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Mr.コンティのRising JAPAN

マスコミの書かない&書きそうもない!スポーツ界の雑学・裏話を、サッカーを中心にコメントを掲載していきます。

Newcastle にて Olyroo vs 北朝鮮 後半

2007-09-13 | 五輪 U-20, U-17
ハーフタイムの間、この試合のメンバーリストを貰おうと“記者席”を探しに競技場内を徘徊し始めるが既存の記者席には Press 関係らしき人は誰も座っていない。そこで2階席に行きいくつか並んでいる小さなプレスルームらしきものの中で電気の点いている所に行くと2,3人記者らしき人がいた。5月にさいたまスタジアム2002で行われたACL の試合で顔見知りになり、バンコックではアジアカップのゲームで偶然再会した地元のジャーナリストを探したのだが彼は見当たらなかった。若い記者に彼の事を訊くと“多分まだ陸上競技の世界選手権の取材で大阪にいるのではないか?”とのことであった。大会が終了してからもう1週間以上が経過していたのに….. そこでその彼に事情を話してこの日のメンバーリストを書き写させてもらった。その替わりに私の知る限の北朝鮮の選手の事を教えたけど役に立ったかな……
ここに座って試合を観ても良いと言われたけど、2階席では全体の見通しは良いが選手間の迫力は伝わってこない。御礼を言って席に戻る事にした。でも本当に日本の五輪予選のゲームでは考えられない出来事の連続だなぁ……

後半に入って両チームメンバー交代は無かった。フォーメーションは… と確認しだす前の48分、オーストラリアが後半2本目のCKを得る。Sarkies が上げたCKを Milligan がドンピシャのタイミングで頭で合わせて北朝鮮ゴールネットを揺らした。前半の半ば過ぎから好セーブを見せていた Ri Myong Guk も成す術はない見事なヘッドだった。しかし北朝鮮DFのゴール前でのマークもやや甘かったか…..



ようやくの先制ゴールで湧き返る観客の後押しを受けて更にオーストラリアが攻勢に出る。53分には右サイドをドリブルで突破した Sarkies が Cha Jong Hyok と Pak Chol Jin に挟まれながらもフリーの Ward にスルーを通すが Ward のシュートはバーを越える。56分には Leijer のミドルが飛ぶ。北朝鮮も中盤でボールが回るのだがPA付近でのラストパスのタイミングが1歩遅い様な気がする。それでも59分、オーストラリアゴール前に持ち込み一旦はクリアーをされたボールをそのまま狙い澄まして放ったミドルはクロスバーを直撃にその真下に落ちたボールがオーストラリアDFにクリアーと言うよりも頭のてっぺんに当たってゴールを割れ無かった。完全に入ったと思った瞬間だった。このミドルを放った選手を見損ねてしまった…….そしてその直後のプレーで Kim Yu Chol にイエローが出された。まだ焦る時間じゃないんだけど… それともさっきの惜しいシュートを思い出したのか??
オーストラリアは64分 Ward に替えて61分頃から交替の為にピッチサイドで待機していたAdelaide United のストライカー Bruce Djite を投入した。追加点を狙う交代だ。 しかしこの時間から徐々に北朝鮮が前に出てこれるようになる。 Pak Nam Chol をトップにあげワントップだった Choe Chol Man と2トップを組み、2列目の右に Kim Yu Chol 左に An Chol Hyok を張り出させた。66分には Kim Yu Chol の上げたクロスを Leijer に競り勝った An Chol Hyok がヘッドで狙うがクロスバーを越えた。こうなるとまた Topor-Stanley が上がってきて中盤を抑えようとするが2列目の両サイドがワイドに開くので前半よりもボールが回る様になる。68分には An Chol Hyok が左サイドをドリブル突破。マークするDFに手を掴まれてもそれを引きずる重戦車の様に更にドリブルで持ちあがりファーサイドめがけてゴロのシュート。しかし僅かにポストの右を通過する。“あああああああぁぁぁぁ~”と大声を上げたのはあの韓国人女性。彼女を振り返ると本当に惜しそうな表情。やっぱり同じ民族なんだなぁ…目と目が合ってしまった。 “前半より良い。 Next ! Next !! “と声をかけると大きく頷いた。69分に Choe Chol Man に替って Kim Kwang Hyok が投入された。まだ時間は早いかもしれないがアジア大会でもベンチ入りした長身の Jong Su Hyok を前線に張らせてはとも思ったのだが… 74分には William に替って Perth Glory の David Micevski が投入される。後半の William はあまり目立たなかった。ここで中盤の守備固めか?? 75分から北朝鮮はパス回しが早くなるが得意のワンタッチで何本も繋ぐ展開がこの日はまだ見られない。オーストラリアは前線がやや引いて中盤を厚くし攻撃はカウンター狙いとなった78分には Zdkovich がカウンターからシュートを放つが GK Ri Myong Guk がブロック。79分には今度は北朝鮮が Pak Chol Man と Joh Kwang Ik の粘りからCKを得るが得点には結びつかない。オーストラリアのアーノルド監督は席を離れて大声でピッチの選手に指示を出しているが、北朝鮮ベンチはみな静かに座っている。87分には Kim Yu Chol に替って Kim Kyong Il が投入される。 Kim Kyong Il は7月の FIFA U-20 のメンバー。他に GK の Ju Kwang Min 、FW の Pak Nam Chol が FIFA U-20 のメンバーでベンチ入りを果たしている。



オーストラリアは89分に Celeski に替えて Perth Glory のLeigh Broxham を入れて逃げ切りをはかる。75分過ぎからボール支配率の上がった北朝鮮はPAエリア付近まで何度も迫るが、最後のパス、そして競り合いでボールが取れない。
結局2分あったロスタイムも過ぎてタイムアップ。そして大歓声があがる。オーストラリアはアウェーでのイラク戦の引き分けに続きホームゲームで勝利を収め勝点4とし、同日アウェーでレバノンを 5-0 と降したイラクに続いて得失点差で2位につける事に。12日に Gosford の Central Coast Mariners のホームスタジアム Bluetongue Stadium にレバノンを迎える。この試合に勝てばいよいよ予選A組はイラクとオーストラリアに絞られて来そうだ。 
一方の北朝鮮。試合後はオーストラリア選手達と握手を交わしスポーツマンらしくピッチを後にして行った。ホームのレバノン戦そしてこのオーストラリア戦と連敗スタートの苦しい展開。次はカタールに移動しイラク戦を迎える。ここからどういう経路でカタールに乗り込むのだろう?移動と時差の影響は少なくないと思う。しかしこれに打ち勝ちイラク戦に勝って、オーストラリア対レバノンが引き分ければまだまだ先は解らない。このチームに必要なのは強豪国との試合経験だろう。最後の1対1、ラストパスの差が勝敗を分けた。しかし後半は惜しいチャンスも作った。



試合後競技場の外で子供達を含めたサポーター達が選手の出て来るのを待っている。そして選手達は丁寧に一人一人にサインや写真撮影に応じている。この国の今後のサッカー人気を自分たちで更に盛り上げるのだ、“欧州組みばかりが Socceroo, Olyroo ではないぞ。”と、思っているのかもしれない。試合直後に子供達にサインをしているOlyroos 達を見ていて日本リーグ時代を思い出した。でもあの低迷していた時代には戻りたくない……. 日本も北京五輪に出場出来る事を祈るよ…….

Australia team: GK 1. Danny Vukovic , 2. Ruben Zadkovich, 3. Adrian Leijer,
4. Mark Milligan, 6. Stuart Musialik, 7. Kristian Sarkies, 9. Mark Bridge, 15. Nick Ward (11. Bruce Djite 64’), 19. David Williams (39. David Micevski 74’), 20. Nikolai Topor-Stanley, 22. Billy Celeski (16. Leigh Broxham 89’)

朝鮮民主主義人民共和国 : GK 1. Ri Myong Guk, 2 Cha Jong Hyok, 3 Ri Jun Il,
5 Ri Kwang Chon, 8 Kim Yu Chol, ( 23. Kim Kyong Il 87’ ) 9 Pak Nam Chol,
11 Joh Kwang Ik, 17 Choe Chol Man ( 7 Kim Kwang Hyok 69’ ) 19 Jong Su Hyok, 20 Pak Chol Jin, 22 An Chol Hyok

 

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Newcastle にて Olyroo vs 北朝鮮 前半

2007-09-11 | 五輪 U-20, U-17

来年の北京五輪に向けてアジア各地で予選が繰り広げられている。
9月8日にアウェーでサウジアラビアと引き分けた日本は、12日にホームでカタールを迎える。前半の正念場だろう。
1996年3月、28年振りにアジアの壁を突破してアトランタ五輪の出場を決めて以来シドニー、アテネと連続五輪出場を果たしているがその予選の組み合わせは少し恵まれていた様な気がした。それもアトランタ五輪出場以降日本のランクが上がりシード権を獲得し続けた恩恵かもしれない。それとも日本の政治力がついたのだろうか? この北京五輪予選サウジアラビア、カタールと同組になりこれまでの様に Easy な相手ばかりではなくなった。他組を見てみると韓国の所属するB組はバーレーン、シリア、ウズベキスタンが同居する。韓国にとっては対戦相手が比較的西側に集中しておりアウェーゲームの遠征が少し厳しいかも知れないが力からすると韓国は前回の様にイランや中国を相手にするよりかは容易かも知れない。早々と連勝をし次の12日、ホームでのシリア戦に勝てばかなり楽になる。
そしてA組、AFC 新加盟のオーストラリア、イラク、レバノンそして北朝鮮がいる。この組が最も激戦と言えるかもしれない。
候補の一つであるオーストラリアはアテネ(ベスト8)シドニー(1次リーグ)アトランタ(1次リーグ)バルセロナ(4位)ソウル(ベスト8)と5大会連続出場中だがそれは特にこれまでオセアニア枠でほぼ“自動的に”五輪出場を続けられてきたおかげと言えなくない。今回からはアジアの壁を乗り越えねばならない。
そして9月8日は Newcastle に朝鮮民主主義人民共和国を迎えた。北朝鮮は1976年モントリオール五輪に出場しベスト8に進出しているが、この時の五輪は多くのアフリカ諸国がボイコット、ガーナ、ナイジェリアと言った国が辞退し北朝鮮はソ連に0-3 で敗れたもののカナダを3-1 で破りベスト8に進出。そして準々決勝では前回金メダルでモントリオール五輪銀メダルのポーランドに 0-5 で敗れている。それ以来の五輪出場を狙うが、そもそもエントリーをする事が何大会ぶりなのだろう?

この五輪予選は Newcastle Jests のホーム Energy Australian Stadium で行われたが五輪予選にしては少し淋しい競技場であった。北朝鮮の選手達にとってはむしろ大規模な金日成競技場と比較していたのではないか?この日はどうしても試合前の練習が見たくて試合開始40分程前に競技場に入った。ピッチでは両チームの選手がアップを兼ねて練習をしている。ここはピッチと観客席が大変近く選手達の様子がよく解る。すると北朝鮮のコーチであろう何人かがこちらをじっと見ているのに気がついた。少ない観客の中でアジア人系の顔をしているのは皆目ゼロに近かった為であろう。思い切って彼らに“イルボンサラムニダ !! “ と叫んだ。発音が悪いせいか何度か聞き直す素振りを彼らがしたが最終的には頷いたので分かったと思う?? 選手達はピッチ上で体を動かし続けているがコーチや役員達はロッカールームに戻ったりしており、その度に私と目が合う。だが彼らは愛想よく笑うので私も思わず親指を立てたりVサインを出したりする。とても政治的に敵対する国同士の人間のやり取りとは思えないが彼らは拉致問題なんか知らないんだろうなぁ….



すると観客から東洋系の女性が役員の一人と話している。役員が離れてから彼女の所に走り寄り英語で”北朝鮮から来たのですか?それともここで北朝鮮チームのコーディネートをしているのですか?“と尋ねると彼女は韓国からオーストラリアに移住してきて地元のオージーと結婚し、この試合はただ家族と観戦に来ただけだと教えてくれた。すぐに亭主と子供達がやって来た。
それにしても観客が少ないなぁ。ワールドカップでベスト16に進出したとは言え地元の人々は五輪代表にはそれほど興味がないのだろうか?それとも Sydney でもMelbourne でもないNewcastle と言う街のせいなのか?それでも何人かのサポーター達はピッチ上の選手達に声援を送っている。やがて両国の選手達がロッカールームに戻る為に入退場口の方にやって来る。何人かの北朝鮮のコーチ達がこちらを見て笑っている。そしてさっきの在留の韓国人女性も何か韓国語で声援を送っていた。何か温かいものでも飲もうと競技場の外(といってもすぐに外にでれるのだけど)に行くと両国の国旗と Fair Play Please の旗を持って入場する子供達が待機している。全員が白いTシャツ1枚で寒そうだ。そしてみんな女の子だ。彼女達の夢は Matildas のユニフォームか?カメラを向けるとみな愛想よくポーズを取る。国立競技場では考えられない。 The Smaller is the better とはこのことか?



そして両国選手達が入場口の所に整列する。先頭は審判団。この日は日本人で構成されている。テカヤマヒロヨシ主審に線審はナギトシユキさんにテヅカヒロシさん。“お疲れ様です!! “ と声をかけると3人とも驚いたように”あぁどうも!! “と答えてくれた。”日本から来ているのは私だけですから。ジャッジ頑張ってください !! “と言うと。“ハイ。有難う御座います。”と話が出来た。本当に日本での五輪予選では考えられないなぁ…….



国歌演奏はまず北朝鮮からだ。昔趣味でよく聴いていた朝鮮中央放送の開始時にかかる聞き覚えのあるメロディーが流れる。しかしスタンドでは誰も一緒に歌える人はいない。演奏が終わった時にさっきの韓国人女性に向かって“金日成同志 ! 万歳 !! “ と言うと彼女も”金正日! 万歳 ! “ と笑いながら言った。二人でオーストラリア国歌が始まるまで “将軍! 万歳!”とか“労働党!万歳”とか言っておどけていたけど韓国ではこんなこと言えないだろうなぁ…..



オーストラリア国歌の大合唱?が終わりキックオフを迎える。両チームとも4バックの布陣。北朝鮮 GK Ri Myong Guk は昨年のアジア大会での日本戦は控えのGK. DFラインは右から Pak Chol Jin , Ri Jun Il, Ri Kwang Chon, Joh Kwang Ik 。Pak Chol Jin は日本U-22 も参加した8月の瀋陽での4カ国対抗の日本戦にも出場。 Ri Jun Il はアジア大会のメンバーだったけど控えだった。
一方のオーストラリア。 Sydney FC の右サイドバックMark Milligan が出場停止明けでスタメンに。他には Adelaide United のKristian Sarkies、地元 Newcastle Jets の Mark Bridgs, そして Perth Glory の Billy Celeski のレバノン戦に出ていない4人の選手が起用された。浦和レッズと ACL を戦った Ruben Zadkovich, Nikolai Topor-Stanley もいる。 Topor-Stanley はACL後には Perth Glory に移ったけど。DFラインは右から Zadkovich, Adrian Leijer, Milligan そして Celek。Leijier は Premierships の Fullham に所属する。
ピッチ上はややスリッピーだけどどちらに味方するのだろう?北朝鮮の攻撃陣は Choe Chol Man のワントップに2列目右が An Chol Hyok. 左が Pak Nam Chol 。 22歳の Choe Chol Man , 20歳のAn Chol Hyok は瀋陽の4カ国対抗に出場しアジア大会では控えの選手だった。 Pak Nam Chol はアジア大会でもレギュラーで、瀋陽4カ国大会も出場しているチームのエース的存在。開始3分にはカウンターから An Chol Hyok が左サイドを突破し Pak Nam Chol に繋いでオーストラリアゴールに迫った。すると今度はオーストラリアが Mark Bridge がドリブルで上がり逆サイドの デンマーク Brondby でプレーするWilliam David へ。William の折り返しは北朝鮮DF Pak Chol Jin がヘッドでコーナーに逃れた。その Sarkies が上げたCK、GK Ri Myong Gok が弾いたところを William がフリーで撃つがゴール枠を捉えられない。というよりもその浮玉が上手く足下に収まらなかった。
そして以降、Olyroo 達の攻撃が続く。16分には Mark Bridge にスルーが通り落とした所を Sarkies が撃つがGK正面。その直後も Bridge がインターセプトからミドルを放つ。22分には William からスルーパスが右サイドを上がった Zadkovich に渡りシュートを放つがGK Ri Myong Guk がセーブ。その直後にもスルーパスが Sarkies に渡りチャンスを迎えるが最後は Ri Jong Il がコーナーへ逃れた。28分にはACL で浦和のワシントンをマークした巨漢、 Nikolai Topr Stanley が攻撃参加し起点になりCKを得る。そのCKをGK Ri Myong Chol がパンチで弾くがそれを William にダイレクトで撃たれて危ないシーンが。北朝鮮は左右に動く Pak Nam Chol のボールキープが頼りで右サイドバックの Pak Chol Kin が相対する Sarkies のマークに腐心させられるので攻撃参加が出来ず、左サイドからしか相手コートに入れない。しかしそこには Zadkovich そして Leija がいるので左サイドバックの Joh Kwang Ik が上がって来て An Chol Hyok が絡んで来ても最終ラインが突破出来ない。 Olyroo はTopor-Stanley の上がって来る回数が増えるにつれてチャンスも多くなる。32分には England の QPR に所属する Nicholas Ward から Bridge, 地元 Jets に所属する Stuart Musialik そして最後は Topor-Stanley に渡り豪快なミドルシュートがさく裂した。そして37分、前半最大のチャンスが Olyroo に訪れる。 Bridge からのロビングを Celeski が頭で右に落すと William に当たって再びCeleski に渡る。Celeski からゴールラインはほんの数十センチ。しかしここは GK Ri Myong Guk が必至のブロックでCKに逃れる。そのCKも Ri Myong Guk が身を投げ出してキャッチした。不安定な立ち上がりだった Ri Myong Guk は次第に安定感を取り戻してきた。
この一方的な展開の中で38分北朝鮮がチャンスを迎える。右サイドによりドリブル突破を試みるPak Nam Chol が倒され良い位置でFKを得た。 Olyroo は5枚の壁を作る。Choe Chol Man と Pak Nam Chol がセットされたボールに寄るが Choe Chol Man の蹴ったFKはクロスバーを大きく越えてしまった。結局これが北朝鮮前半唯一のチャンスとなり、以降 Olyroo の猛攻が続く。42分にはCKを Ri Myong Guk が弾いたこぼれ球を Celesli が撃つがGK正面。44分にはカウンターから Celeski が再びドリブルでPAに侵入するが Ri Kwang Chon, Joh Kwang Ik の二人がかりでストップ。ロスタイムにはいった46分にもカウンターからまたも Cleeski がドルブルシュート。そおのこぼれ球を Bridge が撃つがゴールネットは揺らせなかった。そして前半がスコアレスのまま終了した。ロッカールームに戻る選手達に声援が送られる。北朝鮮の選手にはさっきの韓国人女性がなにやら声をかけている。“頑張って”とでも言っているのだろうか?やはり南北は分断されていても同じ民族なんだなぁ…… アーノルド監督にも声が飛ぶがあまり良い内容ではなさそうだ….  後半どちらが先に点を取るのだろう…..続く



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打倒関東ならず インカレ準決勝後半

2007-01-14 | 五輪 U-20, U-17
駒大、関大、選手交代無しで後半が始まった。エンドが替わった後半は関西大学が私の座っている前にあるゴールに攻め込んでくる番だが、果たして何度そういうシーンがあるだろう?前半はシュート1本だったがしかし、51分に関大が右サイドを突破し入れられたクロスを阪本が右足でうしろにすらした浮き球を櫻田がヘッドで狙うがわずかにバーを越える。後半から関大は両サイドを広く使うようになった。特に右サイドいっぱいに開いた木本敬介にボールが渡るとそこから可能性が見出せるようになってきた。左サイドは吉村修平が張り出す。55分にはサイドからボールを繋ぎ最後は北橋がミドルシュートを放つ。ボールキープも1対1で競り負けていた前半とは異なり、今度は駒大の選手がボールを取れなくなってきた。関大の選手はおそらく彼らのプレスのスピードに順応してきたのではないか?サイドを抉られじりじりとラインを下げる駒沢のDFラインに何度もGK山内から“下がるな”と声が飛ぶ。前半シュートを撃てなかった関大FW阪本、櫻田もゴール前で何度もボールを受けられる様になった。しかし、決定機をなかなか作れない。駒大DF廣井はタフな守りで、菊池は読みがよく最後の砦を守っている。さすが日本学生選抜。68分には久しぶりに駒大の攻撃を許し最後は巻にヘッドを撃たれる。ボールはファーポスト側に飛びポストの内側に当たって外に弾き出され、安堵する。3点差がついたらもうお手上げだ。しかし駒大の後半の決定的な場面はこれだけ。前半あれほど悩まされた駒大小林竜樹のドリブルも形を潜めてしまい、中盤からボールが前線に出なくなって来た。そして小林は74分に高崎寛之と交替してベンチに下がった。高崎も日本学生選抜経験者。グループリーグ初戦の高崎大学戦ではハットトリックを演じ、続く札幌学大学戦でも1点を決めて今大会、駒大では最多の4得点を決めている。しかし、準々決勝、福岡教育大戦は最後の3分にみの出場で、この日もスタメンを外れた。怪我でもしたのか? 高崎の投入で前線からプレスを強めようと言う方策か?そして同時に関大も吉村に替えて野洲高校出身の田中彰が投入された。第81回大会、野洲高校が初出場を果たしたときに2年生で出場したのではないかな? 田中は右HFに入り、左HFにいた吉村のポジションに右HFだった木本が入る2列目の布陣となる。そして更にボール支配率の上がった関大は79分に田中が右からシュートを放つがサイドネットに。点差は2点なのでまず1点はやく返したい。83分には北橋に替わりFW森曜平が投入され、最前線に左から阪本、森、櫻田と3人が並ぶ。85分に駒大ベンチは得点者のMF山崎に替えて竹内優を入れる。竹内は本来トップ下のポジションらしいがこの交替も前線からプレスを掛ける意図か?駒大も2点リードしているのだから大きくボールを回したりして関大の焦りを誘う様にすればいいのだが、そういう意図も見られない。この間に何とかゴールをと思うがゴールネットは揺れてくれない。ロスタイムに入り櫻田がシュートを放つがGK正面。そして右サイドを突破した田中のクロスを鄭鎮雄がヘッドで狙うがポストの上。そして無情のホイッスルが鳴り、関西勢はここで姿を消すことになった。 駒大はこれで3大会連続の決勝進出で14日日曜日の決勝戦では3連覇を狙う事に。 試合終了後、敗れた関大の為に3位の表彰式が始まるが、この時に流されたBGMが哀愁を帯びており関大の選手の涙を誘う。そして応援してくれていたスタンドに向かう。選手、そしてスタンドの試合に出られなかったサッカー部員、女子マネージャーの殆どが泣いている。4年生の特にスタンドで応援していた部員達の心境を察するとこちらも感傷的になってしまう。負けた悔しさより4年間の選手生活にこれでピリオドが打たれた事への涙だろう。殆どの大学、インカレに出られなかった大学はもっと早い時期にシーズンが終わってしまう。そして、一部を除いて殆どの4年生が春からは社会人となり、サッカーとは無縁の生活が始まる人が多いだろう。
後半は完全に関大が優位であったが今年も打倒関東はならなかった。ボールへの寄せ、スピード、そして1対1での激しさ。それらは関西には無いレベルなのだろう。しかし後半はそのプレシャーに順応出来ていた様であった。来年度はそこにどこまで近づけられるだろうか?
スタンドには次の試合に登場する早稲田大学と流通経済大学の部員や関係者達が入ってきた。私は競技場を後にした。関東勢同士の対戦には興味がない。しかし、ニュートラルな気分で観戦出来たかもしれないが。

それにしても二日前に終えた全国高校サッカーと比較してこのメディア、関心の少なさはどうだろう?今の大学サッカーの存在価値を表している。しかし、大学スポーツは不要なものではない。このレベルの底上げの考察を発信するのもジャーナリズムではないのだろうか?……

打倒関東なるか? インカレ準決勝 前半

2007-01-13 | 五輪 U-20, U-17
両校の校歌がまず流れる。地元スタンドの控えの選手達も共に“合唱”するが、やはり“地元”駒澤大学の方がここに来ている部員が多く声が大きい。この声援に負けないでくれと思う。11年前にもここ西が丘競技場でインカレの準決勝戦、駒沢大学対同志社大学の試合を見に行ったが、当時の駒沢には栗原圭介がおり翌年には東京ヴェルディに入団。今はヴィッセル神戸に所属するが、当時のメンバーは11人中、栗原を含んだ10人が桐蔭学園高校の選手。スタンドからは“よっ!! 桐蔭学園大学”と野次が飛んだ。今大会プログラムを見ると出身高校の隣にカッコ書きでJリーグのユースチームの名前が。クラブチーム上がりの選手もいると言うことで、これは11年前には無かった。

関西大のキックオフで試合が始まる。開始早々に相手ペナルティーエリア内に攻め込む。これは関大に良い結果が期待できそうかな?と思う。頼みは2トップ。今大会4得点の阪本晃司と3得点の櫻田真平にアタッキングゾーンで良いボールが入るかどうか。しかし前半に期待を持たせてくれたのは最初だけで、以降は防戦一方だった。立ち上がり駒大の選手でまず目についたのは18番の左HF小林竜樹。身長162cmと小柄だが、ボールキープ力があり運動量も抜群でどこにでも出てくるという感じ。ボールを持っている相手にもしつこく挑みよくボールを奪っていた。そして右サイドを原一樹が縦への力強い突破でどんどん切り裂いてくる。原は市立船橋時代は全国優勝を果たしており、昨年度はイズミールでのユニバーシアード代表に選ばれここでも優勝を収めている。そして駒沢大学はインカレ2連覇中だ。本当に羨ましい戦績。そして清水エスパルス入りが内定している。6分には真ん中やや右を原に破られ、逆サイドのHF田谷高浩に渡りピンチを迎えるが何とかコーナーに逃れた。そのCKをいったんはクリアーしたが、それをペナルティーエリア外から山崎健太にノートラップで強烈なショット。それがゴール右上角に突き刺さりあっさりと先制点を許してしまった。このクリアーボールを撃った山崎を全くフリーにしてしまっていた。その後も原、小林に右側(関大の左サイド)を破られたびたびピンチを招く。原は左のトップとされていたが、この試合では逆のサイドに出てきていた。そして長身182cmの巻佑樹が高さを生かしたヘッドで関大ゴールを襲う。巻佑樹はJEF千葉で日本代表の巻誠一郎の弟。昨年のユニバーシアードメンバー。卒業後はどのJのチームに入団するのかな?兄の方も2001年度、第50回大会で駒沢大が優勝した時のメンバーで北京ユニバーにも出ている。駒沢には他にもDF菊池光将、廣井友信、伊藤龍FW高崎寛之、そしてベンチ入りしなかったが東平大祐が日本大学選抜メンバーに選ばれた事がある。11分には原、小林と繋がれ最後は巻が。17分には小林が鄭鎮雄を振り切り右サイドを突破。中にクロスをあげると今度は原がそれぞれ惜しいヘッドを放つ。そして26分には原から巻に渡りまたも巻のヘッドが。一方の関西大はMF吉村修平だけだ選抜経験者。その個人差が出ているのかマークのずれも多く見られる。関大はボールを奪ってもすぐに周りを囲まれて次に繋がらず、頼みの前線、櫻田、阪本にボールが繋がらない。前半のシュートは波状攻撃からMF吉村修平が放った1本のみ。それも力なくGK山内達夫の正面に飛んだもの。ボールを奪うと駒大はすぐにダイレクトパスを前線に繋いで来るので関大は後退を余儀なくされ、後手を踏み続ける。こうなると相手の侵攻をファールで止めざるを得ない。29分には北島雄祐、32分には大家翼が警告を受ける。特に29分の北島のファールはペナルティーエリアのすぐ外でしかもゴール真正面の位置でFKを与えてしまった。このFKは原が大きく外してくれたがいつ追加点を奪われてもおかしくない展開。何とか1失点で逃げ切ってくれよと思った42分、ハーフウェーライン付近でボールを奪った駒大は縦パスを前線に送る。それを追った原が北橋を振り切ってゴール前に抜け出てフリーでシュートをまたも関大ゴール右上角に叩き込んで追加点を挙げた。北橋と競り合った時、原はかなり高く肘を上げて北橋の顔に入ったが審判からはノーホイッスル。これは関大にとっては非情な判定だろう。北橋は納得出来ないといった表情。関大の選手が彼を慰める。しかし2点差がついてしまった。ロスタイムに入ってもゴール前に攻め込まれ原がヘッドで落とした所を巻に撃たれたがこれは外してくれた。そして前半を終えるホイッスルが鳴った。控え室に引き上げる関大イレブンにスタンドの関大応援団からは“1点返せば行けるぞ!!”と声が飛ぶ。次の1点は先に取って貰いたいが、シュート1本に終わった前半を振り返ると心もとない。学生選抜メンバーを多く抱える駒大に対して1対1の場面では差が出ていた。そしてボールを受けたあと、早くてそしてきつい駒大のプレッシャーが襲ってくるがそれらの積み重ねが苦戦を招いている。そのスピードや個人差が関東と関西とのレベル差であろう。 後半は選手交代を含めて何か方策はあるのだろうか?………

第55回全日本大学サッカー選手権 大学サッカーの人気

2007-01-11 | 五輪 U-20, U-17
関東地方は今日も晴天。日中の最高気温は11度程度だけど無風で日差しが心地よい。全国高校サッカー選手権大会の興奮が冷め遣らぬ今日この頃、全国大学サッカー選手権、インターカレッジ、インカレの決勝トーナメントが開催されている。大学スポーツは競技種目によって存在価値はまちまちだが、サッカーに関してはこの10年、要するにJリーグが発足して以降急速に後退してしまったのではないか? 
私の記憶では最後に現役大学生で代表Aマッチを戦ったのはあの井原正巳(当時筑波大)が最後じゃないかなぁ?(もし知っている人がおられたらぜひ教えてください。) 80年代は大学生でありながら代表に名を連ねた選手は珍しくなかった。しかし1992年のバルセロナ五輪からプロアマを問わず23歳以下の大会とされてから優秀な大学生(年齢にもよるが)はまず五輪代表のカテゴリーに入れられる様になった。バルセロナ五輪予選に臨んだU-23代表は沢登が主将であったが、当時彼は東海大学の学生であった。だがそれ以上に1993年のJリーグ発足後、優秀な高校生達はすぐにプロチーム入りを目指す様になり、またプロ球団もユース組織が整備されるに連れて高校生達はそのままプロ契約の為のトップチームを目指す嗜好が強くなり大学サッカーはJリーグと高校サッカーの間でその存在価値がかつて程なくなりつつある。今般オーストリアのザルツブルグ入りが決まった元日本代表の宮本は同志社大学の学生でありながらガンバ大阪に“所属”しており大学サッカーの世界ではユニフォームの袖を通してない。しかし、大学サッカーはもはや“不要な”ものだろうか?
日本には今尚、学歴化社会と言うものが存在している。その賛否両論はともかく、存在している事は事実でそれは避けて通れない。優秀なスポーツ選手とて一寸先は見えない。不慮の事故で選手生命を突然絶たれるかもしれない。将来を嘱望されながら様々な理由で挫折していく事が多い。その際選手自身には何が残ると言うのだろう?そしていつかは引退をする日がやって来る。
私は大学卒業後、実業団に挑戦したがわずか2年で挫折して引退。今はサラリーマン生活を送っている。選手生活は精一杯やって何の後悔も無い。しかしこう言えるのもその後の人生を何とか過ごせているからで、それも大学卒業の肩書きが無ければこうは行かなかったと断言できる。いくら輝かしいスポーツ経歴を残せても、社会に出ようとした時に見られるのは年齢と学歴のバランスであって、選手時代の戦績では無い。従って”大学には進まずにレベルの高いプロにすぐに行け。回り道をするな。“と言う人々にはじゃぁ、あんたその人達の人生の面倒を見れるのかい?”と私はすぐに反論しよう。平山相太が国見高校から筑波大学に進学をした時には著名な評論家まで“何故プロに入らずに大学に行く必要があるのか?優秀な素質が勿体無い。”との批判が続出したが、果たしてこの人達は本当に平山自身の事を考えて発言したのだろうか?彼が大学を辞めたのは残念だが、みんなが“平山相太”になれはしないのは事実だ。そして大学サッカーのレベルを上げようと考える人達はごく僅かだ。そんな風潮が始まりだした時、1995年福岡で開催されたユニバーシアードでは決勝戦で韓国を破り初優勝を収めた。これは特筆すべき歴史事象であった。アトランタ五輪の前年、そしてフランスワールドカップの3年前の出来事だった。 

 ほとんどの学生スポーツがそうである様にサッカーも関東勢が優位だ。21年前の1985年大会では大阪商業大学と大阪体育大学が決勝戦で対戦。死闘は130分でも勝負が着かず(前後半45分。延長前後半15分。そして再延長10分)関西勢で優勝を分け合うと言う夢の様な出来事であった。しかしインカレで関西勢が優勝を果たしたのはこの年が最後。以降は関東勢の軍門に降り続けている。兎に角何でもいいから打倒関東を果たしてくれないものかと思い続けていたがアメリカンフットボールを除いて殆どの競技で関東勢の優位は揺るがなかった。ならば打倒関東は自らの手でと臨んだインカレは(サッカーじゃないけど)関東勢の強さを再確認させられるだけであった。 
 しかし、学生時代はサッカー部との交流も思い出の一つだ。私の母校のサッカー部は在学中に一時関西リーグの2部で2位に入り、1部リーグ入りを掛けて立命館大と入れ替え戦を戦うにまで至った時があった。残念ながら1部入りは果たせなかったが、同好会の様なレジャースポーツ的な仲良しクラブばかりの体育会の中でサッカー部は競技性を追求するクラブとして一目置いていた。そして次第に彼らとはお互いを認め合う仲となり、こちらが練習試合やリーグ戦を見に行く様に。そしてこちらが関西でも上位入賞を果たし全国レベルになって来るとサッカー部の“後輩達”が“先輩みたいに成りたい。”と行ってくれる様になった。こういうのを切磋琢磨するというのだろう。 
 またアルバイト先にも当時関西大学リーグ1部であった京都教育大学サッカー部の選手がいてすぐに親しくなり、試合を見に行く仲にもなった。そして彼からも関東勢のレベルの高さを聞いた事がある。
 今年も全国から24の大学がそれぞれの地域リーグで規定の順位内に入りインカレに進出して来た。そして4大学ずつ6つの組に分けられ総当りを行い上位1位校と2位の中で成績の良かった2校が準々決勝に進むと言う昨年末のアジア大会と同じフォーマット。リーグ戦は昨年末に関東のみならず、関西、東海地区で分散して開催され準々決勝からは西が丘、市原臨海競技場で開催され決勝戦は国立競技場で行われる。
今年はベスト8には関西からは関西大学と立命館大学が進出した。この2校は今シーズンの関西学生リーグの上位2校だ。昨年はこの2校と関西学院大が8強に残った。関学大は高校サッカーで準優勝した作陽高校のエース村井君が進学する。 毎年夏に大阪で総理大臣杯が開催されるが、昨夏は立命大が優勝を収めた。その立命大は、インカレでは早稲田大学に準々決勝で 1-4 と完敗。しかし関西大は関東学生リーグ3位の明治大学を 2-1 で降しベスト4に残った。明治大は今シーズン関東学生リーグでは後期10勝1分けと好成績を収め、その明治を試合内容ではかなり圧倒しての勝利だったらしい。 準決勝の相手は駒澤大学。関東リーグでは2位。そして過去のインカレでは同じ準決勝で 0-1 で敗れている。そしてインカレでは2連敗中の相手だ。今シーズンは明治大戦まで22連勝中との事。このまま連勝を伸ばして欲しいところだ。
 綺麗に手入れされた西が丘競技場のピッチ。1989年にはここでワールドカップ予選の試合が行われ日本がインドネシアを 5-0 で一蹴したがグランドコンディションが最悪で試合後“ここは本当にFIFA の査察を受けたのか?”とインドネシア監督に記者会見で言われてしまった。そしてそこに両校の選手が入場して来た… 続く

憧れの高校サッカー決勝戦

2007-01-08 | 五輪 U-20, U-17
前日、前々日とはうって変わっての晴天の下、第85回全国高校サッカー選手権大会決勝戦が国立競技場で開催された。今日は成人の日、お休みと言う事で観客席も満員。高校サッカーの決勝戦でスタンドが満員になりだしたのは昭和58年度大会あたりから。そのカードは帝京高校対清水東高校。連覇を狙う清水東は前年度の中心選手、長谷川、大榎、堀池の3選手が残り、それに加えてFWに武田がいると言う豪華メンバー。帝京も後に全日空から横浜フリューゲルスに入団し、一時は代表のエースストライカーでもあった前田がいた。
以降、ほとんどの大会の決勝戦は満員となっている。 80年代に入っても日本代表はしばらく低迷を続け、サッカーと言えば全国高校サッカーと連想する人が最も多かった。あの“うつむくなよ、振り向くなよ~♪”のテーマ音楽に乗って。従ってサッカーイコール高校生までのスポーツで、大学になってもサッカーやスポーツをしている連中は “スポーツ根暗” ましてや日本リーグの様に“社会人”にまでなってスポーツをする大人は“頭がおかしぃんじゃないの?”が世の、特に女性たちの反応。 現役でプレーする選手達でさえ身内や職場以外からはこういう見られかれ方をしていたので、ましてや日本リーグの試合観戦に出かけていた我々はどういう見方をされていたか想像出来るだろう。それが90年代、Jリーグが発足する直前まで続いた。ブラジルからKAZUが帰国しても状況はすぐに好転しなかった。スポーツを見下していた女性達が母親になり、サッカーの少年団や野球のリトルリーグに我が子を入団させ髪を振り乱し発狂しながら声援を(たまに悲鳴に聞こえる)を送るのを観ていると非常に滑稽だ。 

我が母校、京都西高校のサッカー部はかつて日本代表のゴールを守った松井清隆先輩が在籍したが、(私は少し話をした事がある。)それでも私が高校時代は京都府予選でも3回戦で敗れる程度であった。サッカー部には友人も多かったので何度かインターハイや京都総体の試合を観に行ったことがある。そこで感じたのは、対戦相手の公立高校、男女共学高校の華やかさであった。こっちは男子校、どうがんばっても黄色い声は飛んでこない。対戦相手校を応援する女の子や女子マネージャーなんかを遠くから見て“いいなぁ。うらやましぃなぁ。”と思ったものだった。 西京極競技場に京都府対大阪府の高校選抜の親善試合をサッカー部の友人に誘われて観に行った事もある。残念ながら母校のサッカー部からはメンバーは選ばれなかったが大阪高校選抜には中学時代の友人と1年後輩が3人出ていた。この試合には将来のJリーガーが二人いた。洛南高校の草木は高校卒業後ヤンマーに入団し日本代表にも選ばれ、Jリーグ発足後はガンバ大阪でもプレーをした。そして北陽高校に久高がいた。惜しくも癌で亡くなってしまったが、卒業後は松下電器に入団し、ガンバ大阪、セレッソ大阪でもプレーした。他に東山高校に田村と言う後に日本鋼管に入団した選手がいた。 中学時代の同級生の活躍はともかく、まだ改装前の古びた石段のスタンドには女の子がけっこう目についた。きっと選抜メンバーの彼女達だろう、とは一緒に見に行った高校サッカー部の友人が言っていた。なんだか同じ高校生なのにえらく差をつけられているような気がした。いや、差をつけられていたのだ。スポーツのレベルも、女の子も。大学に入学して陸上競技を始め結構頑張ったのだが、スポーツの競技レベルが上がれば女の子の注目を浴びるのと言う現象は高校生までという事がその時になって初めてわかった。

今年の全国高校サッカー選手権大会の決勝戦も多くの人の関心が寄せられたことだろう。 大会を通しても色々話題があった。晴天の下で行われた決勝戦は盛岡商が逆転で初優勝を飾った。試合終了後に勇退される斉藤監督がインタビューされ、ジ~ンと来た。昨年、同じ岩手県の遠野高校に次いでの決勝進出。これで岩手県もサッカー列強県の仲間入りか? 1点を先制され、PKを失敗する流れの中でよく逆転勝利に繋げたと思う。それは決勝戦が45分ハーフであったと言う事も寄与するだろう。そして2得点とも左サイドの突破から。特に同点ゴールは投入されたばかりの大山君が左サイドから切れ込み、そのクロスを最後はPKを失敗した林君が決めたもの。これで一気に盛山商の選手は生き返っただろう。逆転ゴールは40分。左サイドを今度は成田君が突破し、入れたクロスを準決勝を累積警告で出場できなかったFW東館君がスルーし、走りこんだ千葉君が決めた。この40分と言う時間。決勝戦が45分になった事が盛岡商に味方をした事になるが、斉藤監督が20km走を練習メニューに入れたりして持久力をアップさせた事が優勝に結び付けた。逆転してからも盛山商の運動量は落ちなかった。 敗れた作陽高校。野村監督は選手時代(鹿児島実業)に続いての準優勝であったが、まだまだチャンスはあると思う。エースの村井匠君が後半開始からプレーをしたが怪我で十分にプレー出来なかったのが痛かっただろう。それでも先制点は彼の見事なボールキープとミドルシュートの跳ね返りを桑元君が押し込んだもの。卒業後は関西学院大学に進学するとの事。関学大は関西では一番偏差値の高い私立大学。さすが文武両道選手。関西学生サッカー界を押し上げてくれぃ。 

今大会も前回も決勝戦には関東勢は残れなかったが、これまで関東勢の快進撃には少し不満を抱いていた。(別に私が関西人だからというわけじゃないが。)首都圏開催になり西が丘、駒沢の東京のみならず、駒場、さいたま、三ツ沢、などの関東一円で試合が行われるのだが、東京都の高校が入ったブロックが西が丘や駒沢で試合を行い、埼玉県の高校が入ったブロックが駒場、さいたまスタジアムで試合を行い、神奈川県代表の入ったブロックが三ツ沢で試合を行う。千葉県代表もそうだ。公平の為にも埼玉県の代表が三ツ沢で、東京の代表がさいたまスタジアムで試合をしてもいいのではないか?またこうした開催競技場の事情が関東勢優位を少なからず助けたのではないか? 

しかし、両チームの選手が涙に暮れる決勝戦はいつも感傷的になる。感涙にそして悔し涙に。そしてスタンドには多くの3年生が同級生や後輩たちに声援を送っていた事だろう。彼らこそ卒業後も競技を続けて欲しい。注目度は下がるかもしれないが、まだまだチャンスはあると思う。それに今はスポーツ選手の見られ方が飛躍的に良くなっているから。
甲子園に高校サッカー、全国大会でも地方大会でも敗れた方の選手達やスタンドに目が行ってしまう。

今はもうこういう大会は観戦するだけだ、小学校5年生の子供に期待するか?でもレギュラーになれるかなぁ…?

日韓中戦 昌原の試合で あのカップルは誰?

2006-11-20 | 五輪 U-20, U-17
洪明甫”監督代行“は朴主水に代わって白智勲を投入した。前半日本ゴールを脅かし続けた朴主水を外してくれたのは多くの選手をテストしたいからか?と思っていたら後で朴は風邪で体調を崩しておりプレーもこの試合を休もうか?とも思っていたらしい。 このコンディションで、う~ん。さすが代表レベルだ。韓国の英雄、洪明甫はかつてベルマーレでもプレーをし、その時に日本の反町五輪監督とは試合前のストレッチ等のパートナーだったらしい。そして井原コーチとはもう語る必要が無いだろう。しかし、両監督、コーチには試合中そんな感情に浸る暇はないだろう。 後半、日本のメンバー交代は無かった。前半35分あたりからボールが繋がるようになりようやくペースが掴みかけてきたのでもう少し様子を、と言う反町監督の判断だろう。監督の”入れろ!入れろ!“の声が響く。それでも韓国は60分スローインを受けた李根鍋が田中(大宮)を振り切りクロスを入れ、中では梁東が柳楽を振り切ってシュートを放つがGK松井がセーブ。 昨年のFIFA U-20に出場した松井も所属先の磐田には川口がいて五輪チームでは大分の西川がレギュラーを張るので実戦でのプレーが少ない。しかしこの試合では時間を追う毎に安定感を見せており、また西川が怪我をしたのでこの間にアピールをしたいところだろう。先制を喫したときは大変な悔しがり様だった。そして日本が徐々に攻撃の形を構築出来るようになった。62分、左サイドからのロングフィードを右サイドで受けた水野がドリブルで姜敏寿を振り切りシュート。サイドネットを揺するに終わったが水野の突破が目立ってきた。そして65分、逆襲に出た相手ボールを奪った柳楽から5本のパスを繋いで上田(磐田)に渡り、さらに左サイドを疾走する渡辺に出し、渡辺が入れたクロスは走り込んだカレンにドンピシャのタイミングで合い、日本が同点ゴールを挙げた。しかし、カレンは淡々と余り喜びを表わさない。レプレイで見るとカレンはこの絶好のクロスを空振りしており、右から詰めた安泰垠の頭に当たってゴールに吸い込まれていったものだった。 五輪チームでのレギュラーを狙うカレンにとっては何とか結果を出したかっただろうが。 しかし安の右には谷口(川崎)が詰めており安が触らなければJリーグで10得点を挙げている谷口が何とかしていただろう。それよりも、この攻撃は永久保存版の素晴らしい build up であった。そして日本は1対1でも韓国選手に競り勝つ様になって来た。このチームでも選手の順応性はさすがと思わされる。そして韓国はロングボールが更に多くなるが2列目以降のフォローが遅れがちになり始めた。71分、反町監督は田中に替えて前田(広島)を入れて2トップ気味にし、細貝を最終ラインに入れた。72分に韓国は金勝龍のFKがフリーの梁東を目指すが梁は空振りをしてくれた。76分、洪明甫監督代行はセットプレーで日本を苦しめた金勝龍に替えて長身195cmの沈愚燃を投入すれば反町監督は反対に169cmの高校生、乾貴士を渡辺に代わって入れる。日韓共に監督の思惑が感じられる交代であるが、残り10分になって再び動きが良くなるのは流石韓国だ。81分韓国はCKを姜敏寿に合わせる、完全にフリーだ。そこに谷口が慌ててマークに寄るがGK松井も出てく来てゴールががら空きだ。そこに一瞬早く姜が頭で合わせ無人の日本ゴールにボールが飛ぶがクロスバーを直撃し姜は天を仰ぎ日本イレブンは胸を撫で下ろす。 日本も乾のドリブルでチャンスを作ろうとするがシュートには至らない。韓国の執念はすごい。85分には李根鍋のドリブルから最後は呉章銀が、86分には白智勲がミドルレンジからあわやのシュートを放つ。87分にはカレンを下げて津田(流通経済大)を入れて前線でのボールキープを期待するが、91分には白智勲が左サイドを突破し中にいる梁東に入れ、フリーでシュートを撃たれるが松井がセーブ。 結局4分あったロスタイムが過ぎても両国得点は生まれず、1-1のドローに終わった。 翌日の日刊スポーツなどはこの試合内容に”O・Gドローが精一杯“”日本U-21 五輪険し…”ふがいない戦い 云々“と悲観的な行しか載せないが、彼等は一度このメンバーと韓国のメンバーを比較する事を薦める。確かに前半は受身になり後手を踏む事が多かったがそれを後半には修正してくるところは評価すべきだ。
一方の朝鮮日報ではかつて“日本キラー”であった趙広来氏の解説が寄せられている。

http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/11/15/20061115000050.html

朴主水の攻撃力はやはりU-21レベルでは突出している事、金勝龍のFK等のプレースキックは今後の大きな武器になりうる事、そして李昇、李根鍋の右サイド攻撃を評価し、後半集中を欠いた事が日本を勢いづかせたと適切な論評を残した。

それからたまにテレビに映し出されたカップルは韓国のテレビタレントのキム・ギボム、Ara(コ・アラ)でハーフタイムにはグランドに降りて観客に出演するドラマの紹介までしたそうだ。これはこの試合を中継するSBSが新作ドラマの宣伝の為に企画したもので地元サッカーファンに“やりすぎ”ひんしゅくをかったそうだ。

http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/11/15/20061115000041.html

でも日本も前科がある。日韓定期戦最終戦となった(来年から復活するらしいが)1991年の試合は長崎で開催されたがこれは長崎~東京に就航した航空会社がスポンサーになった為で、ハーフタイム中はこの宣伝が流され続けたらしく、更に日韓定期戦はずっとNHKにて全国中継されたがこの試合は地元局のみの中継で当時の数少ないサッカーファンからは大顰蹙の日韓戦であった。 

あれから15年。来年から復活する日韓定期戦も含めてこれから各世代でどんな対決を繰り広げるのだろう?また韓国でサッカーを観戦したくなってきた…

日韓中戦 昌原の試合で さすが朴主水

2006-11-20 | 五輪 U-20, U-17
11月14日、韓国の昌原で行われたU-21の日中韓3カ国対抗戦。韓国ではどういうのだろう?韓中日?韓日中。最近の外交の流れから言うと前者だろう。これに北朝鮮が加わって4カ国対抗ならもっと面白いのだけど。 日韓の五輪チーム対決で忘れられないのが1992年3月マレーシアで行われたバルセロナ五輪アジア地区最終予選だ。日韓両国に加えて中国、カタール、クウェート、バーレーンを加えた6カ国総当りで上位3カ国が同年行われたバルセロナ五輪への出場権を獲得出来た。両国は共に1勝1敗1分後の第4戦で激突した。日本はバーレーンを 6-0 で破っており得失点差で優位に立っていた。この韓国戦に引き分ければ大きく1歩バルセロナ五輪に近づくはずだった。試合は韓国が押す展開。しかし日本も石川康(ヴェルディ)を中心にDF陣が攻撃を凌ぎ、主将の沢登(東海大)らが時折チャンスを創るなど 0-0 で進んだ。中継していた NHK のアナウンサーが何度も“日本引き分ければバルセロナ五輪に大きく近づきます。”と連呼する終了間際、アナウンサーが“シュートーォォォォォォ”と叫んだの韓国のシュートでそのシュートォォがゴールを守る下川(ジェフ)のゴールネットに突き刺さってしまった瞬間だった。ロスタイムはまだあった。当時の横山五輪監督はそこでテクニシャンンの藤吉(ヴェルディ)を投入するも挽回できず、痛い敗戦を喫した。“()内の所属は当時のもの。“僅かな望みがあった最終戦は既に出場を決めているカタール。しかしこの試合も 0-1 で敗れまたも日本はアジアの壁に跳ね返されてしまった。この五輪から年齢制限が設けられたことから代表の世界への挑戦はワールドカップのみとなり、果たして私が生きているうちに日本が世界の舞台にたてるだろうか?と思った予選であった。3年後の1995年1月、翌年のアトランタ五輪予選に向けてチーム造りを始めた西野五輪チームはオーストラリア国際大会に出場し韓国と対戦する。ここでも日本は 0-1 で敗れるが試合内容は小倉、前園らを擁した日本が圧倒しておりこの3年間の進歩を見せ、以降の五輪チームの進撃はここに記すまでもないだろう。 あれから3大会連続でアジアの壁を突破している。2年後の北京五輪出場に向けてどんな強化を進めていくのだろう?この五輪予選はオーストラリアの加入、そして中東勢の巻き返しも考えられ過去3大会の様に容易には進まないと思う。
昌原での韓国戦、日本はカレン=ロバート以外はほぼ2軍メンバー。カレン自身も“なんで俺がこのチームに?”と違和感を感じなかったか?しかし、“2軍”と言っても昨年オランダで開催されたFIFAワールドユース大会出場メンバーでこの試合の遠征に召集されたのはカレンの他にも Gk松井、MF 水野、DF柳楽 FW前田の計5名。
2軍というのは失礼で予備軍と呼ぶべきか? 一方の韓国は朴主水、李根鍋、金勝龍、そして白智勲らオランダユース組4名を含むほぼベストメンバー、朴主水、白智勲は今年のワールドカップメンバー。 開始から”予備軍“の対戦相手に発奮したのか、韓国が日本ゴールに迫る。 38秒には早くも逆襲から右サイドを金昌洙に破られ渡辺がファールで止める。そのFKから朴主水がフリーでヘッドを放つがGK正面。その1分後にも右サイドを破られ最後はファーサイドの朴主水が再びフリーで撃つがクロスバーの上を越えて助かる。しかし5分、あっさりと先制を喫してしまう。ロングフィードを李根鍋が拾い、右サイドの李昇に繋ぎ中に入れられるとそんこには走り込んだ李根鍋が、千葉(新潟)がなんとかコーナーに逃れるが、金勝龍からのコーナーに走り込んだ朴主水に合わされゴールを破られてしまった。朴には柳楽(福岡)が着いたが先に身体を入れられてしまった。日本もその直後にスローインを折り返しから本田(法政大)がシュートを放つが力なくGKに転がる。9分には韓国梁東にフリーでシュートを撃たれるがGK松井(磐田)がブロック。その2分後に日本はサイドチェンジから始めて攻撃らしい形が出来右から再び本田のシュートまで繋いだ。だが韓国は12分に李昇がドリブルシュート、その直後も朴主水がフリーでシュートを放つ。共にロングフィードを受けてスピード溢れる突破を見せしかも日本DF陣を振り切ってのシュートだ。韓国はロングボールを入れてきて日本DFを下げさせる。そこにFW陣が力強い動きで入ってくる、まだ集散も早いので日本の4バックそして細貝(浦和)、2列目の水野(JEF)渡辺(名古屋)らまで守備に腐心するのでワントップのカレンが孤立してしまっている。前線にボールが渡ってもカレンのボールキープ頼みでフォローも後方からやってくるので遅く日本は形が作れない。韓国は日本の左側を執拗に突いて来る。千葉も梁東、李昇の突破を反則で止めざるを得ない。そしてFKを蹴る金勝龍が絶妙の位置に落としたり、直接ゴールを狙って来るのでGK松井も左右に忙しい。何とか韓国のシュートミスにも助けられて日本は1失点に抑えることが出来た。 この日の昌原は気温7.9度。日中はまだ20度を越す日本と比べると選手は寒さで体が動きづらかったかもしれない。 しかし、スタンドも日韓戦(韓日戦?)にしては寂しい入りだ。中には制服姿の女子高生も目立つが、この制服は日帝時代の習慣と一掃されないのかな?日本の朝鮮人学校の様にチョゴリにしないのかな?と考えていたら後半が始まった。 

AFC ユース大会閉幕 またいつかどこかで...

2006-11-19 | 五輪 U-20, U-17
現地時間の11月12日に閉幕した AFC ASIA YOUTH CHAMPIONSHIP 残念ながら日本ユース代表は決勝戦で北朝鮮にPK戦で破れ今年のU-17とのアベック優勝はならなかった。 これで日本は何度目の準優勝だろう?6度目だ。北朝鮮の優勝は1976年バンコック大会以来30年ぶり2度目。このチームは一昨年の AFC U-16 大会のメンバーが主体となっておりこれで U-16, ユース大会と連続してアジアを制覇したことになる。となれば次はロンドン五輪か?この決勝戦での対戦は昨年11月熊本で行われた同大会1次予選での直接以来3回目。今年のWBCでの日韓対決では無いが同じ相手に3連勝はよほどの実力差が無ければ難しいだろう。しかしこれまで次の段階、FIFA U-20 ではアジア勢の中でも日本が一番成績を残しているのではないかな?

1995 カタール大会 ベスト8 日本 1次リーグ シリア、カタール
1997 マレーシア大会 ベスト8 日本 ベスト16 UAE 1次リーグ 中国、韓国、マレーシア
1999 ナイジェリア大会 準優勝 日本 1次リーグ 韓国、サウジアラビア、カザフスタン
2001 アルゼンチン大会 ベスト16 中国 1次リーグ 日本 イラン イラク
2003 UAE大会  ベスト8 日本UAE ベスト16 韓国 1次リーグ サウジアラビア ウズベキスタン 
2005 オランダ大会 ベスト16 日本 中国 シリア 1次リーグ韓国

負け惜しみかも知れないがアジアで優勝出来なかったその悔しさが次のFIFA U-20 の原動力にもなっているのではないかな? だが今回の決勝戦では北朝鮮の方が“執念”を見せた結果となってしまった。
特にGKのユ・クワァン・ミンは登録ではまだ17歳。2年前は15歳で FIFA U-17 に出場している。今後彼を含めたこの世代が五輪、そしてワールドカップ予選で日本を含めたアジアの強豪に立ちはだかる事は間違いないだろう。 しかし日本もまだまだ発展途上段階だ。 この大会にはチームの重鎮であるCB福元洋平が大会直前の怪我で万全ではなかった。しかし彼がプレーする事自身が脅威的であった。来年のFIFA U-20に向けて怪我の回復振りが心配されるが。そしてイタリアに渡った森本貴幸もいる。昨年11月の1次予選の時から7人の選手が入れ替わっているが、今大会で活躍した選手もまた選出される保証は無い。北朝鮮も9名が入れ替わっている。この世代はタレントぞろいなのか? そしてヨルダン。2004年中国でのアジアカップ準々決勝での壮絶なPK戦を憶えている人は多いだろう。サッカー好きのフセイン国王は来年カナダに出掛けるのか? 
決勝戦は多くの韓国人が北朝鮮を応援していた。同じ民族と言うのはわかるが大極旗を打ち振るのはちょっと北朝鮮の選手達に失礼では無いかな?まぁ北朝鮮国旗なんか打ち振ろうものなら帰国後なんらかの事情聴取もあるだろうから。 でも露骨に日本を毛嫌いするのはさすが韓国のマスコミ。準決勝で日本に破れ、大会3連覇が途絶えた事がよほど悔しかったのか、朝鮮日報では決勝戦の見所という記事の中で下記の様な行を掲載している

近年、北朝鮮と日本は政治的に敵対している。数年前から北朝鮮拉致問題で騒がしかったうえに、最近そこに北朝鮮の核問題まで重なった。よって、両チームが対戦すれば、激しい戦いとなるのは必至。互いに決死の覚悟で試合に臨む。昨年のワールドカップアジア最終予選で日本は、平壌で行われた北朝鮮対イラン戦での観客騒動を理由に、第3国無観客試合を成立させている。この過程で両国は、サッカーをめぐって激しい非難合戦を繰り広げた。 両チームの特殊性を離れ、これまで北朝鮮と日本は、同大会で韓国に徹底的に押さえ込まれており、(11回優勝)今回はそのうっ憤を晴らす場となりそうだ。北朝鮮は30年ぶり、日本は初の優勝を目指す。北朝鮮は、1976年の大会でイランとの共同優勝に輝いており、1990年の大会でも準優勝を果たしている。

http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/11/11/20061111000027.html

昨年のワールドカップ予選開催地を巡って特に誰も激しい非難を浴びせただろうか?またこの期に何故韓国に徹底的に押さえ込まれている事を引き合いに出してくるのだろう?

しかし選手同士はそうは思っていないようだ。 愛読するサッカー紙 エルゴラッソにはこの試合のレポートと共に、表彰式後、日朝の選手達が仲良く握手を交わし健闘を称えあっている写真が掲載された。 これからも両者は何度も相対するだろう。私も彼等がいつの日か自宅近くのさいたまスタジアム2002でプレーする事を楽しみにしている。そして試合後は昨年北朝鮮代表チームが夕食を楽しんだ、私の行き付けの焼肉屋に来て欲しい。
その節は私も押しかけるのでサインをしてください。 

アジアユース決勝進出 さぁ豊臣秀吉だ

2006-11-12 | 五輪 U-20, U-17
9日午後10時少し前、今夏購入した自慢の液晶テレビをBS朝日に合わせる。結婚以来16年間使い続けていた最後の電化製品、21型のカラーテレビがついに買い替えの時期にさしかかり、今年も予想外に低かった夏のボーナスを叩いて購入したのがこの液晶テレビ。カラーテレビを下取って貰う際に“結婚したときに買い揃えた思い出の品がどんどん無くなるね”と感傷的な台詞を吐いたのは私の方で、家内は“そうよ。時は流れてどんどん変って行くのよ。あんたもかわんなさいよ。”と返されてしまった。お前も変わったなぁ。
しかし新しいテレビのおかげで民放のBS放送を視れてインドのコルコタ、バンガローで開催されている AFC アジアユース選手権が楽しめる。と言っても私の好み番組の優先順位は家庭内で最下位。しかもこの日は帰宅が午後9時前だった。とんねるずのみなさんのおかげでしたが終わってようやくこちらがテレビのリモコンを握れるようになりチャンネルをBSに。するとPK戦の真っ最中であった。日本時間の午後7時半から中継が始まっているのでこの時間までやっているのはPK戦にまでもつれ込んだからだ。丁度4人目の森島が決めて 2-0としたところだった。続く朴玹範はGK林の反対を突いてゴール左隅に決めた。これは何と韓国が始めて決めたPKだった。日本は5人目の森重が決めれば決勝進出がきまるところだったが、GKのほぼ正面に蹴ってしまう。韓国5人目ペスンジンが決めて同点に追いつく。本当に韓国は勝負強いししぶとい。日本はサドンデスに入った6人目青木が決め。韓国6人目崔淳のキックを林が左に飛んでストップ。この瞬間アジアユースでの韓国戦の連敗を5でストップした。これまでアジアユースでの直接対決は地域予選の試合を含めて23回対戦した中で日本ユース代表が勝ったのはたった2回。通算成績は日本の2勝4分(PK戦で1勝2敗)17敗。その2勝も川口能活らを擁した1992年ソウルでの1次予選と1994年中田英寿らが活躍したジャカルタで開催されたアジアユース1次リーグ戦。90年代に入るまではA代表以上にユース代表は歯が立たなかった。そして1972年から通算15回に渡って開催された日韓定期戦では対戦成績が日本の3勝10敗2分けと全く相手にならなかったがその“前座”として行われた学生代表の対戦で日本が韓国学生代表に勝った事は無かった。年代別の戦績ではA代表以上に相手にならなかったことがよく判るが、逆にユース、学生代表がこれだけ勝てないのではA代表で勝てるわけなどなかったのだ。韓国との力の差が激的に縮まったのは1993年から発足したJリーグ効果と見る人は多いが、私はそれだけとは思えない。1992年、上述したアジアユースでの初勝利(結局その4ヵ月後UAEで行われたアジアユース本大会準決勝で崔龍朱らのいた韓国に敗れてワールドユース出場出来なかったのは有名な話)そして2年後のジャカルタでの勝利。それから両国の学生選抜が相対するデンソーカップでの日本学生選抜の優位(今年は3月26日さいたまスタジアム2002で開催され日本が 4-2 で勝利)等代表予備軍の強化も見落とせない。 そしてその強化の賜物と言えるハイライトが2003年UAEで開催されたワールドユースでの逆転勝利だ。日韓史上初めて FIFA 公式大会で直接対戦したこの大会の決勝トーナメント1回戦。崔成国に先制点を許すも坂田(横浜Fマリノス)の連続ゴールで歴史的な勝利を上げた。昨年6月オランダで開催されたFIFA U-20 大会決勝トーナメント1回戦でモロッコに破れて以来この大会に向けてユースチーム造りが始まったのだが、この1年5ヶ月で4度韓国ユース代表と対戦し2勝1PK勝ち1敗とまずまずの対戦成績。前回アジアユース準決勝でのPK負けを含めて連続5試合この大会で勝ち星は無かったが、今回はチャンスだと思っていた。しかし、準々決勝までの4試合、日本はバンガローで戦い準決勝になって初めて1700km離れたコルコタに乗り込むことに。対戦相手の韓国はずっとコルコタに居座り続け、しかも1次リーグは対戦相手に恵まれた(ヨルダン、インド、キルギスタン)確かに準々決勝は優勝候補の定評があったオーストラリアであったが。 日本は目標であったワールドユース大会出場権獲得の準決勝進出を既に果たした後でモチベーションの問題が無くはなかった。DF柳川は準々決勝が終わると所属先のJ1昇格戦線にある神戸が故障者続出と言う理由で韓国戦を前に帰国している。(柳川は第二戦のタジキスタン戦で後半の25分から出場。第3戦のイラン戦はフル出場している)

しかし、韓国のマスコミはこの日本戦をかなり楽観視していた。
まだ準決勝も始まっていない11月8日付けの朝鮮日報では、イラクを2-0で降しベスト4に進出した北朝鮮を引き合いに出し早くも1990年以来、南北朝鮮が優勝を争いを演ずるのではとの期待を寄せていた。

http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/11/08/20061108000043.html

翌日10日付けの同紙でも今回の韓国ユースは史上最強で日本は格下との見出しが

http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/11/09/20061109000056.html

文末には今大会既に2ゴールを挙げている森島・柏木・河原そしてサウジアラビアとの準決勝で後半に交替で出場し、決勝ゴールを決めた青木にも警戒が必要と結んでいたが、ゴールを決めたのが森島と青木だった。
そして自国の敗戦のリベンジはどうやら決勝戦で日本と相対する同胞に賭けているようだ。

http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/11/11/20061111000027.html

上記の記事には最近の核開発問題や拉致被害者問題にも言及しているがそれらの問題は日朝間のみでなく、いやむしろ韓国の方がもっと身近な問題ではないのかな?

学生時代、八坂神社から清水寺へ抜ける道を当時付き合っていた歴代の女性とよく歩いた。ここは静かでそして古都の雰囲気がよく醸し出されている私の好きな路だった。そして道中豊国神社門前に“耳塚”と呼ばれる史跡がある。ここは鼻塚とも呼ばれ、豊臣秀吉が行った1592年~98年、文禄、慶長の役、所謂朝鮮出兵の時、討ち取った朝鮮、明国兵の耳や鼻をそぎ持ち帰ったものを葬った塚と言われている。当初は「鼻塚」と呼ばれていた。当時は戦功の証として死体の首を持ち帰るのが常であったが、日本まで距離があるために首の代わりにかさ張らない耳や鼻を、運搬中に腐敗するのを防ぐために、塩漬けにして持ち帰ったとされる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%B3%E5%A1%9A

秀吉の朝鮮出兵は朝鮮半島の侵略と韓国人は学校で習っているらしいが目的地は朝鮮半島でなく、当時中国を治めていた明王朝であった。その通り道に朝鮮半島があり結果的に多くの朝鮮人が犠牲になった。だがこのとき朝鮮の民衆は既に王や大臣を見限り、日本軍に協力する者が続出した。 これは、前述実録の「人心怨叛,與倭同心耳」、「我民亦曰:倭亦人也,吾等何必棄家而避也?」でうかがい知ることができる.また、明の朝鮮支援軍が駆けつけてみると、辺りに散らばる首の殆どが朝鮮の民であったと書かれてある。景福宮は、秀吉軍の入城前にはすでに灰燼となっており、 (ぬひ、奴隷の一種)は、秀吉軍を解放軍として迎え、の身分台帳を保管していた掌隷院に火を放った、とある。

しかし、この出兵は結果的に慶長の役勃発の翌年に秀吉が亡くなり撤退に。この戦争に過大な兵役を課せられた西国大名が疲弊し、豊臣政権の基盤を危うくする一方、諸大名中最大の石高を持ちながら、関東移封直後で新領地の整備のために九州への出陣止まりで朝鮮への派兵を免れた徳川家康が隠然たる力を持つようになった。五大老の筆頭となった家康は秀吉死後の和平交渉でも主導権を握り、実質的な政権運営者へとのし上がって行き、1600年の関が原の戦いを経て大坂冬の陣、夏の陣へと繋がりやがて徳川幕府設立となる。関西人の私としてはこのまま大阪に実権が留まっていてくれればなぁ、と何度思ったことか?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%87%BA%E5%85%B5

1965年12月29日。日韓交渉が妥結されたが、交渉のテーブルに着いた当時の李承晩大統領は日本側の役人(当時は大平さんだったかな?)に“加藤清正が退治したので韓国には虎はもういません”と言ったとか?

今は平和な21世紀。歴史認識、歴史問題と提起する左翼、韓国マスコミの人々に言わせて貰おう。
次は北朝鮮に勝って豊臣秀吉の成し遂げられなかったアジア統一を達成しよう。

がんばれニッポン。

AFC ユース大会 好調東アジア勢

2006-11-05 | 五輪 U-20, U-17
ASEAN 勢は殲滅されたが、日本を始め東アジア勢は全てベスト8に進出を果たした。準々決勝の組み合わせは日本対サウジアラビア、韓国対オーストラリア、北朝鮮対イラク、そして中国はヨルダンと対戦し勝った方が来年カナダで開催される FIFA U-20 大会への出場権が与えられる。1970年代末、イランが台頭して以来アジアの勢力図は中近東諸国が優勢を占めるようになり1984年ロス五輪ではアジアからの代表3カ国はカタール、サウジアラビア、イラクと中近東勢で占められてしまった。その後韓国がアジアの盟主として君臨するようになったが勢力図では中東勢に対抗できたのは東南アジアを含めても韓国だけであった。それが1990年代に入り日本がJリーグの旗揚げをきっかけにアジアのトップクラスに躍り出た事から東アジア勢が中東勢と対抗出来る様になった。そして今大会の準々決勝の結果は今の勢力図を測ることが出来る一つの定規になるかもしれない。そんな中、日本と同居するグループCではイランが北朝鮮に破れ一次リーグを突破できなかったのは中東勢に取っては痛手であろう。 北朝鮮は日本に破れたあと中1日おいて初戦のタジキスタンを 3-1 で破ったイランと対戦。この強豪を 5-0 と粉砕してしまう。北朝鮮は日本戦のスタメンからメンバーを2人替えて来た。FWのパク・チョルミンとDFのイ・ヨンチョルを起用した。一方のイランはタジキスタン戦と同じメンバー。試合は立ち上りから北朝鮮の速攻が冴える。2分には左サイドを駆け上がった主将のキム・クムィルが入れたクロスをイ・ヨンチョルが頭で合わせて難なく先制。10分にも再びキム・クムィルがイランがジョン・チョルミンとの間にいたイランDF3人の間を“糸を通すような”スルーパスを入れそのままイランゴール右隅に蹴り込んで追加点。イランDF陣は北朝鮮のプレッシャーの前に最終ラインに6人、7人と選手が釘付け、その上このピッチコンディションではバウンドもままならずイランGKハギギ-を悩ました。17分にはモエウダッド・プーラーディーがグラウンダーのシュートを放つがポスト右に僅かにそれる。25分、今度はジョン・チョルミンがチャンスを演出しキム・クムィルが3点目を。ブラジル人のオリデイラ,イラン代表監督は34分に早くもアリ・アミルに替えてサマン・アガ・ザマニィを入れて中盤を厚くするが、後半に入っても北朝鮮の攻勢は変わらず47分に波状攻撃からイランGKハギギが至近距離からのショットを2回続けてセーブしたが3回目にキム・クムィルに押し込まれて4点目を喫した。そして77分には交替出場のリ・ファンリョンに5点目を献上し良い所無く惨敗を。ヨ・トンソプ北朝鮮代表監督は“初戦のイランの試合を近くで観察し徹底的に分析をした。そして初戦と異なった戦術を取り入れそれが功を奏した。DFでは長身DFのアルハミスとチャマナラそして相手MFカリリとグーダルゥジィを特にマークした。”と試合後語った。イランは続く日本を 2-1で破った。試合終了の瞬間は大喜びのイラン選手達だった。同時刻にスタートした北朝鮮対タジキスタンが0-0 のままだったからだ。しかしロスタイムに北朝鮮はジョン・チョルミンのゴールで勝利を収め得失点差で日本と共にベスト8進出を決めた。 北朝鮮は昨年ペルーで行われたFIFA U-17 でベスト8に進出。その時のメンバーが12名も含まれている。そして2年前静岡でAFC U-16 大会で日本戦を戦ったメンバーのうち9名が今大会メンバー入りしている。 北朝鮮チームのエースはロシアリーグのKryliya Sovetov でプレーするMFのチェ・ミョンホ。もちろんFIFA U-17ペルー大会に出場し3得点を挙げている。しかしそれ以上に北朝鮮の選手が国外でプレーしていたとは驚きだ(在日朝鮮人選手の例はあるが。) しかし今大会は怪我のため3試合でスタメン出場は無く3試合全て交替途中出場で出場時間も通算で40分だ。次の世界大会進出がかかったイラク戦ではどの程度出場機会があるだろうか?
参考までに日本はDF内田篤人と青山準の2人だけが2004年のアジアU-16大会に出場している。そして中国は2005年ペルー大会、2003年フィンランド大会に連続して FIFA U-17 に進出しているが、その大会を経験した選手は2名ずついる。 2005年大会の FIFA U-17出場選手は現在18歳以下。そして今大会は19歳まで出場資格がある。日本ではこの1歳の年齢差が非常に大きく、その1年に多くのタレントがいるのだ。北朝鮮の場合はどうなのだろう?2005年のペルー大会のメンバーが秀でているのか?それともこの世代に少数英才教育を施し、世界の舞台にと考えているのだろうか?
AFCユース大会といえばタイで開催された1976年、信じられないような事が起こった。1次リーグ、日本は地元タイ、北朝鮮と同じ組になり、3カ国とも2戦2分けであった。大会開始前、勝点、得失点差で3カ国が並べば準々決勝進出の上位2カ国は抽選で決めると規定されていたのだが、大会当局は突然再試合を行うと通達してきた。これはもう3試合行えば収益が上がる事と、地元タイ。そして当時強豪で人気の高かった北朝鮮を準々決勝に進出させる為であった。日本選手団はこの決定に怒りの“棄権”を決めたが、大会当局は“ならば宿泊費は負担できない。罰金を含めた違約金を支払え(約750万円)と通達してきた。”当時の日本サッカー協会は金が無くこんな“大金”は払えなかった。そして再試合が行われた。日本は強豪北朝鮮相手に 1-0 で勝利を収めるが続くタイに 0-3 で破れる。そしてタイは北朝鮮に“予定通り”2点差で破れて日本を除く両国が準々決勝に進出した。そして北朝鮮はイランと優勝を分け合った。タイではサッカーは人気スポーツの1つ。アジア大会でもサッカーだけ試合数を多くして収益を多く上げようとする。この事を思い出すたびにタイには絶対に世界への路を与えてはならないと思ってしまう。 11月7日に来年のカナダ行きを賭けてサウジアラビア戦に臨む日本ユース代表選手達は先輩達がスポーツマンシップにあるまじき振る舞いの犠牲にあった事を、その悔しさを晴らす思いでピッチに立ってもらいたい。 がんばれニッポン。

AFC ユース大会 ASEAN 諸国の挑戦

2006-11-04 | 五輪 U-20, U-17
インドのコルコタ、バンガローで開催されている AFC ユース大会 は1次リーグの全日程を終え、日本を含むベスト8が出揃った。
その顔ぶれを見るとほぼ予想通り。今回 ASEAN 地区から出て来た3カ国、タイ、ベトナム、マレーシアは残念ながら1次リーグで全て姿を消した。 これら3カ国は来年のアジアカップのホスト国(もう1つのインドネシアは予選J組でタイに破れて本大会出場出来ず。) ベトナムとマレーシアは共にグループDに組み入れられ、初戦で相対した。試合は開始11分、マレーシアDFバクティアルがベトナムのティン・クゥアン・ヌグイェンからのクロスをヘディングでクリアーしようとしたがそれを自陣のゴールに入れてしまい自殺点を献上してしまうが、前半ロスタイムにモハド・キリル・ムヒメーン・ザンブリの得点で同点に追いついた。しかしヴェトナムはティン・クアン・ヌグイェンが63分に逆転ゴールを決め、そのままベトナムが1点のリードを守って勝利を収め、グループDに同居するサウジアラビア、イラクへの挑戦権を手に入れた。かつては“東アジア王者”で韓国、日本を破って五輪に出場をしたマレーシアであったが、マレーシアユース代表のK・ラジャゴパル監督は2点目を喫してから3人の攻撃的な選手を投入するも同点ゴールは生まれなかった。今大会はシャフィク・ラヒムとモハド・ブニャミン・ウマール(共に膝前十字靭帯の再建手術からの復帰)、K・グルサミー、ファルデリン・カディル(共に膝の負傷)らが怪我から復調したものの、ハルディ・チャールズ・パルシ、モハド・アリフ・ファズリー・サイディン、モハド・ファウジ・アリッフィンのDF3名、モハド・ヌラリフ・ザイナル・アビディン(MF)、そしてストライカーのモハド・ザクアン・アドハ・アブドゥル・ラザクの5選手が大会直前に代表から怪我のためチームから離脱したのが痛かったとコメント。一方のヴェトナムは2002年カタール大会から3大会連続で本大会に進出。東南アジアでは今やタイに次いでナンバー2の地位にある。今大会の目標はベスト8。あわよくば来年のカナダ行きの切符をつかみたいところだったが続くイラク戦は厳しい戦いを強いられた。 バンガロールで行われた試合、イラクU-20代表アブドゥッラー・アブドゥル・ハミド監督は国情から来る準備不足を何度も嘆いてはいたものの、第1戦では強豪サウジアラビア相手にモハマド・ハルカードの試合終了間際の同点弾によって2-2で引き分けた。ベトナム戦ではハメード・アケール、ラフィド・モハメドそしてモハメド・マンソウルが先発に起用された。 一方、この試合に勝ってベスト8進出に向けて大きく前進したいベトナムは、マレーシア戦の先発MFトラン・ヴァン・ホンに替えてヌグイェン・ミン・コンを起用しイラク戦に臨んだ。試合は地力に優るイラクが華麗なパス回しと豊富な運動量でヴェトナムを圧倒。11分、ハルカードのクロスをベトナムゴール前でムハマド・ウサマが合わせ先制ゴールを突き刺した。 イラクはその後も13分、25分に決定機を掴むがヴェトナムGKビン・タン・ヌグイェンがピンチを凌いだ。そしての5分後にはベトナムがカン・ヌグイェン・ヴァンが左サイドのスペースを突破し、パワフルなシュートを放ったが、ボールはイラクゴールのわずかに左上にそれた。 そして36分、イラクはハルカードのパスを受けたクシェンが追加点を上げてリードを広げた。後半に入ってもイラクの攻勢が続くが ベトナムは74分、カイ・ヌグイェン・ヴァンがイラクペナルティエリア内でモフディーに倒されPKを得てそれをカイが決めて1点差とした。バーレーン人のアブドゥルハメード・エブラヒム主審はモフディーにイエローカードを出した。しかし81分、クゥオン・ヴォ・フアンの自陣ペナルティエリア内でのミスパスを拾ったイラクのクシェンが楽々とゴールを決めてイラクが 3-1 で勝利を収めた。それでも第3戦のサウジアラビア戦にはベスト8進出を賭けて臨んだ。サウジアラビアのジルソン・ヌネス監督は第2戦のマレーシア戦(2-0で勝利)と同じメンバーで、そしてベトナムのロン・レ・トゥアン監督はストライカーのヒエプ・プク・ヒュンと中盤のディエウ・ヌゴク・ヌグイェンを起用した布陣でこの試合に臨んだ。ヴェトナムは開始13分にPKを献上してしまいアルアルビシ・ユファイン。アリに先制ゴールを許し苦しい立ち上がりのヴェトナムはその後も防戦一方。終了間際にはナシル・アル・セリミのCKからゴール前の混戦となったところをモハメド・アル・ビシが押し込まれて2点目を献上し万事休す。 これで準々決勝の日本の対戦相手はサウジアラビアに決まった。試合後のヌネス監督は“日本は強豪でインターバルも我々より1日長い”とコメントしながらも準々決勝の日本戦には“自信がある”との言葉で締め括った。その要因とするのはセットプレーからの攻撃でこの日はCK7本のチャンスから1得点決めたがマレーシア戦の2得点は共にセットプレーから。日本はサウジのセットプレーには要注意だ。ヴェトナム得意のショートパスは劣悪なインドのピッチコンディションでは生きなかったか?中東の列強に対して最後は体力差で押し切られた感じだった。
そして東南アジアの雄、タイは初戦のUAE戦を劇的な勝利を収める最高のスタートを切った。
前半のUAEの猛攻を無失点に凌いだタイは後半開始早々の47分にダンダが先制ゴールを上げる。後半に入って別人の様に見違えたタイ、というよりもダンダがUAEゴールに迫り立て続けに2度決定機を掴むが追加点はならなかった。そして82分、UAEのジャケ・ボンネヴァイ監督はモハメド・アル・シェッヒに代えてイブラヒム・アリを投入。この交代が当たって89分にイブラヒム・アリが同点ゴールを決めた。その時のダンダの心境はどうだっただろう?しかし、彼を救ったのは後半ロスタイム、終了間際のドンチュイのヘディングシュート。このゴールでタイがUAEから貴重な勝ち点3を手にした。
タイのパヨン・クンナン監督は「我々がUAEにプレッシャーを与える1点目を取れたのはラッキーだった。この試合で勝ち点3を取れる最後の最後でのゴールを決められたことを嬉しく思う。」と語った。
落胆を隠せないUAEのジャケ・ボンネヴァイ監督は、1点のビハインドから立ち直るのが難しかったとし、「ミスによって1点を先行された。その後自身をなくしかけていた選手たちが立ち直るのは難しかった。同点には追いついたものの、集中力を欠いてしまい、勝ち点3という大きな代償を払うこととなった。」と語った。
続く11月1日に行われた第2戦は初戦の中国戦を0-1 と失ったオーストラリアが相手。もう星を落とせないオーストラリアは開始から強い当たりでタイゴールを襲い、ナサン・バーンズの2ゴールなどで3-1 でタイを退けた。
A-League Adelaide United 所属のバーンズは26分と後半ロスタイムに得点、そして32分にはQueensland Roar 所属のダリオ・ヴィドシッチがPKによる1点を決めた。タイはスッティヌン・プコンが39分に1点を返すにとどまった。オーストラリアは22分、エースストライカーのブルース・ジテがタイのMFクリアンクライ・ピムラトを蹴とばして退場と以降10人で戦う苦しい展開となったが、最後は実力がそのまま出た様だった。このジティも Adelaide United 所属。今大会、AFC ユース大会初出場のオーストラリアはメンバーの中でA League 所属の選手が5人。そして Kaz Patafta がポルトガルのベンフィカ、 David Williams がデンマークの Brondby に所属し、他の多くはAIS ( Australia Institute of Sports ) の所属。ここはオーストラリアのスポーツ育成機関とでも言おうか、多くの世界レベルの選手を産出しており、先の女子のバスケットボール世界選手権で優勝を飾ったオーストラリア代表チームの多くはここの所属だ。 オーストラリアのアンジェ・ポステコグロウ監督は “退場が出てもパニックに陥らず、肩を落とさなかった。その直後の先制ゴールがリズムをよくした”と語り、 “我々はファンタスティックな2得点を挙げ、私は今日の勝利を嬉しく思う。80分間を10人で戦ったが、選手たちは素晴らしいファイティングスピリットを見せた。”と続けた。タイのパヨン・クンナン監督は「今日はアンラッキーな日だった。我々は数的優位を生かせず、ストライカーはフィニッシュの精度にかけていた。」と言葉少なに語った。最終戦の相手は既に2勝を上げている中国。昨年のFIFA U-17 では北朝鮮と共にベスト8に進出を果たしたがこの大会にエントリーされているメンバーで 2005 FIFA U-17 大会に出場したのは2名のみ。この試合引分でもベスト8進出が決る中国は前半32分にシュ・デーンがその4分後、バイ・レイからのクロスに合わせてゴール前からヤン・シュがシュートするも得点には至らなかった。勝たねばならないタイは前半終了間際にアナウィン・ジュジェーンがシュートを放つと中国GKワン・ダレイが弾き、チャイナロン・タトンがリバウンドに合わせようとしたがショートミス。両チームとも得点無く前半を折り返した。後半に入って73分前のUAE戦で2得点を挙げたワン・ヨンポがジャン・イェに代わって投入されピッチに現れてからわずか5分後に30ヤードの位置から強烈なボレーシュートを放ち決勝点を挙げた。 タイのパヨン・クンナン監督は「この大会では運が無かった。選手たちは非常によくプレーしたが、決定機を生かせなかった。」と述べた。もう1つのグループCの試合はオーストラリアがUAEを 2-0 で降し、準々決勝は韓国とあたる事になった。本大会に進出したASEAN 3カ国。この中から何人かの選手が来年のアジアカップそして五輪予選に出て来ることだろう。ASEAN諸国もかつての様な“草刈場”に甘んじる事は無くなったが、東アジア、中東諸国と比較するとまだあと1歩という感が否めない。来年のアジアカップではホスト国のどこかがベスト8に進出出来るだろうか…. 続く

北京五輪 大陸別出場枠発表

2006-03-09 | 五輪 U-20, U-17
懸案になっている日中間の東シナ海排他的水域での資源開発問題、というよりも中国が日本領海内に存在する地下資源に手を出していると言ったほうが解り易いか? 珍しく日本は強行な態度を取り続けているというよりも、正当な主張を続けていると言えよう。靖国神社にしてもこの海底資源にしても世界の第三者の誰に訊いても中国の主張する事は正当性を欠いている。むしろ日本政府の及び腰外交を不思議がる人々の方が世界には多い。今地球上でここにしかない様な高度経済成長を続けている?中国はある意味では方々でお得意さんだ。オーストラリアでは1次産品が大量に中国に買われており、豪州ドルもこの一年で2割以上強くなっている。南米諸国でも大豆等の農産物をごっそりと中国の買い付け人が持って還るので好景気らしい。そしてかつては“修正主義”と非難し敵国視を続けていたロシアはその潤沢な原油資源を購入するために日ソ時代から共同開発をしているシベリア氷原に眠る原油を横取りしようとクレムリンに擦り寄っている。そうかと思えば軍事政権として悪評のミャンマー現政権に取り入るその理由はこの地を通って原油等輸入品を本国に引くルートを敷きたいからだ。 再来年に北京で五輪が開催されるが、この五輪後の中国経済を不安視する人が多い。その理由としてまず日本が円借款を以降打ち切る予定だからと言うことが挙げられる。 少し古いが2月14日、 FIFA Vice President と IOC 委員を兼任する Issa Hayatou 氏よりサッカーの大陸別出場割り当てが下記の様に発表された。 
アジアAFC:4カ国          アフリカCAF : 3カ国       北中米CONCACAF:2カ国
南米 CONMEBOL : 2カ国   オセアニアOFC : 1カ国      欧州UEFA : 4カ国 

注目のアジアは4カ国、そのうち1カ国は開催国の中国だから残り3カ国を予選を通じて争う。前回アテネ大会のアジア枠は3カ国。アジアで開催された1988年ソウル五輪ではホスト国、韓国を含めて3カ国 ( 中国、イラクが予選を突破 ) であったのでこの決定は日本にとっては吉報だ。 前回出場枠4だったアフリカ大陸 ( マリ, ガーナ、チュニジア、モロッコ)が1つ減らされ、他の大陸は前回と同じ。これはイラクがベスト4に残った事に寄与するのだろう。 ここで気になるのはオーストラリア。既に AFC に加盟しているのだからアジア大陸代表で予選にエントリーすると思う。そうなるとオセアニア地区、これはもうニュージーランドで決ったようなものだ。
また北京五輪サイドではフーリガン対策としてテロリストの対策用としても活用されるカメラをすえつけると新華社通信は伝えた。このカメラ、いくら変装、化粧しても当の本人と見破ることが出来るそうだ。対象になるのはもちろん地元中国のフーリガンだ。先のアジアカップでの日本に対する暴動、また1985年のワールドカップ予選で香港に敗れた後の暴動再発か? だが一昨年のアジアカップにおいては地元の警官隊が暴れる地元の市民を取り締まらなかった事が問題であったのだが。 この五輪でも同じ様なことが起こるかも。私的にはアジアの国々は各組に1カ国ずつ割り振られるので、準々決勝で日本が中国を破ると言うのが希望なのだが。その前に今から五輪予選を胸算用するのは早いのは承知だが、ざっとアジア諸国をみても韓国、オーストラリア、イラン、イラクと強豪が並ぶ。バーレーン、レバノン、UAE カタール サウジアラビア、 列挙するだけで少し不安になる。この五輪世代には平山、家永らが中心になるだろうが前回より激戦は避けられないだろう。 更なる強化を期待する。でも2年なんてあっという間にくるだろうな。俺も年をとるわけだわ。

中国、北朝鮮 ベスト8 FIFA U-17

2005-09-26 | 五輪 U-20, U-17
今回も南北朝鮮、中国、日本、ロシア、米国を含めた6カ国協議は何の進展も見られなかったと言えるだろう。22日には国連を訪問している崔守憲北朝鮮外務次官がアナン事務総長に年内に国連の食糧支援を含めた全ての人道的支援を中断する旨の要請を行ったらしい。食糧の生産量が増えた事と人道支援を政治的理由ににブッシュ政権が金正日体制の解体に結び付けないようにとの事であるが、それでいて社会インフラの開発支援は続けて欲しいと相変わらず勝手な事を公式に述べている。こういう国を相手に話し合いで物事など解決は出来るとは思わないのだが。中国も北朝鮮カードで対米政策を優位に進めたいのでここは常任理事国としてどういうコメントをするのか?? 一方南米の Peru で行われている FIFA U-17 大会、アジア勢ではカタールが1次リーグ落ちしたが中国と北朝鮮はベスト8に進出を決めた。アジア勢がこの大会でベスト8に進出するのは 1999年の ニュージーランド 大会以来3大会ぶりでアジア代表2カ国が1次リーグを突破するのは 1989年 スコットランド 大会以来だ。1985年に中国で最初に開催された U-17 大会は初回から第三回の1989年の大会までアジア代表3カ国のうち2カ国がベスト8に進出し、スコットランド大会ではサウジアラビア が決勝にまで進出。決勝では地元スコットランドを PK 戦で降して FIFA の公式大会では唯一アジア代表が優勝した大会となっている。U-17であるとまだ体力差が大きく影響するのでナイジェリア、ガーナといったアフリカ勢が2回ずつ優勝しているが、1997年のエジプト大会以降の4大会ではブラジルが3回、フランスが1回優勝している。これは南米クラブが、若い選手を欧州に売り込む為に同大会に力を入れだしたのと欧州勢がジュニアの育成に力を入れ始めが大きく寄与している。また歴代アジア代表国に目を向けると11大会中カタールが7回、オマーンが3回、バーレーンが2回代表になっている。これは中東諸国の選手と東南アジア選手の体力差が挙げられているが、その前に年齢詐称がもっと寄与していると言われている。事実これだけ実績がありながらカタールが五輪でベスト8の実績がある程度で3カ国ともまだワールドカップの出場実績は無い。
今大会の中国、北朝鮮を見るとこれは将来が楽しみだ。中国はホスト国ペルーを 1-0 で破り地元ペルーを1次リーグで敗退させる要因を作った。一方の北朝鮮。初戦はアメリカ相手に壮絶な点の取り合いを演じたが 2-3 で敗れたものの次戦のコートダジュール(象牙海岸)を 3-0 と一蹴。そしてベスト8を賭けてイタリアと対戦するという 1966年の再現の様な組み合わせとなった。今回は得失点差で下回るイタリアが勝たねばならないと言う状況は1966年とは異なるが。Francesco Rocca 監督は先の米国戦から選手5人を替えて臨めば北朝鮮 Jo Tong Sop 監督は不動のメンバーで。先制点は北朝鮮のキム=クックジンが 25m のFKのリバウンドを押し込んで決めた。以降も北朝鮮が主導権を握り前半ロスタイムにはキムが再び絶好機を迎えたが逸してしまう。後半に入ると72分にそのキムが2枚目の警告で退場。北朝鮮が1人少なくなるのも 1996 年の反対だ。そしてイタリアは猛攻に転じるが同点に追いついたのはロスタイムに入った92分。そして欧州勢では最初の帰国が決まった。 Franceco Rocca 監督は“朝鮮の選手はすばらしかったことを認めねばならない。最初のオフサイドゴールが認められていたら違った結果になっただろうに。しかしこの経験が選手達には貴重なものになる。FIFA と大会関係者そしてペルーの人々には感謝をしたい”と紳士的に帰国の途についた。
準々決勝では北朝鮮はブラジルに延長戦で 1-3と破れ、中国は トルコ に 1-5 で完敗しアジア勢は残念ながらここまでであった。 
U-20 ユースレベルでは日本は 1995年大会から常連だが、U-17 は地元開催の1993年大会のベスト8が最高で、まだ3回しか出場していない。まぁ高校生の本分は勉強であるが、この大会にも常連になって欲しいものだ。がんばれ中学生、高校生!

日本ユース ベスト8ならず

2005-06-26 | 五輪 U-20, U-17
終了直前涙の失点 ベスト8ならず!!
話題が前後するが、現地時間の6月21日にオランダ、エンスヘデで行われたFIFAワールドユース大会の決勝トーナメント1回戦で日本ユース代表はモロッコに0-1で敗れ、日本は未勝利で大会を後にすることになった。また中国(対ドイツ)、シリア(対ブラジル)も破れ決勝トーナメントに進出したアジア勢の全てがベスト8を前にして消えた。全大会は日本、UAEが準々決勝まで残り日本の坂田が得点王、UAEのイスマイル=マタルが大会MVPとアジア勢は大いに気をはいたが、今大会はそうはいかなかった。やはり欧州での大会は甘くは無かった。

これからに向かって
モロッコ戦はオランダ戦同様“アウェーゲーム”であった。20世紀半ばまで欧州諸国が取った植民地政策に影響もあり欧州はアフリカからの移民が多い。観客席も8割がモロッコの応援であった。試合前の国歌吹奏では昨年のアジア杯ほどでは無いが、観客から口笛が吹かれていた。このモロッコチームもオランダ、ベルギー、フランスの2重国籍を持った選手がおり、欧州のクラブチームでプレーする選手も多くいるらしい。アフリカ大陸予選を第4位で通過したが、組織的な戦術よりも個人的能力に頼った内容で勝ち抜いて来たのだろう。日本戦も1対1では互角以上の勝負を見せたが、細かいダイレクトパスを繋がれると対応出来ない場面が続いた。 この日の日本は主将の兵藤はベンチで水野がスタメンに起用されたが、彼のFKから2得点演出された事をかわれての事であろう。それも明日が無いトーナメント戦ならではだ。前線はカレンと平山の登録だが、実際は平山のワントップにカレンが右、家永が左に配置され、平山の後ろに水野。更に後ろに梶山、小林が陣取り 4-5-1 に近いシステムに。
立ち上がりは3トップのモロッコがスピードで押して来たが15分を過ぎると日本が優勢に試合を進める様になった。それは水野が左右に動いてボールキープをし、その間に水本、小林が上がりペナルティーエリア付近で数的優位を保てる様になったからだ。この試合でも平山は高さで相手DFを圧倒。彼を目標にボールを放り込めばそこから充分ためが出来るので、2列目以後もやり易かったであろう。得点に結びつかなかったのは彼のこぼれ球への寄せの速さがやや及ばなかったからだろう。特にカレンは世界標準のその速さを今後の教訓とするだろう。だが、彼の前線からのプレスが無ければもっと苦戦をしていただろう。この試合のカレンは最高の出来でシュートは2度ポストを叩き、失点後の最後のミドルもわずかにゴールポスト左に外れるなど不運は払拭出来なかったがその課題は今後克服してくれるだろう。水本が高い位置でプレーする時間が長かったがそれもカレンを始め前線からの守備が功を奏していたからだ。 後半はモロッコがドリブル中心に攻撃をしかけるが、決定機は少なかった。59分には家長に替わってオーストラリア戦決勝ゴールの前田、71分には兵藤が水野に替わって投入される。注目の森本はいつ登場か?と思っていたが終了直前に失点を喫してからの投入であった。大熊監督は恐らく延長戦を考えたのだろう。勝敗の差はやはり経験だろう。1次リーグでは格上と見られるチリを破っての決勝トーナメントだが、その勝負強さは、来季からアヤックスとトップチーム契約を締結した交代出場のティベルカニーやフランスユースからの召集がかかった事もあるエルザールの様な競争を生き抜く術が自然と身に着く欧州でプレーする選手達がいる事で、Jリーグでもレギュラーを張る選手が半数以下の日本との差であろう。
平山、兵藤は大学生だが、私は学生スポーツ支持者である。彼らの人生だ。彼らの進学に意見具申する権利は他の誰にも無い。この敗戦でユースチームは解散するが、彼らの進化はまだ続く。ユースの最大の目標は一試合でも多くこの様な試合を経験し今後に繋げる為で有り、そういう意味では勝つと言うよりも、もう一試合行いたかったであろうが、この試合で出来なかった事を3年後の北京五輪、そして5年後の南アフリカワールド杯で我々に見せてくれるだろう。
かつてユースチームは、高校生、大学生が主体で世界の舞台はなかなか行けなかった。しかし、資金の無かった当時の協会は無理をしてでも欧州遠征などの費用を捻出し将来に投資をした。
そして1995年以降6大会連続でアジアを勝ち抜いた。各年齢別代表の強化無くして代表の強化は無い。そしてスポーツは全てが積み重ねだ。サッカーだけでなく全てのスポーツが順調に強化される事を願う。