Mr.コンティのRising JAPAN

マスコミの書かない&書きそうもない!スポーツ界の雑学・裏話を、サッカーを中心にコメントを掲載していきます。

6月21日 イラ~ン ! イラン !

2006-07-03 | FIFA World Cup
この日の観戦予定、アンゴラ対イラン戦は午後4時。しかしゆっくりもしていられない。午前9時にここのお得意さんとのアポがある。仕事で来ている訳では無いので会う筋合いは無いのだが、ここの試合のチケットが取れたことは半年ほど前の出張での訪問時で伝えていた。その時には“家族で来るから、お邪魔していいか?”と言ってしまった。“あなたの家族ならいつでも歓迎だ。試合後は家族を夕食にご招待する”と言ってくれ、楽しみにしておられたので、せめて挨拶にでもと思い、単独で訪問する事に。 顧客の工場は中央駅から半時間ばかり車で行った郊外にある。ライプツィヒは飛行場が小さいらしく、他の街からここを訪れる人は中央駅から入ってくる。 顧客の工場に行くと、この顧客の工場の責任者 Mr.S の仕事部屋に通された。私はこのドイツ滞在中にずっと来ていた日本代表のレプリカユニフォームのままここを訪れた。Mr.Sは私のユニフォームを指差し“おとといのクロアチア戦は残念だった。オーストラリア戦も充分な勝機はあったのに”とサッカーの話から入る。彼はハンブルグ在住で毎週月曜日にライプツィヒまで車で通い、週末には家族の待つ。お気に入りのクラブチームはヴェルダー・ブレーメンだ。奥寺がいた時代や 1992-93 でリーグ王者に輝いた事も良く知っている。最近は選手達が高給嗜好に走っている事に食傷気味だ。“家族はどうした?”との問に。“家内はあまりサッカーに興味が無く、子供もまだ幼くてママが来ないと行かないと言われました。”と説明。“息子はいくつだ?”“今は10歳。11月で11歳になります。”“微妙な歳だ。そのうちガールフレンドの都合次第になるよ。”と笑って言ってくれた。最近も仕事の景気が良好な事を聞いて安心する。そして機械が稼動している現場に。顔見知りのエンジニアーも私のユニフォーム姿を指差し。“オーストラリア戦の最後の10分はどうしたんだい?”と。機械の稼動状況をチェックする。この滞在中,川口がクロアチア戦でPKを止める直前に続く緊張の瞬間だ。ここで機械が動かないなんてなると、立場上ワールドカップどころではなくなる。しかし、稼動は良好で従業員もかなり機械を使いこなしていると。現場の方では注文が多品種化しているので、機械をもう少し増やしたいらしい。ひと通り機械の動きを見て現場を後にした。何人かの顔見知りの従業員には近いうちの再訪問を約束する。帰りにMr.Sのところに挨拶をと立ち寄ると、ここのスタッフがホテルまで送ってくれる事に。 彼はMr.Sと違い、この近辺で生まれ育ったとの事。しかし、今大会のドイツの快進撃に対しては他のドイツ人とは少し違った反応であった。そこで“バラックは元々旧東ドイツ地区で生まれ育ったらしいね。”と話すと “そうだ。そうだ。”とこれまでと違った反応が。そして“前のワールドカップでは西ドイツに勝ったんだ”“知っているよ。シュパールヴァッサーだろ?”と言うと、笑顔が返ってくる。そしてモントリオール五輪でポーランドを破って金メダルを勝ち取った事や、モスクワ五輪では決勝でチェコスロヴァキアに敗れての銀メダルだったが準決勝は地元ソ連を 1-0 で破った事もこちらから話した。共産時代はスポーツもプロパガンダとして大きく利用され、サッカーも当然例外ではなく1984年にはイランイラク戦争の戦火の中イランに遠征した事もある。だが、それよりもライプツィヒとドイツサッカーの関係で大切な事は戦前の1900年、ドイツサッカー連盟が発足した時、その本部がここライプツィヒに設けられた事だ。そして初代のドイツ選手権王者が 決勝戦でDFC Praga を 7-2 で降したVfb Leipzig であった。 大会会場誘致もその歴史的背景が大きかったらしい。しかし、今ここをホームとするクラブチーム, Sachsen Leipzig, HallescherFussball Klub eVは4部リーグにあたる Ober Liga に所属している。東西は統一されたが、地域の経済格差がまだ埋まらない事を再確認させられる。色々な話が弾んで車はホテル前に着いた。車を降りる前に握手を交わす。“今度はいつ来てくれますか?” Wir sehr uns wider, Ich hoffe “と応え、” Vielen Spass !! (楽しんでください)” と言う言葉を残して車は還って行った。部屋に戻り、前日安売り専門のスーパーで買ったビスケットを齧りながら、パソコンに向かっていると外からにぎやかな音楽が聞こえて来た。窓辺によると観光バスが数台止まっておりそこから、アフリカ系と思しき人々がリーダー格の奏でる打楽器やパーカッションに乗って陽気に歌っている。今朝、ジョギング時に100M程離れた Marriot Hotel に大会当局が準備したと思われるバスが止まっており、玄関付近が厳重に警備され、しかも玄関にはアンゴラ国旗が掲げられていたのでそこにアンゴラ代表選手団が泊まっている事が判った。 アフリカ大陸の真ん中からやや南部の大西洋に面するアンゴラは1885年のベルリン会議でようやくポルトガル領と決められたが1950年代後半からアンゴラ解放人民運動 ( MPLA ) アンゴラ国民解放戦線 ( FNLA ) アンゴラ全面独立国民連合( UNITA ) が解放闘争を開始し75年11月 MPLA が社会主義国家として独立を宣言。そして内戦が起こり1991年ようやく和平合意がなされ97年4月に統一政権が樹立され共和国となった。その独立宣言後22年後、ようやく真の独立を得た訳だがその背景には当時の東西冷戦による大国の都合で小国が犠牲になったという実例の一つでもあった。今回、アフリカ大陸代表5カ国はチュニジアを除いて全てギニア湾から大西洋側に面した国で、カメルーン、ナイジェリアと言ったアフリカの列強も大陸の東側に位置している。それは大西洋側の国々は欧州への航路が近いことから15世紀に始まったポルトガルの奴隷政策によるもので、それは17~18世紀に全盛を向かえ更に19世紀始めまでイギリス、オランダ、フランス等の欧州の商人達も参加して奴隷貿易に従事したと言う歴史的事象に寄与する。今でこそ旅客機の発達により空路さえ確保できれば欧州に渡ることが出来るがその前の時代からここの人々は欧州との悲しい影響があったのだ。 そしてエチオピア、タンザニア、ケニア、ソマリアと言った西側のアラビア海、インド洋に面する国々は陸上競技の中長距離が非常に強いがそれは国土が高地にあることに並んで欧州からの影響がどれだけあったかという事も関係が有ると思う。 午後2時過ぎにホテルから競技場に向かう。会場の Leipzig Zenttral Stadion は徒歩で行ける距離だ。ホテルの直ぐ前の通りでアンゴラのマフラーや大きな旗を配っているトラックと遭遇した。私もそこでマフラーを貰った。数十メートル進むと今度はイランのサポーター集団がいた。彼らに声を掛ける“ダエイは今日スタメンか?”。“スタメンだ”。“ハシュミアン、カリミは?”。 “カリミは今日は出ない。” “何故?怪我でもしたのか?” “ポルトガル戦後にイヴァンコヴィッチ監督と言い合いをしたので出してもらえない。”との事。これで今大会はハシュミアン、カリミ、マハダヴィキア、ザンンディのブンデスリーガカルテットが揃うことは無くなった。カリミはポルトガル戦で65分にザンディに替えられた。それが気に入らなかったのかな?だが今のイランの武器は個々の能力。アジアでは抜きん出ていると思われるが、アジア大陸以外では個人の能力はそれほどではないかもしれない。しかし、ここで劇的に戦術理解が上がるとも考え難い。そこはブンデスリーガでもレギュラークラスの能力は貴重な戦力ではないか? 中央駅から大通り沿いを競技場に向かって歩くと目に付いたのはイランのサポーター達の方だ。ここドイツでもイラン系の移民は多い。それにイランは元々欧州系のペルシャ民族だ。1978年アルゼンチン大会で悲願のワールドカップ初出場を果たしたが、それは当時のパーレビ国王の資金的バックアップを元に10年以上の強化を続け、1968年からアジアカップ3連覇、1972年ミュンヘン、モントリオール五輪連続出場、1974年アジア大会優勝の積み重ねを経ての本大会出場であった。ワールドカップ後はイスラム革命が起こり王朝は倒れ強化されたサッカーもご破算になってしまったが90年代に入り北京アジア大会で優勝を納めたのをきっかけに、再び興隆を見せ始めフランス大会に出場を果たしたのは記憶に新しい。しかし、今大会は組み分けにやや恵まれずメキシコ、ポルトガルに連敗し1次リーグでの敗退を余儀なくされてしまった。特にメキシコ戦は同点に追いついた後、ミスから2点目を許したことが悔やまれる。 この日の相手、アンゴラはイランに勝てば同時刻にゲルゼンキルシェンにて行なわれるポルトガル対メキシコの結果次第では決勝トーナメントの可能性も残るの。したがってこの試合は消化試合ではない。イランもこういう状況下であるからこそ、勝利を目指して貰いたい、と思う。競技場に行く間、この旅行中文字通り制服代わりに着ていた日本代表のレプリカのおかでげ、色々な人が声を掛けてくる。特に私のレプリカは10番の NAKAMURA の名前が入ったもの。チェックのスカートをはいた Celtic のユニフォームを着たスコットランドからの二人組みに声を掛けられた。一緒に写真を撮る。“次こそスコットランドはワールドカップに来るぞ”と彼らは言う。 競技場が見えてくると、今度はセレソンのユニフォームを着たブラジル人がユニフォームを交換しようと寄ってくる。翌日はドルトムントに行き、日本対ブラジルを観戦するとの事。だったら明日交換すればいいのにと思うも、リュックサックから“交換用”の背番号なしのレプリカを差し出す。しかし、彼はそれが日本代表のデザインだとわかると喜んで交換を。そして写真も。後で確認するとそのレプリカは本物のNIKE 社製のシャツ。私の“交換用”はタイで買ったコピー商品。何だか悪いことをしたかな? そのままボディチェックのゲートに進むが、この日は誰も “ Need Ticket “ の類の事を書いた紙を掲げてチケットを求める人は皆無だ。反対に“ Ticket は要らないか?安くするぞ”と声が掛かる。もしイランが連敗していなければ状況は変わっていただろう。私も子供の分を持っていたのだが、これは子供の記念にしようと転売するのを諦めた。今考えれば、FIFA の公式ネットで転売すればよかったか?そうすれば Ticket そのものは残って、いくらかお金も戻ったかも。 ボディチェックのゲートを抜けてスタジアムに向かうが、その途中には広大な芝生が広がる。これも旧共産圏時代の名残だろう。競技場の近くにあるこういうスペースはポーランドでもチェコでも見た事がある。 そして入場門をくぐりぬけスタンドに、と思うがそこで止められた。 身分証明書を見せろと言われた。おそらく帽子をかぶり、マフラーをしたのでよく顔が見えなかったか?脱帽も命ぜられた。パスポートを見せ、照合が終わると直ぐに解放されたがなにやら私の名前とパスポート番号が控えられている。これで2試合連続でこういうことに遭遇したことに。運が良いのか悪いのか? この Zentral Stadion は掘り下げ式の競技場になっており、かつては10万人が収容出来た旧東ドイツ最大の競技場であった。 ワールドカップに向けてモダンに改装されたが収容観客数は半分以下の4万5千人になった。すり鉢上になった芝生の所々に昔の木製の観客席が残っている。 そして私はスタンド内の席に向かった……. 続く


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