素朴ながら的を得た質問が。“インザギは怪我からの回復が。デルピエロは代表では最近、スタメンは少ないんです。監督の構想と違うのかな?”と苦しい?説明を。後ろを振り向くとミラニスタの2人がインザギを指差し親指を立てる。ピッチ上ではリードされているチェコがやや優勢か?というよりもネドヴェド1人が頑張っているように見える。60分頃にインザギが呼ばれてベンチに向う。デルピエロはまだジョギングを続けている。広告看板の外でチェコの選手がストレッチをしていると、場内警備員らしき人に看板の中に入るように促される。そしてインザギがジラルディーノに替わって今大会初めて投入された。場内は大歓声だ。その直後、チェコはまたもや決定機を逃す。ロシツキのCKをネドヴェドがドンピシャのタイミングで頭で合わせるがGKブッフォンの正面に。頭をかかえるネドヴェド、そしてチェコのサポーター達。63分何とか打開したいブリュックナー、チェコ代表監督はバロシュを下げてこのグランドをホームとするHSVハンブルグ所属のヤロリムを投入する。昨シーズンはHSVドル監督の信頼を得てリーグ戦31試合に出場した中盤の選手。2ゴール6アシストを記録した27歳の右肩上がりの選手だ。この選手の好調に期待したいところだ。しかしイタリアの攻撃が目立つようになる。65分には波状攻撃を見せ最後はトッティが右からシュート。67分にはカウンターからこぼれ球をインザギがミスをして追加点を免れる。そして69分、またもチェコは同点チャンスを逸する。左から右にボールが渡りシュタイナーがヒールで残しそれをネドヴェドが狙い澄まして放つがGKブッフォンがまたもファインセーブ。ワールドクラスのプレーの一連であった。72分にイタリアの選手が1人倒れて外に出された。後ろのイタリア3人組は口々に誰だ誰だ?といっている様だった。交替枠はまだ1人残っているが。背番号8が見えたので“ガットゥーゾ。ナンバーエイト”と教えた。すると左端の男性が他の2人になにやら“ミラニスタ”だの“ジャポネーゼ”だの言っているのが聞こえた。おそらく“お前達はミラニスタなのになんでジャポネーゼ:日本人が先にわかるんだぃ?”と言ったのだろう。振り返ると2人が私に“シィー、ガットゥーゾ”と笑みを返してきた。その直後リッピ、イタリア監督はカモラネージを下げてバローネを投入した。そして目の前でアップをしていたデルピエロは消えてしまった。交替枠が無くなったからだ。試合はイタリア陣内で進むがチェコのシュートまでは至らず、イタリアがカウンターを仕掛けるという展開。78分チェコはMFコバチに替えて188cmのFWハインツを入れてくる。だが1人少ないチェコをイタリアはカウンターでチャンスを作る。82分にはカウンターから最後はペロッタのパスを受けた、どフリーのインザギが外せば、83分には今度はペロッタが無理な体勢から自ら撃つ。チェコも最後の力を振り切るかの様にカウンターのカウンターでイタリアゴールに迫る。84分にはブラシルが大きく弾んだバウンドにあわせて放つがGK正面に。85分にはネドヴェドの右からのクロスに長身ハインツが頭で合わせるがこれもGK正面。そしてついに試合を決めるゴールが生まれる。87分、イタリア陣内からペロッタがスルーパス。これをインザーギが受けてハーフウェーラインを少し過ぎたあたりから完全にフリーでドリブルでチェコゴールに進む。さえぎるものは何も無く、ゴール裏にいたイタリアサポーター達が総立ちになる。最後はもう1人イタリア選手がフリーで上がってきたが、自らGKチェフを外して流し込んでワールドカップ初ゴールはイタリア待望の追加点となった。後ろのイタリア人が“今のはナンバー18のインザーギだ。ちゃんと書いといてくれよ。”と私の肩を叩く。 そして数分後タイムアップ。イタリアの選手の多くがネドヴェドに駆け寄るのが印象的であった。ブッフォン、カンナバーロ、カモラネージそしてデルピエロ。彼らはみな同僚だ。いや同僚だった。デルピエロ以外。この時彼らメンバーが四散するなど誰も予期出来なかった。DFヤンクロフスキはACミラン所属。ガットゥーゾと肩を組んでいる。やがてコーラーも足を引きずって出て来て、ネドヴェドを初めチェコの選手達と共にがピッチ上でサポーター達に手を振る。チェコでさえ1次リーグで消えてしまうのがワールドカップなのか?ならば日本は?? イタリアにとっては色々な意味でこの試合が大会のターニングポイントになったと思う。
帰りにイタリア人達と記念撮影をして、“チャオ”言葉を投げかけ球場内の土産物屋に向う。そこで数十分時間を潰したせいか、駅までのシャトルバスはそれほど混まなかった。車内ではチェコの赤いレプリカとイタリアの青いレプリカを着た人が多くいた。Nさんが着ていたのは日本代表の青色のレプリカ。遠目にはチェコとイタリアのサポーターが話をしている様に見えたのではないか? だが我々の話題は夜に行われる日本対ブラジル戦であった。奇跡は起こるのだろうか?…..

6月22日 ハンブルグ にて 対決 ネドヴェドvsアズーリ

2006-08-07 | FIFA World Cup
両国の選手達が入場してくると場内はイタリア、チェコ両国のサポーターを中心に大歓声で我らが代表選手を迎える。そして国歌斉唱。チェコ国歌がワールドカップの舞台で流れるのは今大会が初めてだ。イタリアはアメリカ戦では先発した右サイドバックのザッカルドが外れ左のザンブロッタが右に回り、左にはグロッソが入った。FWはルカ=トニーを下げてジラルディーニョのワントップ。中盤構成を一人増やしアメリカ戦退場で出場停止のデロッシに替わりカモラネージ、ガットゥーゾが起用されて中盤構成を5人に(他はトッティ、ペロッタ、ピルロ)増やした。一方、前節ガーナ戦で完敗したチェコ。初戦のアメリカ戦では完勝したものの長身のヤン=コラーが負傷してこの試合も起用出来ず。ワントップはガーナ戦ではそのコラーの代役と成り得なかったロクベンツではなくアストンビラのFWバロシュ。そしてボランチをガラセクに替えてボラク。ガーナ戦退場で出場停止のウィファルシの代役はロセフナルを起用してのスタートだ。バロシュの怪我からの回復具合が気になる。同行したNさんにこの組の星勘定をノートに書いて説明する。“同じ時刻にニュルンベルグでアメリカ対ガーナ戦が行われていますが、今全ての国に決勝トーナメントのチャンスがあります。イタリア、チェコ破れたほうが1次リーグ落ちの可能性もあれば残る可能性もあります。しかし勝点1少ないチェコは引分けてもアメリカ対ガーナ戦の結果次第で落ちる可能性もあるので絶対に負けられない試合です。しかしイタリアも破れると1次リーグ落ちと言う事もあります。” ついでに夜に行われる日本のいるF組の星勘定もノートに書いて説明した。こちらはかなり厳しい….
試合は開始から勝たねばならないチェコの猛攻で始まった。目の前はイタリアゴール。その前でチェコの選手ががんがん攻めてくる。座席が前から2列目なのでそのワールドクラスの攻防の迫力に圧倒される。MFのロシツキがほぼFWの位置に張り出してバロシュとの2トップの形に。そして33歳のネドヴェドが縦横に左右に動いてチャンスを作る。ものすごい勢いと運動量だ。4分には左CKからロシツキが、8分にはネドヴェドのロングフィードからバロシュがショットを放つがGKブッフォンがブロック。11分ネドヴェドが自らミドルを放つがまたもやブッフォンがセーブ。15分にはポドルスキーからネドヴェドに渡りそのままミドル、ブフォンが弾いたところをロシツキが詰めるがゴールを割らない。チェコはネドヴェドのみならず、ロシツキのボールキープが良く、1996年欧州選手権準優勝時の立役者ベテラン、ポボルスキーも動きが良い。特に右に位置するポボルスキーがグロッソ、カンナバーロと目の前で相対するのを見ると“さすがワールドカップ”と言う実感が湧く。そしてブッフォンもネドヴェドも同じユーベントス所属。これはシュート練習で頻繁に相対しているブッフォンが有利か?立ち上がり劣勢のイタリアに更に深刻な問題が。16分、DFの要、ネスタが負傷で退場してしまう。4年前のワールドカップで韓国に敗れたイタリアだったが、その敗因は審判の疑惑の判定よりもネスタが怪我で使えなかったからと私は見ている。(あとはビエリがチャンスを外しまくった。)その悪夢が甦る。だが瓢箪から駒とはこのことか?替わって入ったインテル=ミランの長身DFマテラッツィが大仕事をする。26分、右CKを得たイタリアはトッティがボールをセットするが時間を稼いでいるようでピッチを背にしてなかなか蹴らない。その間、長身のマテラッツィがゆっくりとペナルティーエリアに上がってくる。そしてトッティがいれたCKをドンピシャのタイミングで高い打点であわせてあっさりと先制ゴールを上げた。翌日のガゼッタデルスポルティボ紙によると身長193cmのマテラッツィのこの打点は270cmの高さにあり、イタリアの公共バスの高さくらいあるらしい。競ったボラクは181cm 全くなす術なしだった。試合の流れは完全にチェコであったがそれを変える大きな先制点だった。そして今から考えればこの交替がイタリアにとって大きな転機となったのだった。この失点後、チェコは焦りが生じたか、それともイタリアが中を固め出したか最後のパスが通らなくなる。逆に38分にはトッティからジラルディーノにパスが渡りペナルティーエリア内でジラルディーノを倒してしまうが主審のノーホイッスルに助けられる。前半ロスタイムにはボラクが2枚目のイエローを貰って退場に。そして起こったチェコサポーターの1人がビールのたっぷりはいったコップをそのままフィールドに投げ入れた。すぐに場内警備員がやってきてそのチェコ人は連れ出された。あとはどうなったのかな?そして前半が終わった。時間はまだあるのだが、果たして後半チェコは追いつけるのだろうか……
ハーフタイム中にNさんにチェコの事を説明する。戦前のチェコスロヴァキアは世界でも屈指の列強であった。戦後も1954年大会から3大会連続で出場し、1962年チリ大会で準優勝を収めるなど優秀な成績を収めてきた。1976年欧州選手権では決勝戦で西ドイツを破って初のビッグタイトルを手にするが、1970年代に入るとワールドカップでの成績はイタリア大会のベスト8が最高でワールドカップの出場自体が1970年大会、1982年、1990年大会のみと失速気味だ。1992年後の連邦分裂後はチェコが1996年の欧州選手権で準優勝を収め、欧州選手権では以降3大会連続出場し好成績を収めているがワールドカップでは出場がなく今大会ようやく欧州予選を突破できた。これは欧州選手権で活躍した若手が西欧のビッグクラブにスカウトされては代表と所属クラブとの過密なスケジュールにコンディションを維持できないと言う悪循環が続いているためだ。今回はネドヴェドが代表復帰を果たし、ポボルスキーらベテランと若手をブリュックナー監督が上手く纏め上げた結果が本大会出場に結びついた。 私達の後ろには青のイタリア代表レプリカを着た3人組がいる。その1人が私の持っているサッカー雑誌のメンバー表の切り抜きとノートを指差して“ you はジャーナリストか?イタリアは勝つと思うか?”と訊いてきた。“残念ながらジャーナリストじゃないけど、マテラッティ、トッティは調子いいねぇ”と言うと“俺と彼はミラニスタだ”と右隣の仲間を指した。するとその彼が私の切抜きを指して“これは何だい?”と声を掛けてきた。日本のサッカー雑誌の切抜きでここに参加国の前選手の所属先や身長体重、ポジションが記してあると指をさして説明すると “オーワンダフル” と言った。日本人選手で知っていたのは中田だけだった。その中田も引退してしまい、この次に日本人選手がセリエAで活躍するのはいつだろう? 続く

6月22日 ICE の行き先は北ドイツ.....

2006-07-28 | FIFA World Cup
6月22日。朝の目覚めは午前7時少し前。外は曇天。前日の国際試合?のせいかすこし筋肉痛が。日課のジョギングは前日走ったスタジアムと反対方向に。5分も走らないうちにパブリックビューイングが。その規模は決して小さくはなかった。少しいくといかにも“共産党本部”と見られる様な建物があった。また Neues Gewandhaus や Grassimuseum 等も。前日は典型的な旧共産圏のアパート群を見ながらも走った。初めて海外に出張に出たポーランドを思い出した。あれから16年経った。旧共産国もこの間の激しい経済の遷り変りに考えられない様な貧富の差が出て来た。同じドイツ国内でも経済の地域差は拡がるばかりらしい。
ホテルに戻り、シャワーを浴びてチェックアウトを。そして中央駅に向かい、9時50分発の ICE に乗り込んだ。行き先は Dorutmund では無くHamburg。実は20日、 Hamburg のGさん宅に御世話になった時に“6月22日、ハンブルグで行われるイタリア対チェコの Category 1 のチケットが当たっているという通知がつい数日前に届けられたけど店が忙しいので離れられない。だから誰かに買って貰いたい。”と言っておられたのだ。私はそれまでは同日はドルトムントで行われる日本対ブラジル戦を見に行くつもりにしていた。チケットは競技場の近くで何とか入手しようと考えていた。Gさんも私がドルトムントに行くものと思っていた。そこで私は考えた。“日本がブラジルに2点差以上で勝つ確率。しかもチケットは未定。イタリア対チェコ戦、しかも消化試合で無く負ければ1次リーグ落ちの欧州列強のガチンコ勝負。どっちが魅力的か??”答は後者だった。Gさんには“そのチケット私が買います。譲ってください。”とお願いすると、二つ返事で了解してくれた。本当にこのワールドカップはGさん様々であった。それでも前日の21日、試合観戦後、中央駅をぶらぶらしていると“貴方は日本人ですか?明日の日本対ブラジルのチケットがあるけどペアーで EURO500 で買いませんか?”と声を掛けてくるイラン人が二組もあった。”300なら買うけど“と応えると”400まででどうだ?“と二組とも折れて来た。この時はハンブルグに戻るつもりにしていたのでそれ以上は取り合わなかったが、もし当初の予定通りにドルトムントに向うのならば間違いなく手を出していただろう。同じ駅構内に日本人の二人連れが3組いたのでそれぞれに”あのイラン人が明日の日本戦のチケットを売りに来たけど…“と教えてあげたけど、皆入手済みであった。そしてそれぞれの方々に丁寧にお礼を言われた。”明日奇跡が起これば良いですね。“とも。 ICE の車内は結構混んでいた。しかし1等車の車内の7割は Press Card をぶら下げた記者かジャーナリスト。あぁ羨望と垂涎のまなざしとオーラが自分から発せられる。自分も負けじと?パソコンを取り出しキーを叩く。発車後10分くらいすると近くの席にPress Card をぶら下げたご主人に奥方とかわいらしい小さな女の子が。ご主人の様相を見るとどうもイラン系の様だ。私の方から声を掛けた。 “ Excuse me ? イランの方ですか?…..” 1978年のワールドカップアルゼンチン大会で活躍した選手達、カブール=ヤハニ、ハッサン=ローシャン、エスカンダリアン、ダナいファル…彼らは今どうしているのですか?と、兼ねてから知りたかった質問をぶつけた。彼は非常に驚いていた。カーブール=ヤハニはアジア、オセアニア地区2次予選で得点王になった当時のエース、ストライカーだった。今もイランに在住するがサッカーと関る仕事はしてないとの事。だがもう一人のFW選手でワールドカップのペルー戦でゴールを決めたハッサン=ローシャンはイランサッカー協会のある職に着いており、エスカンダリアンはアメリカに住んでいてスポーツ用品店を経営しているらしい。エスカンダリアンはワールドカップではスコットランド戦でオウンゴールを献上してしまったが、大会後は New York Cosmos にスカウトされ、翌年は Cosmos の一員として来日している。ダナイファルもアメリカでスポーツビジネスに携わっているらしい。スコットランド戦ではダイナイファルの同点ゴールで強豪相手に勝点を上げた。だがワールドカップ翌年に起こったイスラム革命で王朝のみならずイランチームは四散してしまい、その後のイラン、イラク戦争で大変な打撃を受けた。そういった歴史的な事象が無ければイランはまだまだアジアの王者として君臨していたのではないか?そんな話をした。そしてイスラム革命後、アヤトラ=ホメイニ師と対立し罷免され、フランスに亡命した当時のバニサドル大統領の話もした。(未だ生きているのかな?)。このイラン人ジャーナリストはアメリカ在住で2月に日本代表がアメリカで試合をした時はジーコ監督にインタビューをしたらしい。アジアの中でも日本のサッカーは技術が高く、組織的でイランもそれを見習うべきだと語っていた。かつてはイランは守備の組織の高さで定評があったのだが。韓国の様な体力勝負のサッカーは欧州相手では通用しない、それどころかアジアでも限界がある。とも解説していた。それは1996年のアジアカップでイランが韓国を 6-2 と粉砕した事か?それとも今回のアジア予選でサウジアラビアに勝てなかった事なのか?はたまた近年のバーレーン、ヨルダン、レバノンの台頭を指摘しているのか?ただサウジアラビアに就いては”彼らはワールドカップで勝つことは重要ではない。ガルフ=カップで勝つ事を重きにおいている“と鋭い指摘。これからイランはもっと日本との対戦を増やすべきだとコメントしていた。最後”今日はドルトムントにブラジル戦を観に行かないのか?“と訊かれたので”ハンブルグでのイタリア対チェコ戦が手に入ったのでそちらを観戦する。それにブラジル相手では期待は出来ないので日本戦はテレビ観戦だ。“と応えた。すると”そんなことは無い。今の日本ならブラジルに勝つ事も不可能じゃない。フットボールは何が起こるか解らない。“と言ってくれた。そして列車がベルリン中央駅に到着すると家族と共に下車をしていった。”またいつかアジアの話をしたいね。“と言ってくれた。 ベルリンを出発すると半分以上の乗客が降りてしまった。社内を見回すと Press Card を下げていないのは私一人だった。  ハンブルグ中央駅に電車が着くと駅のホームにはクロアチアのレプリカを着たグループと2~3出くわした。彼らも私の日本代表レプリカを見て親指を立てる。私も” One and Zero Please !! “ と声を掛けた。意味解ってくれたかな? 中央駅からGさんの寿司ティクアウェィ店までは歩いても10分以内だ。その道中、多くのイタリア人達が陽気に街を歩いている。私の着ているレプリカも青色なので、彼ら、彼女達の多くは味方だと思ってか?陽気に“イッタリアァ~”と声を掛けてくる。Gさんのお店に着くと午後1時を少し回ったところだが、多くのビジネスマン、ウーマン達がランチを Sushi で楽しんでいる。“お昼まだでしょう?どうぞ。”と Sushi 定食を進めてくれた。近所にもう一軒レストランを開設する予定だが、なかなか役所の許可が降りなくて閉口してとの事。“本当はワールドカップ前に大々的にオープンにして日本の勝利を祝いたかったのだけど..” といっておられた。日本では何かと文句をつけて仕事をしない事を”お役所仕事“と言うが、ドイツではもう”お役所“どころではないらしい。役所の担当者個人の裁量で勝手にルールを作ったり、朝令暮改なんて日常茶飯事。それでいて残業などは1秒もしなくて休暇はしっかりとるらしい。そんな話をして、異国の地で Sushi Lunch を楽しんでいるとここで働く女性従業員のNさんがやって来た。今日はNさんと観戦する事になっていた。Nさんは音楽留学でハンブルグに渡ってきて、以来和食レストラン等でアルバイトを続け、数年前からGさんの店で働き出し、今や経理や仕入もこなす、ここではなくてはならない従業員になっている。それだけでなくGさん曰く”商売の成功は働いてくれる人次第ですよ“。と言われるとおり、ここの従業員の人達は本当によく働く。ワールドカップ期間中は日本代表のレプリカをユニフォームの様に着て働いておられたとか。それは私がタイで入手しアレンジアしたもの。でも皆さん大変に喜んでくれて、クロアチア戦ではパブリックビューイングにこのレプリカを着て応援に出掛けた人も。異国に居てこそ望郷の思いというよりも日本というアイデンティティが芽生えるのだろう。これを左翼連中は”軍国主義の始まり“とか”右傾化“と言うのだろう。格言う私も、今日は日本戦でない試合を楽しむのだが。ガーナ戦でも着たチェコのレプリカに着替えてNさんと競技場に向かうことに。街はイタリア人ばかりでなくチェコ人も目立ってきた。前回出場した時は連邦分裂前のチェコスロヴァキアの時代。まだまだこれだけ多くの人が国外には出られなかっただろう。 Nさんはサッカーはそれほど興味がないらしいが高原がHSVに加入以来、興味を少し持ち始めたとか。ドイツ語が堪能なNさんはニュースなどで報道される高原の評判や今回の代表の地元での評判を教えてくれた。 2年前のアテネ五輪前、HSVのサポーターは高原が五輪でプレーすることを楽しみにしていたらしい。そういえばこの頃オフィシャルファンショップで従業員の何人かは” タカハラ? オリンピッシュッ !! “ と言っていた。それだけに彼があんな形でアテネ五輪でプレー出来なかったのは残念な話だ。 大会後は Frankfurtへの移籍が決まってしまったが、在留邦人の方達は試合に出れてもそうでなくても彼を暖かく見守っていたと言う事が良くわかった。また今大会前のドイツ戦後の日本の評判はすごく良くてかつてドイツ代表選手で解説のギュンター=ネッツァーは褒めちぎっていたらしい。しかし大会期間中はやはり日本代表は日本国内で思われているほど話題には昇らなかった様だ。競技場に近づくにつれて両国のサポーターが増えてくる。最寄の駅ではチケットを求める人も多くいる。バスでスタジアムに到着すると更にその数は増える。ダフ屋に声を掛けると試合開始40分前だがカテゴリー1で Euro 400 と相場は高い。さすが1次リーグきっての好カードだ。日本人女の子3人連れがチケットを求めるプラカードを掲げている。自分の事を棚に上げて“日本戦は見ないのでしょうかね?”とNさんに話してしまう。 スタジアムに無事に入場し、席を探す。そして本当に驚き。何と私たちの席は1階席の前から2列目。しかも最前列は警備上の問題から着席をさせておらず、事実上我々が最前列。しかも目の前にはペナルティーエリアが広がっておりスリリングなゴールシーンが期待できる。本当にワールドカップ観戦最後にして最高の席をGさんがプレゼントしてくれた。またこの試合は対戦カードばかりではなくグループリーグ最終戦にして、尚4チーム全てに決勝トーナメント進出の可能性があるということ、私のすぐ後ろにはイタリアのレプリカを着た3人組が居る事、そして斜め後方には20名ばかりのチェコサポーター達が。私の着ていた NEDVED のレプリカを見て“ Hey !! ネドメェドォ~”と声を掛けてくる事がシンクロナイズして本当に“欧州サッカー”の雰囲気が醸し出されていた。但し私のネドベドレプリカは EURO2000 当時のもので背番号も4番だけど…. そしてスタメンの発表。イタリアはこの試合もインザーギはベンチスタートでデルピエロもベンチだ。一方のチェコは長身のコレルはやはり名前は無いが、バロシュがスタメンに戻ってきた。ネドベドが映し出されるとスタンド中のチェコのサポーターが大きな期待の歓声を送る。そしてやがて両国選手が入場してくる。 想像以上に選手が大きく見えた。私が長年見たかったと言うか、味わいたかったもう一つのワールドカップの雰囲気とはこんな感じだったのだろう……..

6月21日 Iran vs Angola unofficial Match

2006-07-23 | FIFA World Cup
人生は何処でどんな願いが叶うか解らない。大学ではインカレも出た。(サッカーじゃないけど)そして夢は五輪とまではいかないでも国際試合に出ることだった。その野望を果たすべく実業団にもすすんだがあっさり2年で挫折。それから18年。異国での国際試合に参加できる事になった。半分そんな気持ちだった。ピッチの広さはハンドボールコートくらいか?ゴールの大きさはハンドボールゴールの 1.5倍程度。人数は両チーム10名程度ずつ。イランのユニフォームを着ている人とアンゴラ人らしき人が分かれてあとはドイツ人やイギリス人達が加わり、小学生程度の子供も2人いる。日本人は私だけ。私のポジションは中盤の左で着ているレプリカの通り中村俊輔と同じポジションと言えば聞こえがいいが、ピッチに入ったときに、そこに立ったのでそのままそこにいただけだった。試合が改めて始まるとまず誰もパスを出そうとしない、まぁ敵味方の区別がつかないと言う事もあるが、ボールを持つとドリブル突破を試み、そこに相手チームの選手が群がってくる。それでもボールを取られまいとボールキープを試みて周りなど見ない。そしてボールがこぼれると、そのボールを拾った選手が同じ様に取られるまでドリブル突破を試みる。少し離れて見ているとボールの行方を追って両チーム10名以上の選手が塊となって動いているのだ。私の所にもボールが転がって来た。ボールは試合球の様な大きさで無く、お土産屋で売っている様な小さなもの。こういうサイズのボールを使って練習すればテクニックが非常に上がると聞いた事があったので、家では子供と小さなボールでよく遊んでいる。そのせいか、サッカー未経験者の私でもけっこうボールを扱え、何人かかわす事が出来が、ボールを追って4人から5人の選手が突進してくる。しかも何人かは身長が私より10cm近く高くて横幅も非常にある。これはたまらんとばかりに、パスを出す事に。まず誰が味方かを選別せねばならない。そこで自分と同じゴールを目指す方向を向いている選手を探し出し、もうワンタッチ、ツータッチでパスを出す事にした。すると味方は私がパスを出す事を悟り、ボールを持つや、“ジャポネ!”“ヤーパン!!”と周りが声を出してパスを要求するので更にパスを出しやすくなる。中には“ナカムラ!!”と声を掛ける選手も。彼の欧州的に有名なスルーパスを知っているのか?それとも私のレプリカの名前を見てか?そしてキックイン(スローインではなく)の際にはなるべく子供達にパスを出す様にした。だが両チームを見回してもパスを出したり、子供に配慮するのは皆無で、ボールを奪い合うときもその瞬間は遠慮が無い。でも倒した選手はきっちり起こす。倒された方も笑っている。本当に国際親善試合だ。そのうち、ピッチの外で見ていたガールフレンドや家族、他の仲間が帰りを促し出し、何人か抜けていく。ゴールキーパーが抜けた時だった。だれもGKをやりたがらないので私が入ることにした。すると何人かは “ Thank you !” と声を掛けてくれた。GKをしていると更によくわかるが屈強な大男達がどんどん突進して来る。そして遂に身長 190cm くらいありそうな選手がドリブルで突っ込んできて1対1となった。私が2、3歩前に出た時にその選手がシュートを放ち、たまたま私の足に当たった。味方は この“ プレー “に親指を立てる。私は “ カワグチ !! “ とレプリカのエンブレムを指した。するとまた何人かは“ Yeahh Kawaguchi !! “ と。恐らくクロアチア戦のPKを止めたシーンを憶えていたのだろう。 この試合に、私は国民性の縮図を見た様な気がした。日本人はまだまだ世界の中では他人の事を考える人種で”公共性“がある方だろう。そしてFW選手に必要な”俺が、俺が。俺が決める“と言う強い気持ちというか”わがまま“の”必要範囲“は外人の方がずっと広いと思った。彼らから言わせれば”FW選手がゴール前で何故パスコースを探すのか?“と理解に苦しむのが解る。だから世界レベルで言うと、日本人選手が最も向いているのは中盤の選手と言うことなのだろう。こうして試合開始から小一時間程度経ったときに、また数人の選手が抜けることになり、それを潮時と試合も終了する事になった。スコアーなんて誰もわからない。各個人が思い思いに楽しんだ時間だった。私もそうだった。そして再び子供を連れてこなかった事を後悔した。何人かのドイツ人とイラン人とで名残惜しそうに何度も写真を撮った。イラン人はドイツに在住しているらしい。そしてドイツ人はシュツッツガルトから来ており、これから夜行列車に乗り明日の朝、シュツッツガルト中央駅に着いてそのまま職場に向うらしい。ライプツィヒの中央駅まではトラムで一緒に行くことにした。片方のドイツ人男性は Stuttgart Kickers のファンで私が”かつてユルゲン=クリンスマンもいたチームだろ?“と言うと2人とも” Genau, genau : そうだ、そうだ“と言った。もう1人は Vfb Stuttgart のサポーターで彼のほうから”今、ブッフバルトはどうしている?“と訊いてきた。浦和レッズの監督をしている事もかつてレッズでプレーしていた事も知っていた。トラムが中央駅前に到着し”明日、日本が勝てばいいね。“と言われて、握手を交わして別れた。 私はそのままホテルに戻った。ロビーでは4~5人のイラン人がビールを飲んで歓談している。その中の1人が、私が被っていた IRAN のロゴの入った帽子と日本代表のレプリカを見つけ、” Iran ! Japan ! Asia !!”と彼は言いながら握手を求めてきた。 “今日のゲームの印象は?”“勝てると思ったけど残念だ。”“イワンコビッチ監督は?”と訊くと両手を広げて“もう仕事が無いよ”と言った。彼は流暢な英語を話した。部屋に戻った私はシャワーを浴びて、再びNAKAMURAのレプリカを着て中央駅に夕飯の買出しに出かけた。中央駅構内では電車に乗り込もうとする人や、数箇所あるスタンドでビールを飲む人達も。先程一緒に国際試合に興じた人も何人かおり、またまた記念撮影を。デジタルカメラの開発、発達は確実に世界の人々の友好に役立っていると感じさせられた。駅のショッピングモールにあるティクアウェィ店で昨日同様、中華料理と寿司を、そしてスーパーではミネラルウォーター等を買い込む。何台か大型の液晶テレビが設置されていて、死の組と言われていたC組の第三節、アルゼンチン対オランダの試合が丁度キックオフを迎えるところであった。しかし共に勝ち抜けを決めており、この試合はいわゆる消化試合。この試合をテレビで観るよりも、試合後の Leipzig の雰囲気に浸りたかったので、そのままぶらぶらと駅の構内を抜けて、ホテルの部屋に戻った。外は午後9時(夏時間だから本当は8時?)なのにまだ充分明るい。部屋に帰ると試合はもう15分過ぎであった。アルゼンチンはDFエインセ、ファン・パブロ・ソリンを外しミリト、クフレが初先発。FWもクレスポ、サビオラがベンチでテベスそしてメッシがスタメンに起用された。一方のオランダ、マタイセン、ファンブロンクホルスト、ヘイディンガのDF陣はベンチスタート。それはイエローを既に貰っているからか?FWも前のコート・ダジュール戦で警告を受けたロッペンが外れている。両国の対決と言えば、1978年大会の決勝戦を思い出す。地元の大声援を受けて決勝に進んだアルゼンチンとクライフが大会参加を拒否しながら残されたメンバーで決勝にまで進んだオランダ。アルゼンチンが前半英雄、ケンペスのシュートで先制すると後半38分交替出場の長身ナニンガのヘッドでオランダが追いつき、終了直前のオランダ、レンセンブリンクのシュートはポストに阻まれた。このシュートが入っていれば、オランダは優勝し、当のレンセンブリンクは得点王になるはずであった。試合は延長戦に入ってケンペス、ベルトーニのゴールでアルゼンチンが粘るオランダを突き放し、悲願の初優勝を達成した。しかし、欧州人の記者席からは“審判がアルゼンチン寄りだ”と不満が出ていたらしい。事実試合前、オランダのルネ・ファンデ・ケルクフォフが手首に撒いていた包帯が長すぎると言う事をアルゼンチンのパサレジャ主将のクレームで包帯を巻きなおすと言う一幕があったが、その包帯の事をパサレジャに教えたのはこの試合の線審であった。翌年、チューリッヒでFIFA設立75周年試合として再び両者が対戦し、そこに若き日のディェゴ=マラドーナの溌剌とした姿を見た。同年、日本で開催されたワールドユース杯で彼がアルゼンチン代表として来日する2ヶ月ほど前であった。 1998年フランス大会でも両者は準々決勝で対戦。終了直前、デニス=ベルカンプのゴールでオランダが20年越しの雪辱を果たした。しかし、アルゼンチンに言わせればオランダはどうも“絶対に負けられない”相手ではなさそうだ。前のドイツでのワールドカップでもアルゼンチンは中心選手のバビントンが出場停止でもあったが、オランダにクライフの2ゴール、そしてジョニー=レップ、ルート=クロルのゴールで 0-4 と粉砕された。 アルゼンチンでは地元大会での決勝戦で破った相手としてオランダをより強く記憶する人の方が多いのかもしれない。試合は共に決勝トーナメントを考えての安全運転に終始している様であった。そして私も前日同様、試合終了前に眠ってしまい、結果は翌日に判った。 翌日はいよいよ私のワールドカップ観戦最終試合だ。そしてドイツ滞在ももうあと二日を残すのみとなっていた…….

6月21日 イラン、アンゴラ勝利を目指して

2006-07-17 | FIFA World Cup
スタンドに腰掛、競技場を見渡すが客の入りはこれまで観た3試合と比較にならないほど空席が目立つ。FIFA のホームページ内にある Ticket Shop を観ても、この試合の所にRe-Sale されるチケット公式に出回ったとされている “R” マークが点灯された事もしばしば。ここに今大会の(前回もそうだったか?)チケット売り出しの特徴が現れる。1次チケット販売はグループ分けが決る前に、要するに対戦カードと日程が決まる前に始まり私が大会前に手に入れたチケットは未だ試合カードが決る前の1次チケット販売のものばかり。大会出場枠が32に拡大された為、1次リーグから欧州や南米の列強が激突するということが少なくなり、この試合の様にアジア(イラン)対アフリカ(アンゴラ)と言う様に第三世界同士の対戦も出て来る様になった。4年前の大会でも自宅近くのさいたまスタジアム2002でのカメルーン対サウジアラビアの試合を観戦した。だが私はワールドカップには無駄な試合は一切無いと言う考えだ。それにこの両国は実力も拮抗しており、一方的な試合になることは無いと思われる。ただこの試合もカテゴリー1だったのに2階席であった。1次チケット販売分は全て2階席なのだろうか?やがてスタメンの発表が始まる。アンゴラはアクワのワントップ2列目に右からゼ・カランガ、マテウス、メンドンサとメキシコ戦と同じ布陣。ベンフィカ所属のマントラスはこの日もベンチ。ボランチのアンドレがメキシコ戦で警告2枚貰い退場になった右のボランチア、アンドレのポジションには左のフィゲレイドが入り、そこにはミロイが入った。4バックは不動のロコ、ジャンバ、カリ、デルガドそしてGKは浪人中のリカルド。アンゴラはGKとトップのアクワが浪人中だ。それでメキシコと引分けるのだから恐れ入る。一方、メキシコ、ポルトガルに連敗したアジアの雄イラン、確かに相手が強すぎたがメンバー起用に問題も無かったか?メキシコ戦で得点を挙げたゴルモハマディに替わってバフティアリザデがスタメンに。ディフェンシブハーフにはネクナムに替わって1FCカイザースラウテルンのザンディ、2列目のマダンチ、マハダビキアは替わらないが2トップに96ハノーファーのハシュミアン、そしてアリ=ダエイが起用され、バイエルンのカリミは外れた。ホテルのイラン人に教えて貰った通りだった。アンゴラ戦こそ、メキシコ戦の様にカリミを入れて攻撃陣をブンデスリーガ組(マハダビキア、カリミ、ハシュミアン)を並べるべきではなかったか?イバンコヴィッチ監督はダエイに何故こだわるのだろう?選手入場の時間になってもやや空席は目立つ。そしてイランのサポーターが圧倒的に多い。これはここドイツに多くのイラン系移民が在住するからだろう。私の隣には赤と黒の2色に染めた鬘を被ったアンゴラ人のサポーターが。周囲には他にはドイツ人が多かった。試合は1対1に優るイランがやや優勢に進める。開始2分、イランのザンディがアンゴラのジャンバに倒されれば、今度はイランのカエビが攻撃参加したアンゴラのデルガドを倒す。7分には左サイドを上がったノスラティが倒される。共に局地戦では当たりが激しいがアジアでは体格では当り負けしないザンディ、ノスラティが倒される事がワールドカップなのだろう。アンゴラは同時進行のメキシコ対ポルトガル戦の結果次第では勝てば決勝トーナメント進出の可能性があったが、前線のアクワへの2列目のサポートがいまいちだった。それはマハダビキアがポルトガル戦と比較して高い位置に張っていた為でこの日もマハダビキアは好機を演出する。9分にはダエイに絶妙のクロスを送るが頭に当てただけ。ダエイはAマッチ通算109ゴールは世界記録だが、未だワールドカップでの得点は無い。この試合では何とかワールドカップでの得点を、と期する所があっただろうがマークに付くジャンバに遮られる。そしてこの日はもう1人のFWハシュミアンよりもポジションを下げる事も少なくなかった。13分にはイランの左サイドバック、ノスラティが怪我で早々とベンチに下がりジョジャイエが投入されるイランは左からザンディとハシュミアンで中に切れ込みチャンスを作る。13分には交替で入ったばかりのジョジャイエからハシュミアンに渡りあがってきたザンディが放ったショットはGKリカルドがパンチで防ぐ。一方アンゴラもマテウスが逆襲から早いドリブルでイランゴール前に上がりチャンスを作るが23分に負傷でロベとの交替を余儀なくされる。その直後、前半最大のチャンスをイランは逸する。FKからの波状攻撃。最後はノスラティのクロスがフリーのダエイを目指すがそれをダエイが外してしまう。どうせならドーハでの日本戦で外してくれれば良かったのに。あれから13年が経つが、ここまで残っているのはアリ=ダエイだけだ。それだけ彼は偉大なのだろう。この時間以降はアンゴラが主導権を握る。4バックが高い位置をキープし、中盤でのこぼれ球を拾う様になり、前線もマテウスと交替出場のロベの2枚が張り出す。そのロベが25分にスローインで入れられたボールをフリーで撃つがGKの正面に。31分にはゼ・ラガンガのボールキープからデルガドがシュートを放つがイランGKミルザプールがコーナーに逃れる。そこから3連続CKを蹴るがゴールネットは揺らされない。尚もアンゴラが優勢な時間が過ぎるが、38分何故かハシュミアンが下げられてしまう。怪我でもしたのかな?替わって投入されたのは172cmのハティビ。ダエイを1トップにしてその周りを衛星の如くまわるのか?と思うも目立った動きは見られなかった。しかしその直後、マダンチが持ち込んで倒されて得たFKから波状攻撃を見せる。イランもアンゴラも前半で延べ3名の選手が交替したが、交替直後にその選手が直接絡む訳では無いがあわやというシーンが見られる。前半は負傷退場者が2名も出たので5分もロスタイムがあったが無得点のままハーフタイムに入った。観客席からは色々な垂れ幕があるが、HSVハンブルグの旗も。これはここに長く在籍するイランのマハダビキアへの敬意を込めてか?個人能力のレベルではアジアナンバーワンのイラン。8年前もアジジ、バケリといったブンデスリーガ所属の選手がいた。もう少し組織的な戦術が徹底されればこの大会もこんな苦戦続きでなかったはずだ。しかし、そうなれば日本はもっとアジア予選で苦労しただろう。ハーフタイムにゲルゼンキルシェンで行われているポルトガル対メキシコの途中経過が入り 2-1 でポルトガルリードと紹介されると、隣のアンゴラ人が歓声を上げる。後半3点を取れば決勝トーナメントの可能性があるのだが…..。このゲルゼンキルシェンでの途中経過を耳にしたか、後半開始早々にメンドンサがゴール右に僅かに外れるシュートを放つ。しかし、50分にエースのアクワが負傷で下がってしまう。そして投入されたのはエジプト、アル=アリ所属のフラビオ。マントラスは怪我でもしているのか?スタンドからは数で優るイランサポーターのボルテージが上がる。“イラン!イラン!!”と聞こえる歓声を聞くのは3回目だ。1989年東京で開催されたレスリングのフリースタイル世界選手権と1992年に国立競技場で行われたアジアカップウィナーズ選手権の日産自動車対ピルジー戦。当時は数多くのイラン人が日本に出稼ぎ労働者として渡ってきていた。新宿駅や上野公園で数多くのイラン人を見かけた。確かに変造テレフォンカードを売る輩もいたが、総じて犯罪に手を染めるものは少なく、特に民家に空き巣に入ったり、ATMを壊したり(当時は少なかったか?)組織犯罪集団を形成したという話は聞かなかった。今の中国人違法就労者とは大違いだ。しかし、これは日本に限らず、オーストラリアやニュージーランドでもイラン系の移民はいるが集団で犯罪を犯すなど地元の人を困らせる事は皆無に等しく、反対に中国人犯罪には手を焼いているとの事だ。しかし先制点はアンゴラが上げる。60分フィゲイレドのクロスがゴール前フリーで待ち構えていたフラビオに渡り、そのままイランゴールに押し込んだ。隣のアンゴラ人サポーターは大喜び。そしてアンゴラも可能性を求めて更に攻撃に転ずる。62分には再びフラビオのシュートはイランDFに当り、そのこぼれ球をロベが撃つが惜しくも外れる。デルガドへのファールで得たFKをフィゲレイドが直接狙う。アンゴラは後半からサイドチェンジを頻繁に使う様になる。イランは攻撃の糸口となるべくマハダビキアにボールが渡らなくなってしまい、反対にマハダビキアが下がってしまい、そこにボールが渡ってもポジションが低いので前に繋がらない。67分に右サイドバックのカエビに替えてFW登録のボルハニを入れてパワープレーに出る、その一方でアンゴラは好機を演出したMFフィゲイレドに替えてDF登録のEngland League 所属のマルケスを入れる、しかしアンゴラのゴンザレス監督、もう2点取らないとメキシコを上回れないよ、と思うも、前半終了直前にスクリーンに映し出されたある文章を思い出した。 Group D の中でアンゴラだけが自国人が監督を務めるという事だ。この時間であと2得点を挙げるのは難しい、ならば母国の為にワールドカップ初出場初勝利をと考えたのかもしれない。隣のアンゴラ人男性も“ア~ンゴォ~ラッ!!” と声援を飛ばす。しかし、彼の願いも、ゴンザレス監督の狙いも空しく、イランDFバフティアリザデがCKをドンピシャのタイミングで捕らえて同点ゴールが。わずかにマークに着いていたメンドンサがずれてしまった。 スタンドのイラン人サポーターは大喜び。アンゴラ選手達は落胆の色が隠せない。試合再開後はそれまでボールキープからアンゴラ攻撃の起点となっていたゼ・カランガが得意のボールキープからミロイのミドルがイランゴールを襲うがこれはGK正面。そしてゼ・カランガは更にボールを持ちすぎる様になってしまう。そして残り10分、今度はイランと言うよりもアリ=ダエイの怒涛の攻撃が続く。81分にはクロスに飛び込むが惜しくも合わない。83分にはまたもやダエイのヘッドがアンゴラゴールを目指すがGKリカルドがパンチで逃れる。87分にもマハダビキア、ザンディと渡りダイエに上げられたクロスから放たれたヘッドはGKの正面。その直後、今度は反対にダエイからマハダビキア、ザンディと渡るがザンディのシュートはクロスバーを越える。私も何とかダエイのゴールが見たくてアンゴラゴール前にクロスがあげられる度に ”ダエィッ!!” と叫んでしまう。その度に隣のアンゴラ人に聞こえたか彼の反応を見てしまう。しかし、そのままタイムアップ。アンゴラのワールドカップ初勝利もダエイのゴールも成らなかった。 アンゴラ、イランとお互いに勝点3を計算していた試合だったのか無念さの為に試合終了後はピッチに倒れこむ選手達も。それともこれでワールドカップを去ると言う感傷に浸っていたのか?しかし、選手達はそれぞれ立ち上がって歓声を送ってくれたサポーター達の所に駆け寄っていった。特にアンゴラの選手の何人かはユニフォームをスタンドに投げ込んで感謝の意を表現していた。私も隣のアンゴラ人と記念撮影をしてゆっくりとスタジアムを後にしようとした。だがこの試合は1人で観に来たせいか、なかなかその場を立ち去り難かった。そしてもういちどピッチを振り返った。1979年11月欧州選手権予選、ここにオランダを迎えた東ドイツは前半で2点をリードしながらその後3失点を喫して翌年イタリアで行われた本大会への出場権を逃した。もし、この試合で引分けていれば本大会にも出場し、再び東西ドイツ対決が実現したのかな… と想像していた。勿論当時はこんな近代的な競技場ではなかったが10万人近く収容出来る東ドイツ最大の競技場であった。会場のあちこちでみな記念撮影をしている。みんな試合後の余韻に浸りたいのだろう。ある家族から声を掛けられた。母親と娘3人で観戦に来たのだけどカメラを忘れたので写真を撮って送って欲しいとの事であった。彼女達はアメリカ人で主人(ここにはいなかった)の仕事の都合で数年前からここに在住しているとの事。E-mail と住所を聞いて数日後に e-mail で転送し、写真も現像して送ってあげると丁寧なお礼のメールを受け取った。Leipzig に来る際は連絡下さい。色々案内しますから….と。
スタジアムを出ると競技場敷地内は広大な芝生地が広がっている。そこを通過して大通りにでるのだが、2人組みの青年が “Dynamo Dresden “ の大きな旗を広げて何やら叫んでいる。東ドイツ時代の末期には後にボルシア=ドルトムントに移籍したマティアス=ザマーが在籍していたクラブだ。”マティアス=ザマー!!“と大声で叫ぶと彼らも”ザマー、ザマー“と応える。そしてすぐ横には日本人の女の子二人連れがいた。1人はHSVのマハダビキアのレプリカを着ている。イランのファンですか?と訊くと、特にそうでもないけど、マハダビキアのファンらしい。本当に女の子連れのワールドカップ観戦者も多く見た。そして歩を進めると、芝生の上で文字通り草サッカーをしているところに出くわした。立ち止まって見ていると、1分もしないうちに” Hey Japan !! Come Come “ とゴールキーパーが誘ってくれた。この滞在期間中ずっとユニフォームの如く着ていた日本代表のレプリカのおかげで?すぐに仲間として打ち解けてくれた。“ Iran and Angola, unofficial match !! “ と誰かが叫ぶと、皆が” Yeahhhhhhh !!” と歓声を上げた。 

夏草や兵どもが.... 4年後どうしているかなぁ?

2006-07-14 | FIFA World Cup
選手交替は無いまま後半が始まるがフランスは戦術を替えて来てボールが回る様になる。49分、ジダンのスルーを受けたアンリがドリブルでカモラネージ、グロッソ、マテラッティを“跳ね飛ばして”ゴール右側に迫るが、最後はザンブロッタが何とかコーナーに逃れる。7分には逆襲からジダン、リベリに繋がりマルダに渡り、何とかザンブロッタが激しいチャージで止める。そしてこれはノーホイッスル。8分にもマルダが右サイドを切り裂くがゴール前のリベリには僅かに合わない。 フランスはジダンに集中的にボールを集める。この日のジダンは絶好調と言ってよく1対1でもほとんど負けていない。そこから自在にパスが供給される。アンリがポジションを下げその代りに右側がリベリ、左側がマルダがそして更に左後方からアビダルががんがん上がってきて、しかもほぼワンタッチ、ツータッチで早いパスを回すのでイタリアはボールに触れない。フランスはこの日のスタメンの平均年齢が30歳らしい。それだけに早くリードして守備固めに入りたいが56分にはビエラが負傷してしまい、ディアッラとの交替を余儀なくされる。そしてイタリア、リッピ監督はここを先途と見たか、61分にペロッタ、そしてトッティ王子に替わってイヤキンタとデロッシを投入する。デロッシは1次リーグのアメリカ戦でマックブリッジの顔面に肘を入れて一発退場の上4試合出場停止処分に。そしてこの決勝戦が“謹慎明け”の最初の試合であった。記憶している方も多いと思う。アテネ五輪の日本対イタリア戦で豪快なバイシクルキックでゴールを決めた。他にも五輪チームからの”昇格組“はジラルディーニョ、ピルロがいる。日本は茂庭、駒野そして小野… 。  これで2列目はトップ下、トッティのいた位置にピルロが入り右にイアキンタが、デロッシはガッツゥーゾと共にディフェンシブMFに。交替直後にはグロッソのFKからザンブロッタがゴールを破るがこれはオフサイド。その直後には今度はアンリがカンナバーロを振り切って放ったシュートはGKブッフォンの美技を引き出す。しかし、ゴール前のシーンはこの時間以降は激減してしまう。それは両チーム失点のリスクを恐れてか、当りが激しくなってきたからか?76分にはマケレレのトーニへのチャージがファールと取られ、それに抗議したマケレレにイエローが出される。そこで得たFKをピルロが直接狙うがゴールポストを約1m外れた。これが後半最後の見せ場となる。79分にはジダンが空中戦でカンナバーロと競り合った際に肩を痛める。治療の間、選手達は水分の補給に余念が無い。そしてエリゾンド主審もカンナバーロからボトルを貰って水分補給を。試合前は気温30度、湿度38%だった天候状態。この時間帯はどうだったのだろう?疲労度が急上昇するとそれが原因でプレーが大雑把になり怪我を招きやすくなる。それでなくともこの1ヶ月で両チームとも6試合をこなしており疲労もピークだろう。86分、イタリアは最後の交替選手、デル・ピエロがカモラネージに替わって投入される。彼自身3度目のワールドカップだがレギュラーメンバーとして活躍できた大会があっただろうか?ポジションは左の2列目の”デル・ピエロゾーン“に入り、イアキンタが右に入った。 ここでデル・ピエロを入れたのは90分以内で勝負をつけたかったのか? しかしそのまま後半もタイムアップ。1994年大会以来ワールドカップ史上5回目の延長戦に入った。イタリアは後方からのロングボールとピルロのFK,CKだけが攻撃の頼りであったが、フランスはジダンを中心に細かくパスを繋ぎシュートまで持ち込んでくる。そして1対1でもほとんどフランス側に軍配が上がる。フランスは後半7本のシュートを放つ一方でイタリアはわずか2本だった。この試合代表通算100試合目のカンナバーロ、そしてザンブロッタ、ガットゥーゾらの踏ん張りが無ければとっくに勝敗は決まっていただろう。  
延長戦に入っても主導権はフランスが握る。イタリアはラインが最終ラインが低い位置にあるが、これは相当でフェンスに自信があるからだろうか?100分にはフランス最後の切り札?トレゲゼが投入され2トップ気味の布陣に。最前線からプレスをかける作戦か?トレゲゼは EURO2000の決勝戦でイタリアを粉砕する Golden Goal を決めた選手だ。だが106分にはアンリが足を痛めてか?それとも足が止まってか?ウィルトールと交替する。ウィルトール、トレゲゼ、 EURO2000 のイタリア戦でゴールを上げた両名がピッチに並んだ。ジダンも運動量が減ってきた、しかし、デル・ピエロとのマッチアップも見られた。こんなのチャリティーゲーム以外では拝めない。そして108分にワールドカップ史上今後も話題になるであろう出来事が起こる。デルピエロがドリブルで持ち込むが倒され、主審に“ファールだろ?!”と抗議をし、イタリアGKブッフォンが審判に駆け寄る。だがそれはデル・ピエロへのチャージでなく、イタリアゴール側のペナルティーエリア付近で倒れているマテラッツィの事で、審判はボールアウトになっていないがプレーを止めて、スペイン人のルイス=メディナ・カンタレホ第4審判のところに駆け寄り、後ろのポケットからレッドカードを出しながら選手団に駆け寄り、そのレッドカードをジダンに示す。テレビのリプレーは今世界で最も話題になっているであろうジダンの頭突きのシーンが映し出される、続いてその頭突きに至る前のシーンも映し出された。イタリアゴール前に上がってきたジダンにしつこくマテラッティがジダンのシャツを軽く引っ張りながら何か言い続け、最後にジダンがマテラッティの胸部に頭突きをかました。 ジダンはエリゾンド主審に何か言うが、キャプテンマークをサニュールに渡しピッチを後にしてしまった。 そしてドメネク監督はその決定に対し、第4審判に嫌味の拍手を送る。 これ以降、約10分程度に渡り両国選手はゴールを狙う気力が失せたかの様になり中盤での潰し合いが続く。フランス人サポーターか、イタリア人以外の全てのサポーターか、イタリア選手がボールをキープすると口笛とブーイングがスタジアムを覆う。それがGKブッフォン、マテラッティがボールを持つと更に大きくなる。ジダンの頭突きのシーンは競技場内のスクリーンに映し出されたのか? ドメネク監督もジダンの退場から何かが切れたのか?自軍選手が倒されてもファールを取ってもらえないとボトルを蹴り上げたり。そしてジダン退場シーン以上の見せ場が無かった延長戦も終わり勝負は8年ぶりのPK戦に委ねられる事となった。 過去フランスはPK戦で2勝( 86年ブラジル、98年イタリア) 1敗( 82年西ドイツ )、イタリアは3戦3敗 ( 90年アルゼンチン、94年 ブラジル 98年フランス) しかも94年は決勝戦で敗れ、98年はフランスにPK戦で敗れていると言うデータが残っている。しかし、フランスはトレゲゼが失敗したのに対して、イタリアはピルロ、マテラッティ、デロッシ、デル・ピエロそしてデロッソと全員が確実に決めて激戦に終止符を打った。しかしPK戦で勝敗を付けるのは気の毒に思った。78年大会まで規則化されていた様に再試合(決勝戦ではそうなったことはなかったが。)にすればとも思った。ワールドカップを手に歓喜を爆発させたイタリアよりも準優勝のメダルを授与されてもすぐに首から外したフランスの選手達の方が印象的だった。 ジダンの件はこれからしばらく物議を醸し続ける事だろう。それだけ人々は久々に順当に強豪が勝ち残って行った今大会の余韻に浸りたいのかもしれない。ホスト国ドイツには世界中から人々が集まって来ていた。大会期間中は国中がお祭り騒ぎであっただろう。日本代表が本大会に出場したおかげで、ドイツに行った自分もワールドカップに参加した気分になれた。そんな1ヶ月間もあったワールドカップ、終わってみれば早いもの、そしてまた次の大会がやって来て“4年経つのは早いなぁ”と述懐する自分が居るのだろう。 そのとき日本サッカーはどうなっているのだろう。そしてアジアは。南アフリカまでまた見に行くのかなぁ….

アズーリ戴冠 やっとヴィデオにありつけた

2006-07-14 | FIFA World Cup
やっと一昨日、ワールドカップが終わって2日後に決勝戦のビデオを観る事が出来た。前のブログでも述べたが、イタリアが24年ぶり4度目の優勝を収めた。イタリアは1970年メキシコ大会で準優勝して以来12年、3大会毎に決勝進出を果たしており( 1982年優勝、1994年準優勝)今回は優勝する“順番”であった。 
しかし、それでなくても今大会、私は優勝争いはブラジルを軸に欧州勢ならイタリアかイングランド、南米ならアルゼンチンが絡んでくると思っていた。(終わってから言うなよ?)

イタリア6年越しのリベンジを果たす
決勝戦までの両国の対戦成績はフランスの3勝2敗2分、ワールドカップではイタリアの2勝1敗1PK負け。1978年アルゼンチン大会1次リーグでイタリアが若き日の将軍プラティニのいたフランスをロッシ、ザッカレリのゴールで2-1 と降して以来イタリアは28年間、5試合フランスに勝っていない。得点はフランスが9、イタリアが8。記憶に新しい所では2000年欧州選手権の決勝戦、イタリア優勝まであと1分(数十秒?)と迫ったロスタイムにフランスが追いつき、延長前半9分にトレゲゼの Gold en Goal でフランスが優勝を。今回の伊仏両国メンバーの中には下記の通りの12人の EURO2000 経験者が含まれていた。

イタリア: デル・ピエロ(ユーベントス)、トッティ(ローマ)、ザンブロッタ(ユーベントス)、ネスタ(ローマ→AC ミラン)、
インザーギ(ユーベントス→ACミラン)
フランス: アンリ(アーセナル)、ビエラ(アーセナル→ユーベントス)、ジダン(ユーベントス→レアルマドリー)、    ウィルトール(ボルドー→リヨン)、テゥラム(パルマ→ユーベントス)、バルデス(モナコ→マルセイユ)、  トレゲゼ(モナコ→ユーベントス)

また所属クラブ別に見るとユーベントス8人とダントツだ。
ユーべントス : ブッフォン、カンナバーロ、デルピエロ、カモラネージ、ザンブロッタ ビエラ、トレゲゼ、テゥラム
ACミラン  : ガットゥーゾ、ジラルディーニョ、ネスタ、インザーギ、ピルロ
フィオレンティーナ : トーニ
ローマ  : デロッシ、トッティ、ペロッタ
インテル  : マテラッティ

イタリアが前に優勝した1982年スペイン大会のイタリア代表メンバーの所属先と比較すると面白い

ユーベントス    ゾフ、ジェンティーレ、カブリーニ、シレア、ロッシ、
ACミラン     バレジ、コロバティ、 
フィオレンティーナ ビエルコウッド、アントニョーニ、マッサーロ、グラティアーニ ジョバンニィ ガリ 
ローマ        コンティ 
インテル       ベルゴミ、マリーニ、ボルドン、オリアリ、アルトベリ

大会終了後、八百長疑惑で重い処分が噂されるユーベントス、AC ミラン、フィオレンティーナのメンバーはどうなるのだろう??

波乱の立ち上がり
イタリアのキックオフで始まったベルリンオリンピック競技場の決勝戦。開始34秒、アンリがカンナバーロと衝突し脳震盪を起こし試合が止まる。ドメネク監督は激しい口調で何か抗議しながらもトレゲゼのアップを指示する。カンナバロが肩をすくめて両手を広げて“何もしていないよ?”とアンリの周りに集まるフランス選手、医師団の近くに寄ってくるがそれを主将のジダンがにらむ。アンリは立ち上がるが一旦外に出るが結局倒れた3分後にピッチに戻る。5分には中央突破をして来たビエラをザンブロッタが足払いを掛けた形になりイエローが出される。激しいというか、タフな立ち上がりだ。そして7分、左からマルダが切れ込みペナルティーエリアに侵入、カンナバーロとザンブロッタが挟み込む様に寄るが最後は突進してきたマテラッティに当たり転倒。ザンブロッタ、カンナバーロの二人も両手を挙げてノーチャージをアピールするも主審はすかさずペナルティースポットを指す。レプレイではマテラッティは触れていない様に見えた。アルゼンチン人のエリゾンド主審は立ち上がりからのイタリアDF陣の早くてきつい当りに悪印象を持ったのかもしれない。 これをジダンがループ気味にGKブッフォンの動く反対側のゴール右上を狙うとボールはポストの下に当りそのまま下に落ちる。イタリア選手達がノーゴールを主張するがビデオではしっかりとボールの落下点がゴールラインを割っているのを捕らえていた。32年前の西ドイツでのワールドカップ決勝戦も先制点はオランダ、クライフが西ドイツのDFフォックツに倒されて得たPKをニースケンスが決めたもの。ただその時のPKは開始わずか1分。そして先制したオランダ逆転で破れている。今大会はどうだろう?ジダンはこの得点でブラジルのババ、ペレ、に次いで3人目の2大会のワールドカップ決勝戦でゴールを挙げた選手に名を連ねた。
ここからイタリアは目が醒めたのか?戦術を切り替えたのか、攻勢に出る。13分にはピルロのFKがフランスゴールを襲うがテゥラムがコーナーへ逃げる。この時間からセットプレーになると早くも194cmの長身DFマテラッティがヴァイタルエリアに上がってくる。イタリアは192cmのフィオレンティーナ所属のFW、トニのワントップ。マテラッティと2人でツインタワー(古いか?)を形成する。そして19分、今度はイタリアにゴールが生まれて同点とする。カモラネージがドリブルで右サイドを駆け上がりそれをアブダルがマークに入ると、カモラネージはアブダルにボールを当てて技ありでCKを得る。そのCKをカモラネージが蹴ろうとするが結局ピルロが蹴る事に。ピルロのCKはファーサイドにいたマテラッティの有頂天にぴったりと合い、そのままフランスゴールへ。8年前の地元ワールドカップの優勝時からフランスゴールを守るバルデスもなす術なく、同点ゴールが生まれた。ピルロの弾道も鋭かったが、競ったビエリよりもマテラッティの頭が完全に抜け出していた。マテラッティは1次リーグのチェコ戦でも先制ゴールを頭で決めている。これは負傷退場したネスタに替わって投入された直後のゴールであったが、それに次いで今大会2得点目。ネスタの負傷は前回の日韓大会の悪夢が甦ったが、今回はマテラッティが代役以上の活躍だ。フランスは同点にされた直後、ジダンのスルーを受けたアンリがあわやのチャンスを掴みかけるがザンブロッタがファールで止める。こうなると両者激しいプレーの応酬だ。ピルロのスローインの時にプレートは関係無い所でジダンがペロッタに倒されれば、今度はビエラがトッティを襲う。ビエラ、アンリとボールが渡り、リベリが受けるとマテラッティが足を払う。26分にはピルロのCKを再びマテラッティの高さが捉えるがその前にビエリを押したとホイッスルが鳴る。34分、35分にはトーニが立て続けに好機を逃す。34分はワンツーで抜けて放ったシュートはバルデスがコーナーへ逃れ、そこからのピルロの精度の高いCKにドンピシャで合わせるがクロスバーを叩く。ここでも高さでテゥラムを完全に凌いでいた。しかし、これ以外はゴール前での目立った攻防よりも中盤での激しい当たりが目に付く膠着状態に陥り1966年イングランド大会の決勝戦以来立ち上がり19分で2ゴールが決った決勝戦はその後落ち着いたものになってしまった。ゴール枠を捕らえたシュートはお互い2本ずつであった。
フランスはドメネク監督がここしばらく採用しているトレゲゼを外し、アンリをワントップに据え、その後ろをジダン、左にマルダ、右にリベリが両翼いっぱいに広がりサイドを抉る布陣であるが、イタリアはDF陣、ザンブロッタ、カンナバーロ、が守備で頑張り、マテラッティがセットプレーで高さの脅威を見せ、グロッソがサイド攻撃をしかけるのでフランスはボールが前に出なくなってしまった。一方のイタリアはこの試合もトーニのワントップだがトッティにはマケレレ、ビエラがしっかりとマークにつくのでイタリアもセットプレー以外ではチャンスがなかなか掴めない。 後半、両監督はどんな指示を選手に与え、どういう戦術を練ってくるのだろう? それにしても暑い、蒸し暑い熱帯夜だ。日本は….

あぁ 終わった

2006-07-12 | FIFA World Cup
日本時間の7月10日早朝に第18回 FIFA World Cup がイタリアの優勝で終了した。ジダンの退場そして翌日の大会MVP受賞発表もあり、まだまだ話題は尽きなさそうだ。史上稀に見ぬ順当な結果となった今大会。世界の人々はまだこの大会の余韻に浸り続けたいのだろう。私もその一人だが。 しかし私はまだ決勝戦のビデオを見ていないのです。10日月曜、11日火曜とビール好きの家内の晩酌に付き合い続けそれどころではないのです。こんなの自分の人生で初めてです。思えば、自宅でワールドカップ決勝戦をテレビ観戦するのは4大会、16年ぶり。商用が重なり自宅に居なかったのです。と言うことは結婚以来初めてワールドカップの決勝戦を自宅でテレビ観戦したことに。あぁ今夜こそテレビの前に辿り着ける事を......

モチベーションの差で開催国が3位

2006-07-10 | FIFA World Cup
ワールドカップでは3位決定戦というのは五輪に比較するとかなり異なったものがある。前者は既に “ Semi-Finalist “ の称号が入手済みで後者は“銅メダル”と言う報奨が待っている。ワールドカップではこの試合を “ Consolation Match :慰めの試合 “ と呼ばれる事もある。だがその Consolation Match ( Race ) でもとんでもないハプニングも起こる。1984年ロス五輪水泳競技男子400m自由形。アメリカの George=DiCarlo が3分51秒 23の五輪新記録で優勝を収めた。ところがこのレースの数分後に行われた 9位- 16位決定レース、 Consolation Race で西ドイツの Thomas Fahrner が DiCarlo の記録を上回る3分50秒91の記録を出してしまったのだ。まぁもっと言えばこの五輪、ソ連、東ドイツ、東欧諸国といった東側陣営がそろってボイコットし、3分48秒32の世界記録保持者、ソ連のサルニコフが出場していなかったと言う事もこの様な混戦を招いたのだろうが。だがサッカーの様な球技種目ではこの様な事は起こらない。従ってワールドカップでの3位決定戦は準決勝で力を使い果たした後、どれだけ精神的、体力的に残ったもの振り絞って試合に臨めるかが勝敗を決める。1982、1986年大会フランスは連続で3位決定戦に臨む事になったが当時の中心選手プラティニ、ジレス、ロシュトーは両大会とも試合に出場しなかった。(それでも1986年メキシコ大会はベルギーを延長で 4-2 と破ったが。)フランスはこういうことがある。1978年大会も1次リーグでイタリア、アルゼンチンに連敗し2次リーグ進出の可能性が無くなったハンガリー戦では第三GKドロシーが先発し、ラコンブ、ミシェル、バティストン、プラティニ(後半から出場)がスタメンを外れた。(それでも 3-1 で勝利 )この試合はフランスがユニフォームを間違って準備し近所のスポーツ用品店から急遽借りたもので試合をしたというワールドカップ史上屈指の珍試合であったが、もし連敗なければこうもならなかったのではなかったか?? 
3位決定戦が行われたシュツッツガルトはドイツ代表クリンスマン監督の地元でもある。かつてシュツッツガルト・キッカーズというチームに所属し、その後 VfB Stuttgart, Inter Milan, Tottenham Hotspur Bayern München と世界のトップチームを渡り歩くようになった。 クリンスマン監督の両親は今でもシュツッツガルトでパン屋を経営していると言う。そして話題になったオリバー=カーンの起用に就いてケプケGKコーチ、そしてレーマンまでもが肯定的な発言をして話題を呼んだ。クリンスマン監督が現役時代に既にカーンは代表入りしていた。1994年のワールドカップアメリカ大会では第三GKとして当時カールスルーエに所属していたカーンは代表入りしていた。両者はその後1996年欧州選手権イングランド大会、1998年ワールドカップフランス大会と共に代表メンバー入りをするがクリンスマンはエースストライカーであったが、GKはケプケがレギュラーを張り、カーンが代表のレギュラーを勝ち取ったのは2000年の欧州選手権からでその時はクリンスマンも代表から引退していた。ただローター=マテウスはまだ代表入りしていたのだ。一方のレーマンもワールドカップフランス大会には第三GKとしてメンバー入りし、大会後ケプケが代表引退をした後に使われる様になったがカーンの方が2000年欧州選手権、2002年ワールドカップ、2004年欧州選手権に渡ってレギュラーとして使われていた。準々決勝のアルゼンチン戦ではPK戦が終わった直後にレーマンがカーンの所に飛んで行ったシーンが印象的だった。 それからドイツはクローゼの大会得点王がかかっている。既に5得点を挙げており3得点で2位タイ同僚のポドルスキーとフランスのアンリの追撃に対して“安全圏”に入る事が出来るのでこの試合、彼に得点を取らせるという目的もある。90年大会の3位決定戦では得点王争いの渦中にいたイタリアのスキラッチに普段は蹴らさないPKを彼に蹴らして得点王を手中に収めさせる事が出来た。クローゼはあと1点取ればクリンスマン監督の持つワールドカップ通算11得点に並び、これはゲルハルト=ミュラーの14点に続いてドイツでは歴代2位タイとなり世界歴代ではロナウド(15)、ミュラー(14)フォンテーヌ(13)に次いで歴代4位タイ(クリンスマン、コチシュが11得点)となる。
そして何より開催国。地元からの大きな後押しがある。ホスト国が3位になったのは1962年チリ、1990年イタリア。そして破れたのは前回の韓国だけだ。一方のポルトガルはどうだろう?恐らくフィーゴの代表最終戦の花道を、としかモチベーションを掻き立てる理由が無かったのではないか?両国の直接対戦はこれまで14試合あり、ドイツの6勝5敗3分。得点はドイツ18、ポルトガル13。ワールドカップでの対決は無いが、欧州選手権ではポルトガルの1勝( 2000年 3-0 ) 1分 ( 1984年 0-0 ) だ。 
ポルトガルのスタメンにはフィーゴの姿は無かった。準決勝で負傷退場したミゲウに替わって投入されたP.フェレイラがそのままスタメンに入り、痛恨のPKを献上し、累積警告で出場停止となったRカルバーリョの替わりにリカルド=コスタ。そしてフィーゴがスタメンから外れFW登録のシモン=サブロッサが起用された。一方の地元ドイツはオリバー=カーンが遂に登場。DFにはヤンセン、2000年欧州選手権のポルトガル戦でプレーしたベテランのノボトニーが起用され、中盤には出場停止空けのフリンクスと準決勝では途中出場だったシュバインシュタイガーがスタメンに。そしてバラック(2000年ポルトガル戦では後半から出場)が怪我の為ユニフォーム姿では現れなかった。もし決勝戦に進んでいたならあと1日あったこともあり無理をして出ていたかも。
前半は序盤は縦横の早い動きでドイツが主導権を。ロングパスを起用するドイツに対してショートパスを繋ぐポルトガルと特色の出た立ち上がり。しかし13分にCKを得ると以降はショートパスをワンタッチで回すポルトガルが主導権を。14分にはスルーを受けたパウレタがフリーで撃つがカーンが好セーブ。観衆はカーンがボールを受ける度に大歓声を送る。しかし、ロングパスからチャンスを掴むドイツがシュバインシュタイガーやクローゼがミドルを放つがポルトガルGKリカルドが“俺もGKだ”とばかりに好セーブを連発。 前半はシュート数ドイツ7に対しポルトガル4、しかしボール占有率ではポルトガル57%に対してドイツは 43%であった。 そしてゴール枠を捉えたシュート数ではポルトガル3、ドイツ2であった。それだけドイツのシュートはミドル、ロングが多く、ポルトガルは相手DFを崩してのシュートであったということだ。 後半にはいるとポルトガルがディナモモスクワ所属のMFコスチーニャに替えてベンフィカリスボンのプティを投入した。しかし先制点はドイツ。56分シュバインシュタイガーがミドルを叩き込む。今大会初ゴールとは以外だったが、彼には大会前の試合で加地に不用意な反則タックルを食らわして怪我をさせた恨みがある。おかげで日本は苦戦をする羽目に。先制から5分後、今度はシュバインシュタイガーの低くて早いFKがポルトガルDFプティの足にあたりそのままゴールイン。これでポルトガルの勝利は非常に難しくなった。65分にはクローゼが下がりベテラン、ノイビルが投入された。クローゼのワールドカップ通算11得点目は次回南アフリカ大会以降に持ち越しとなった。69分にはヌーニョ=ゴメスが投入され、パウレタとの2トップに。この2人は2000年欧州選手権のドイツ戦で出場した2人だ。そして75分にはパウレタに替わってフィーゴが登場した。しかしポルトガルが“躍進”を世界に見せた EURO2000からの生き残り3人がこの試合では揃わなかった。前線にN.ゴメス、パウレタと的が2枚になったと思ったのだが。ドイツはゴール前に選手を集めてポルトガルのラストパスを遮断する。シュートに持ち込んでもカーンが待っている。78分、再びいや三度シュバインシュタイガーの強烈なミドルがポルトガルGKペレイラを破りリードを3点とする。そして地元 VfB Stuttgart 所属のヒツルスペルガーと御役目御免の交替に。ドイツはポドルスキー、シュバインシュタイガーが21歳。他にもDFフート(チェルシー)、長身DF196cmメテルザッカー(ハノーファー)が21歳。DFヤンセン(ボルシアMG)が20歳。FWハンケ(ボルフスブルグ)、DFラーム(バイエルン)、MFオドンコー(ドルトムント)が22歳と若い選手が多くいて次の南アフリカ大会も期待できる。一方日本は….. 終了3分前にフィーゴからの鮮やかなクロスをNゴメスがダイビングヘッドでドイツゴールネットを揺らし一矢報いる。さすがのカーンもこれだけは止められなかった。そしてタイムアップ。4年前のトルコ対韓国の様に試合後両選手が肩を組んで繰り歩く様なシーンは見られなかったが、ほぼ全選手が満足そうな表情で表彰式を迎えた。そして日本サッカー界に歴史的な1頁が。この試合の主審に上川徹氏がそして副審に広嶋禎数氏と韓国の金大英氏が担当。3位決定戦に日本人審判が登場したので次は代表選手だ?? 
オリバー=カーンの登場、N.ゴメスのゴール、日本人審判の起用、そしてフィーゴを始めベテラン選手の出場、そして観客席にはミハエル=シュマッハーが居て私にとっては非常に印象的な試合であった。 さぁ残りは決勝戦。でももうすぐ終わるのかぁ……

ポルトガル 3度目の正直なるか?

2006-07-06 | FIFA World Cup
現地時間の7月4日、ドルトムントではついにドイツ代表がイタリアの軍門に屈し、ホスト国優勝の夢は潰えた。あと2分持ちこたえられれば得意のPK戦に持ち込めたのだが。むしろ延長戦に入って決定機が多かったのはドイツ。これを決めておればと言ったほうが的確かもしれない。 決勝戦でイタリアと対戦するのはフランスがポルトガルか?それが翌朝(現地時間午後9時)に決る。いよいよ今回のワールドカップも終わるのかぁ….

何故ポルトガルなのだろう? 
ここ数年、日本ではポルトガル人気が席圧しているが、(ポルトガルファンの方にはごめんなさい)私は何故ポルトガルの人気がこれほど高いのか不思議だ。まさかみなキリシタンでもあるまいし?(この意味わかりますか?)
ポルトガル株が上昇したのは2000年の欧州選手権でベスト4に進出して以来だ。そして翌年のワールドカップ予選ではオランダを破って日韓大会に出場を決めた。そしてワールドカップ本大会では韓国に“疑惑の”判定で敗れ、決勝トーナメント進出はならなかった。当時、ポルトガルの敗退はセンセーショナルに報道されたがポルトガルがワールドカップ本大会に進出したのは今大会を入れてわずか4大会のみ( 1966, 1986, 2002, 2006 )。この数字は今大会、ベスト8以上の国のどこよりも少ない(ウクライナは除く)。それは今大会、欧州大陸予選で敗れたルーマニア(7回)、ベルギー(11回)スコットランド(8回)との比較を考えて頂きたい。確かに1966年大会は1次リーグでブラジルを破るなど、3位に輝いた。これは大会9得点(うち4得点は伝説の北朝鮮戦)を叩き出したエウゼビオの得点力に寄る所が大きく、もし彼が大会を通して絶好調で無ければこういう結果は残せなかっただろう。事実4年後のメキシコワールドカップ予選ではホームでルーマニアを 3-0 で破ったのみでギリシア、スイスから勝星を上げられず最下位に終わってしまった。 2000年の欧州選手権は初戦のイングランド戦では開始18分で2失点を喫するスタート。しかし22分にフィーゴのミドルシュートで1点を返すと37分ジョアン=ピント、59分ヌーニョ=ゴメスと連続ゴールでイングランドを沈めた。この試合の立役者はいわゆる“ゴールデンエイジ”世代であった。この欧州選手権はインターネット時代が最加速した時代で UEFA はホームページで大会期間中に各試合の予想、詳細、総評を写真付き、5ヶ国語(英、独、仏、西、葡)で配信。世界中のサッカーファンをどの大会よりも惹きつける事が出来た。日本でも初出場を収めたワールドカップフランス大会の2年後と言う事で数多くのサッカーファンが生まれ、そして2年後に迫った自国開催のワールドカップに向けて大いに注目をされていた大会であった。そしてポルトガルの所属した Group Aでは“大国”イングランド、ドイツが枕を並べて討ち死した事が更に“彗星の如く現れた”ポルトガルの快進撃の印象を増長させた。私はこの時何故か??サッカー人気に市民権が与えられていなかったオーストラリアに出張をしており、テレビでは結果を伝えるだけで、インターネットカフェで毎日情報を収集していた。この大会以降日本のスポーツ用品店等でもポルトガルのレプリカが見られる様になった。

フランス戦へかける思い
イングランドを逆転で破った後はゲオルカ=ハジ率いるルーマニアを 1-0 で破りグループ勝ち抜けを決め、メンバーを落として臨んだドイツ戦もセルジオ=コンセイソンの3ゴールで一蹴。準々決勝のトルコ戦はヌーニョ=ゴメスの2ゴールで快勝し、準決勝のフランス戦を迎えた。 ポルトガルは欧州選手権ではチェコ(またはチェコスロヴァキア)の様に好成績を残す。1984年フランスで行われた欧州選手権も予選でソ連、ポーランド、フィンランドを破って本大会に進出。欧州選手権で初めてベスト8に進出(当時は開催国を含めて8カ国が本大会へ)するとグループリーグではドイツを押さえて準決勝に。そこでミッシェル=プラティニ将軍率いる地元フランスと延長戦の末 2-3 と惜敗した。しかし、この代表チームの久々の快進撃に国民は大いに期待を寄せ、翌年のワールドカップ予選でもスウェーデン、チェコスロヴァキアを抑えてドイツと共に本大会に20年ぶりの進出を決めた。ワールドカップでは初戦のイングランドを 1-0 で破ったが、続くポーランド 0-1 モロッコ1-3 と連敗し20年ぶりの決勝トーナメントには届かず、低迷期に戻ってしまう。それを脱したのがベスト8に進んだ1996年欧州選手権であり、2000年の欧州選手権であった。その原動力となったのが先述した1989, 1991 FIFA U-20 で連覇したメンバー、いわゆる黄金世代だった。 この大会の“予選”となったUEFA U-20 では両年共にソ連の後塵を拝したが、本大会ではジョアン=ピント、フィーゴ、ジョルジ=コスタ、ルイ=コスタ、カプリッチョら後に欧州選手権で活躍する選手達がいた。2000年大会の準決勝には1984年大会、同じ準決勝で敗れた相手への雪辱を誓って臨んだ。前半、ヌーニョ=ゴメスの大会4得点目のゴールで先制するが後半はアンリのゴールで世界王者のフランスが追いつく。試合はVゴール方式の延長戦に入った117分、混戦からフランス、ビルトールが放ったシュートがカバーに入ったポルトガルDFアベル=ザビエルに当たる。一旦はCKと見えたが、主審が副審と協議しフランスにPKを与える。この判定に激興したポルトガル選手達が審判団を取り囲む。しかし判定は替わらずヌーニョ=ゴメスが退場処分に。そしてジダンが決勝のPKを落ち着いて決め、フランスはポルトガルを返り討ちに葬った。この大会のメンバーからポルトガルはフィーゴ、パウレタ、そしてヌーニョ=ゴメスが今大会も残っている。一方のフランスもジダンを初めGKバルデス、MFヴィエラ、DFテゥラム、FWトレゲゼ、アンリの6名が残っている。このメンバーでブラジルを2度ワールドカップで破ったのだ。その両国9名の選手の中でN.ゴメス以外の選手達がスタメン名を連ねると考えられる。個人的にはN.ゴメスにリベンジの機会を与えてくれないかと思うが、今大会はまだメキシコ戦途中出場で20分程度プレーしたのみだ。前回の日韓大会まではN.ゴメスが不動のワントップであったが、2004年の欧州選手権ではパウレタがそのポジションに。それでも欧州選手権ではN.ゴメスがパウレタに替わって投入される試合が何試合かあった。今大会はパウレタが好調なのでN.ゴメスも出番が廻ってこない。それでも2004年大会1次リーグのギリシア戦の様にリードを許している時間ではN.ゴメス、パウレタの2トップの布陣もあるだろう。そして更に好調なのがフィーゴ、デコ、CロナウドのMF陣。ただフィーゴが90分を通してどれだけ動けるか?ただ守備的MFプティが出場停止なのは痛い。グループリーグのイラン戦の様にディナモ=モスクワのMFコスチーニャが代役を果たせるか?不動の4バック、N.バレンチノ、R.カルバーリョ、Fメイラそしてミゲウ。しかしバレンチ、カルバーリョは警告を1枚貰っているの。(決勝戦はだれもがプレーしたいしなぁ?) 迎え撃つフランスはおそらく決勝トーナメントから不動のイレブンだろう。ワントップのアーセナルFWアンリはデコを見て Champions League 決勝を思い出すか?2列目は真中にジダン。左にマルダ、右にリベリー。ボランチにはヴィエラ、マケレレ、4バックは左からアビダル、ギャラス、テゥラム、サニョール そしてGKバルデス。鍵を握るのはヴィエラの出来。彼が最高のパフォーマンスを見せれば攻守にポルトガルを圧倒できる事だろう。心配なのはスタミナか? GKバルデスは34歳。フィールドプレーヤー10人の平均年齢は 28.8歳。今大会終了後何人の選手が代表に残るだろう? それにしてもフランスはアフリカ系の選手が増えた。1978年大会ではDFトレゾールくらいだったのだが。アフリカ系の選手との融合、融和こそ20世紀末からのフランス進撃の要因だ。1966年イングランド大会でポルトガルが3位になったその立役者エウゼビオはモザンビーク系の選手。今後更に欧州とアフリカ系の選手との関係は深く深くなるだろう。 だから“ SAY NO TO RACISM ”なのだろう。だったらアジア系蔑視もやめてくれよ。だからと言ってアジア枠を据え置いてくれと言う訳では無いが…… あぁもうすぐ大会が終わってしまう。 

ホスト国 ドイツは最大の難関に?

2006-07-05 | FIFA World Cup
6月9日に開幕した FIFA World Cup 2006 も残すところあと4試合。これまで、観戦記ばかりを綴って来て“ちっとも試合の予想や展望が見られない。”とのお叱りを受けておりますが(誰も何も言っていないか?)、今回は数時間後に迫った準決勝のドイツ対イタリア戦の展望を下記に述べます。(誰も期待していないか?)

ドイツはイタリアが苦手??
今年欧州を中心に世界各地で16試合の代表A マッチが行なわれた3月1日、フィレンツェでドイツはイタリアに 1-4 で破れ対イタリア戦の直接対決成績が8勝13敗8分けとなった。通算得点はイタリアが42、ドイツが33だ。この前の対戦は2003年8月にシュツッツガルトで行なわれたがこの時もドイツは0-1 で敗れている。 そしてイタリアはワールドカップ、欧州選手権でドイツに負けたことが無い。両者はこの舞台で過去6回対戦しているがイタリアの2勝4分けだ。その2勝はいずれもワールドカップ。1970年メキシコ大会の準決勝戦とアズーリが44年ぶりの栄冠を手にした1982年スペイン大会の決勝戦だ。そればかりか、ドイツは1939年11月26日にベルリンで 2-1 とドイツが勝って以来1977年10月にベルリンで2-1で勝利を上げるまで、38年間7試合の直接対決でイタリアに勝ったことが無かった。(2分5敗) そして昨シーズンの UEFA Champions League で Bayern Munchen が AC Milan に完敗した事を憶えて方も多いだろう。ドイツ代表は今回のイタリア戦の試合会場となるドルトムントのベストファーレン競技場では代表Aマッチ13試合で12勝1分と負け知らずだが、イタリアを迎えたことは無い。参考までに 2002年の Champions League でもここをホームとする Borussia Dortmund は AC Milan に 0-1 で敗れている。過去のデータは当てにはならないと思うが、私はこの試合もイタリア優位と考える。 

選手の起用
1982年スペイン大会以来の優勝のチャンスがあるイタリア。当時を振り返ると、1次リーグは3分け( 0-0 Poland, 1-1 Peru, 1-1 Cameroon ) でグループ2位。同じ勝点3で並んだ Cameroon を総得点で1上回り2次リーグへ文字通り薄氷を踏む思いで進出を決めた。そこからアルゼンチン ( 2-1 ) ブラジル (3-2 ) ポーランド ( 2-0 ) 西ドイツ ( 3-1 ) と強豪を撃破しタイトルと手にしたが、その要因はロッシの復活、GKゾフのキャプテンシーが挙げられているが、もう1つは日程であった。 この大会から出場枠が24に拡大され、4カ国ずつ6組に組み分けられ上位2カ国ずつ12カ国が2次リーグに進出。そして3カ国ずつ4つのグループに分けられ最上位が準決勝に進出と言うフォーマットであった。イタリアが入ったC組にはアルゼンチン、ブラジルの2強が入っていた。2次リーグの日程は“消化試合”を無くす為に、初戦で敗れた国が連戦をする事になっていた。イタリアは2次リーグ初戦のアルゼンチンを破り、次のブラジル戦まで中5日の休みがあった。一方、ジーコ、ソクラテスら黄金のカルテットを擁したブラジルは中2日しかなかった。 このフォーマットが適用されたのはこのスペイン大会のみで次のメキシコ大会から1次リーグ以降はトーナメント方式となっているので、日程による不公平は無くなった。
ワールドカップは約1ヶ月の長丁場、トーナメントが進むほどに力が均衡した相手との対戦となり、選手達のコンディションが大きく左右する。 今大会は32年前と異なり豪雨の試合が皆無だ。むしろ高温が選手達を悩ませている。そういう意味では、ドイツはほぼメンバーを固定し、勝ちぬけが決った後の1次リーグ最後のエクアドル戦もベストメンバーで臨んだのに対してイタリアのリッピ監督は毎試合交替枠3名をフルに使い、第二、第三GK以外のフィールド選手21名を全員起用。フル出場はGKブフォン、CBのカンナバーロにMFペッロッタ。ただこれにはアメリカ戦ではデロッシが退場となり、チェコ戦では開始17分で守備の要ネスタが負傷でベンチに下がり、その代役マテラッティが交替出場したチェコ戦では先制ゴールを上げたが続くオーストラリラ戦で退場になった事もある。ローテーションを組んでいる訳では無いだろうが、選手の体力温存も考えての事であろうが、ほぼ全員がワールドカップでのレギュラークラスの選手達ばかり揃っているからこそ出来る起用法だ。CBカンナバーロのパートナーは出場停止明けのマテラッティか?それともバルザーリか? 一方の攻撃陣、リッピ監督が信頼を置くトッティ王子は準々決勝のウクライナ戦でフル出場しトップコンディションを取り戻しつつある。FWのトーニはウクライナ戦の2ゴールでようやく面目躍如であるが、もう1人のジラルディーニョはアメリカ戦でゴールを挙げたが以降は今ひとつ。デルピエーロも折角の先発出場を果たしたオーストラリア戦では目立った動きは出来ずにトッティに替えられ、ウクライナ戦は出番なし。ドイツ戦もトーニのワントップにペッロッタ、トッティ、カモラネージを並べる布陣か?しかし、そろそろインザーギを先発で使ってほしいなぁ?そうすれば、2トップ(トーニ、ジラルディーニョ)の下にトッティ(またはデルピエロ?)を置いて、チェコ戦の様にペッロッタ、ピルロ、ガットゥーゾを並べるかも? 

ドイツのスタメンは
ドイツはこれまでと同じメンバーで臨んでくるだろう。しかし、ここでフリンクスが準々決勝戦の試合終了後にアルゼンチンのFWクルスを殴っている映像が発覚してしまい出場停止に。これはイタリアの仕業か??代役は長身194cmのヴェルダーブレーメンのMFボロウスキーが上げられるが、もし先制を許せばオドンコーと替わるかも?ドイツの快進撃はバラックのゲームメークが上げられるが、シュヴァインスタイガー、シュナイダーのサイド攻撃もその要因だ。対峙するグロッソ、サンブロッタを打ち破れるだろうか?ドイツの2人のにとっての advantage はイタリアの両サイドバックが警告を一つずつ決勝トーナメントに入って貰っている事だ。そしてクローゼ。今大会は5得点を挙げているが、そのうち4得点は開幕戦のコスタリカと共に決勝トーナメント進出が決った後のエクアドル戦で2得点ずつ。アルゼンチン戦で起死回生の同点ゴールを決めたが、果たして屈強なイタリアDF陣を破れるか?3月、フィレンツェでのイタリア戦はクローゼ、バラックのラインは機能しなかったが。 
ドイツが勝つ最善の方法は、PK戦に持ち込む事だろう。イングランドと異なりドイツはPK戦に強い。ワールドカップ史上初めてとなったスペイン大会での準決勝のフランス戦、以来欧州選手権を含めて5試合 (ワールドカップ メキシコ大会準々決勝 メキシコ戦、イタリア大会準決勝 イングランド戦、欧州選手権イングランド大会準決勝 イングランド戦 今大会のアルゼンチン戦)負けが無い。 アルゼンチン戦もPKに持ち込めなかったら勝負は判らなかっただろう。 準決勝のイタリア戦こそ地元ドイツがワールドカップを掲げる為の最大の難所となるであろう。

6月21日 イラ~ン ! イラン !

2006-07-03 | FIFA World Cup
この日の観戦予定、アンゴラ対イラン戦は午後4時。しかしゆっくりもしていられない。午前9時にここのお得意さんとのアポがある。仕事で来ている訳では無いので会う筋合いは無いのだが、ここの試合のチケットが取れたことは半年ほど前の出張での訪問時で伝えていた。その時には“家族で来るから、お邪魔していいか?”と言ってしまった。“あなたの家族ならいつでも歓迎だ。試合後は家族を夕食にご招待する”と言ってくれ、楽しみにしておられたので、せめて挨拶にでもと思い、単独で訪問する事に。 顧客の工場は中央駅から半時間ばかり車で行った郊外にある。ライプツィヒは飛行場が小さいらしく、他の街からここを訪れる人は中央駅から入ってくる。 顧客の工場に行くと、この顧客の工場の責任者 Mr.S の仕事部屋に通された。私はこのドイツ滞在中にずっと来ていた日本代表のレプリカユニフォームのままここを訪れた。Mr.Sは私のユニフォームを指差し“おとといのクロアチア戦は残念だった。オーストラリア戦も充分な勝機はあったのに”とサッカーの話から入る。彼はハンブルグ在住で毎週月曜日にライプツィヒまで車で通い、週末には家族の待つ。お気に入りのクラブチームはヴェルダー・ブレーメンだ。奥寺がいた時代や 1992-93 でリーグ王者に輝いた事も良く知っている。最近は選手達が高給嗜好に走っている事に食傷気味だ。“家族はどうした?”との問に。“家内はあまりサッカーに興味が無く、子供もまだ幼くてママが来ないと行かないと言われました。”と説明。“息子はいくつだ?”“今は10歳。11月で11歳になります。”“微妙な歳だ。そのうちガールフレンドの都合次第になるよ。”と笑って言ってくれた。最近も仕事の景気が良好な事を聞いて安心する。そして機械が稼動している現場に。顔見知りのエンジニアーも私のユニフォーム姿を指差し。“オーストラリア戦の最後の10分はどうしたんだい?”と。機械の稼動状況をチェックする。この滞在中,川口がクロアチア戦でPKを止める直前に続く緊張の瞬間だ。ここで機械が動かないなんてなると、立場上ワールドカップどころではなくなる。しかし、稼動は良好で従業員もかなり機械を使いこなしていると。現場の方では注文が多品種化しているので、機械をもう少し増やしたいらしい。ひと通り機械の動きを見て現場を後にした。何人かの顔見知りの従業員には近いうちの再訪問を約束する。帰りにMr.Sのところに挨拶をと立ち寄ると、ここのスタッフがホテルまで送ってくれる事に。 彼はMr.Sと違い、この近辺で生まれ育ったとの事。しかし、今大会のドイツの快進撃に対しては他のドイツ人とは少し違った反応であった。そこで“バラックは元々旧東ドイツ地区で生まれ育ったらしいね。”と話すと “そうだ。そうだ。”とこれまでと違った反応が。そして“前のワールドカップでは西ドイツに勝ったんだ”“知っているよ。シュパールヴァッサーだろ?”と言うと、笑顔が返ってくる。そしてモントリオール五輪でポーランドを破って金メダルを勝ち取った事や、モスクワ五輪では決勝でチェコスロヴァキアに敗れての銀メダルだったが準決勝は地元ソ連を 1-0 で破った事もこちらから話した。共産時代はスポーツもプロパガンダとして大きく利用され、サッカーも当然例外ではなく1984年にはイランイラク戦争の戦火の中イランに遠征した事もある。だが、それよりもライプツィヒとドイツサッカーの関係で大切な事は戦前の1900年、ドイツサッカー連盟が発足した時、その本部がここライプツィヒに設けられた事だ。そして初代のドイツ選手権王者が 決勝戦でDFC Praga を 7-2 で降したVfb Leipzig であった。 大会会場誘致もその歴史的背景が大きかったらしい。しかし、今ここをホームとするクラブチーム, Sachsen Leipzig, HallescherFussball Klub eVは4部リーグにあたる Ober Liga に所属している。東西は統一されたが、地域の経済格差がまだ埋まらない事を再確認させられる。色々な話が弾んで車はホテル前に着いた。車を降りる前に握手を交わす。“今度はいつ来てくれますか?” Wir sehr uns wider, Ich hoffe “と応え、” Vielen Spass !! (楽しんでください)” と言う言葉を残して車は還って行った。部屋に戻り、前日安売り専門のスーパーで買ったビスケットを齧りながら、パソコンに向かっていると外からにぎやかな音楽が聞こえて来た。窓辺によると観光バスが数台止まっておりそこから、アフリカ系と思しき人々がリーダー格の奏でる打楽器やパーカッションに乗って陽気に歌っている。今朝、ジョギング時に100M程離れた Marriot Hotel に大会当局が準備したと思われるバスが止まっており、玄関付近が厳重に警備され、しかも玄関にはアンゴラ国旗が掲げられていたのでそこにアンゴラ代表選手団が泊まっている事が判った。 アフリカ大陸の真ん中からやや南部の大西洋に面するアンゴラは1885年のベルリン会議でようやくポルトガル領と決められたが1950年代後半からアンゴラ解放人民運動 ( MPLA ) アンゴラ国民解放戦線 ( FNLA ) アンゴラ全面独立国民連合( UNITA ) が解放闘争を開始し75年11月 MPLA が社会主義国家として独立を宣言。そして内戦が起こり1991年ようやく和平合意がなされ97年4月に統一政権が樹立され共和国となった。その独立宣言後22年後、ようやく真の独立を得た訳だがその背景には当時の東西冷戦による大国の都合で小国が犠牲になったという実例の一つでもあった。今回、アフリカ大陸代表5カ国はチュニジアを除いて全てギニア湾から大西洋側に面した国で、カメルーン、ナイジェリアと言ったアフリカの列強も大陸の東側に位置している。それは大西洋側の国々は欧州への航路が近いことから15世紀に始まったポルトガルの奴隷政策によるもので、それは17~18世紀に全盛を向かえ更に19世紀始めまでイギリス、オランダ、フランス等の欧州の商人達も参加して奴隷貿易に従事したと言う歴史的事象に寄与する。今でこそ旅客機の発達により空路さえ確保できれば欧州に渡ることが出来るがその前の時代からここの人々は欧州との悲しい影響があったのだ。 そしてエチオピア、タンザニア、ケニア、ソマリアと言った西側のアラビア海、インド洋に面する国々は陸上競技の中長距離が非常に強いがそれは国土が高地にあることに並んで欧州からの影響がどれだけあったかという事も関係が有ると思う。 午後2時過ぎにホテルから競技場に向かう。会場の Leipzig Zenttral Stadion は徒歩で行ける距離だ。ホテルの直ぐ前の通りでアンゴラのマフラーや大きな旗を配っているトラックと遭遇した。私もそこでマフラーを貰った。数十メートル進むと今度はイランのサポーター集団がいた。彼らに声を掛ける“ダエイは今日スタメンか?”。“スタメンだ”。“ハシュミアン、カリミは?”。 “カリミは今日は出ない。” “何故?怪我でもしたのか?” “ポルトガル戦後にイヴァンコヴィッチ監督と言い合いをしたので出してもらえない。”との事。これで今大会はハシュミアン、カリミ、マハダヴィキア、ザンンディのブンデスリーガカルテットが揃うことは無くなった。カリミはポルトガル戦で65分にザンディに替えられた。それが気に入らなかったのかな?だが今のイランの武器は個々の能力。アジアでは抜きん出ていると思われるが、アジア大陸以外では個人の能力はそれほどではないかもしれない。しかし、ここで劇的に戦術理解が上がるとも考え難い。そこはブンデスリーガでもレギュラークラスの能力は貴重な戦力ではないか? 中央駅から大通り沿いを競技場に向かって歩くと目に付いたのはイランのサポーター達の方だ。ここドイツでもイラン系の移民は多い。それにイランは元々欧州系のペルシャ民族だ。1978年アルゼンチン大会で悲願のワールドカップ初出場を果たしたが、それは当時のパーレビ国王の資金的バックアップを元に10年以上の強化を続け、1968年からアジアカップ3連覇、1972年ミュンヘン、モントリオール五輪連続出場、1974年アジア大会優勝の積み重ねを経ての本大会出場であった。ワールドカップ後はイスラム革命が起こり王朝は倒れ強化されたサッカーもご破算になってしまったが90年代に入り北京アジア大会で優勝を納めたのをきっかけに、再び興隆を見せ始めフランス大会に出場を果たしたのは記憶に新しい。しかし、今大会は組み分けにやや恵まれずメキシコ、ポルトガルに連敗し1次リーグでの敗退を余儀なくされてしまった。特にメキシコ戦は同点に追いついた後、ミスから2点目を許したことが悔やまれる。 この日の相手、アンゴラはイランに勝てば同時刻にゲルゼンキルシェンにて行なわれるポルトガル対メキシコの結果次第では決勝トーナメントの可能性も残るの。したがってこの試合は消化試合ではない。イランもこういう状況下であるからこそ、勝利を目指して貰いたい、と思う。競技場に行く間、この旅行中文字通り制服代わりに着ていた日本代表のレプリカのおかでげ、色々な人が声を掛けてくる。特に私のレプリカは10番の NAKAMURA の名前が入ったもの。チェックのスカートをはいた Celtic のユニフォームを着たスコットランドからの二人組みに声を掛けられた。一緒に写真を撮る。“次こそスコットランドはワールドカップに来るぞ”と彼らは言う。 競技場が見えてくると、今度はセレソンのユニフォームを着たブラジル人がユニフォームを交換しようと寄ってくる。翌日はドルトムントに行き、日本対ブラジルを観戦するとの事。だったら明日交換すればいいのにと思うも、リュックサックから“交換用”の背番号なしのレプリカを差し出す。しかし、彼はそれが日本代表のデザインだとわかると喜んで交換を。そして写真も。後で確認するとそのレプリカは本物のNIKE 社製のシャツ。私の“交換用”はタイで買ったコピー商品。何だか悪いことをしたかな? そのままボディチェックのゲートに進むが、この日は誰も “ Need Ticket “ の類の事を書いた紙を掲げてチケットを求める人は皆無だ。反対に“ Ticket は要らないか?安くするぞ”と声が掛かる。もしイランが連敗していなければ状況は変わっていただろう。私も子供の分を持っていたのだが、これは子供の記念にしようと転売するのを諦めた。今考えれば、FIFA の公式ネットで転売すればよかったか?そうすれば Ticket そのものは残って、いくらかお金も戻ったかも。 ボディチェックのゲートを抜けてスタジアムに向かうが、その途中には広大な芝生が広がる。これも旧共産圏時代の名残だろう。競技場の近くにあるこういうスペースはポーランドでもチェコでも見た事がある。 そして入場門をくぐりぬけスタンドに、と思うがそこで止められた。 身分証明書を見せろと言われた。おそらく帽子をかぶり、マフラーをしたのでよく顔が見えなかったか?脱帽も命ぜられた。パスポートを見せ、照合が終わると直ぐに解放されたがなにやら私の名前とパスポート番号が控えられている。これで2試合連続でこういうことに遭遇したことに。運が良いのか悪いのか? この Zentral Stadion は掘り下げ式の競技場になっており、かつては10万人が収容出来た旧東ドイツ最大の競技場であった。 ワールドカップに向けてモダンに改装されたが収容観客数は半分以下の4万5千人になった。すり鉢上になった芝生の所々に昔の木製の観客席が残っている。 そして私はスタンド内の席に向かった……. 続く