Mr.コンティのRising JAPAN

マスコミの書かない&書きそうもない!スポーツ界の雑学・裏話を、サッカーを中心にコメントを掲載していきます。

アジアユース決勝進出 さぁ豊臣秀吉だ

2006-11-12 | 五輪 U-20, U-17
9日午後10時少し前、今夏購入した自慢の液晶テレビをBS朝日に合わせる。結婚以来16年間使い続けていた最後の電化製品、21型のカラーテレビがついに買い替えの時期にさしかかり、今年も予想外に低かった夏のボーナスを叩いて購入したのがこの液晶テレビ。カラーテレビを下取って貰う際に“結婚したときに買い揃えた思い出の品がどんどん無くなるね”と感傷的な台詞を吐いたのは私の方で、家内は“そうよ。時は流れてどんどん変って行くのよ。あんたもかわんなさいよ。”と返されてしまった。お前も変わったなぁ。
しかし新しいテレビのおかげで民放のBS放送を視れてインドのコルコタ、バンガローで開催されている AFC アジアユース選手権が楽しめる。と言っても私の好み番組の優先順位は家庭内で最下位。しかもこの日は帰宅が午後9時前だった。とんねるずのみなさんのおかげでしたが終わってようやくこちらがテレビのリモコンを握れるようになりチャンネルをBSに。するとPK戦の真っ最中であった。日本時間の午後7時半から中継が始まっているのでこの時間までやっているのはPK戦にまでもつれ込んだからだ。丁度4人目の森島が決めて 2-0としたところだった。続く朴玹範はGK林の反対を突いてゴール左隅に決めた。これは何と韓国が始めて決めたPKだった。日本は5人目の森重が決めれば決勝進出がきまるところだったが、GKのほぼ正面に蹴ってしまう。韓国5人目ペスンジンが決めて同点に追いつく。本当に韓国は勝負強いししぶとい。日本はサドンデスに入った6人目青木が決め。韓国6人目崔淳のキックを林が左に飛んでストップ。この瞬間アジアユースでの韓国戦の連敗を5でストップした。これまでアジアユースでの直接対決は地域予選の試合を含めて23回対戦した中で日本ユース代表が勝ったのはたった2回。通算成績は日本の2勝4分(PK戦で1勝2敗)17敗。その2勝も川口能活らを擁した1992年ソウルでの1次予選と1994年中田英寿らが活躍したジャカルタで開催されたアジアユース1次リーグ戦。90年代に入るまではA代表以上にユース代表は歯が立たなかった。そして1972年から通算15回に渡って開催された日韓定期戦では対戦成績が日本の3勝10敗2分けと全く相手にならなかったがその“前座”として行われた学生代表の対戦で日本が韓国学生代表に勝った事は無かった。年代別の戦績ではA代表以上に相手にならなかったことがよく判るが、逆にユース、学生代表がこれだけ勝てないのではA代表で勝てるわけなどなかったのだ。韓国との力の差が激的に縮まったのは1993年から発足したJリーグ効果と見る人は多いが、私はそれだけとは思えない。1992年、上述したアジアユースでの初勝利(結局その4ヵ月後UAEで行われたアジアユース本大会準決勝で崔龍朱らのいた韓国に敗れてワールドユース出場出来なかったのは有名な話)そして2年後のジャカルタでの勝利。それから両国の学生選抜が相対するデンソーカップでの日本学生選抜の優位(今年は3月26日さいたまスタジアム2002で開催され日本が 4-2 で勝利)等代表予備軍の強化も見落とせない。 そしてその強化の賜物と言えるハイライトが2003年UAEで開催されたワールドユースでの逆転勝利だ。日韓史上初めて FIFA 公式大会で直接対戦したこの大会の決勝トーナメント1回戦。崔成国に先制点を許すも坂田(横浜Fマリノス)の連続ゴールで歴史的な勝利を上げた。昨年6月オランダで開催されたFIFA U-20 大会決勝トーナメント1回戦でモロッコに破れて以来この大会に向けてユースチーム造りが始まったのだが、この1年5ヶ月で4度韓国ユース代表と対戦し2勝1PK勝ち1敗とまずまずの対戦成績。前回アジアユース準決勝でのPK負けを含めて連続5試合この大会で勝ち星は無かったが、今回はチャンスだと思っていた。しかし、準々決勝までの4試合、日本はバンガローで戦い準決勝になって初めて1700km離れたコルコタに乗り込むことに。対戦相手の韓国はずっとコルコタに居座り続け、しかも1次リーグは対戦相手に恵まれた(ヨルダン、インド、キルギスタン)確かに準々決勝は優勝候補の定評があったオーストラリアであったが。 日本は目標であったワールドユース大会出場権獲得の準決勝進出を既に果たした後でモチベーションの問題が無くはなかった。DF柳川は準々決勝が終わると所属先のJ1昇格戦線にある神戸が故障者続出と言う理由で韓国戦を前に帰国している。(柳川は第二戦のタジキスタン戦で後半の25分から出場。第3戦のイラン戦はフル出場している)

しかし、韓国のマスコミはこの日本戦をかなり楽観視していた。
まだ準決勝も始まっていない11月8日付けの朝鮮日報では、イラクを2-0で降しベスト4に進出した北朝鮮を引き合いに出し早くも1990年以来、南北朝鮮が優勝を争いを演ずるのではとの期待を寄せていた。

http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/11/08/20061108000043.html

翌日10日付けの同紙でも今回の韓国ユースは史上最強で日本は格下との見出しが

http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/11/09/20061109000056.html

文末には今大会既に2ゴールを挙げている森島・柏木・河原そしてサウジアラビアとの準決勝で後半に交替で出場し、決勝ゴールを決めた青木にも警戒が必要と結んでいたが、ゴールを決めたのが森島と青木だった。
そして自国の敗戦のリベンジはどうやら決勝戦で日本と相対する同胞に賭けているようだ。

http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/11/11/20061111000027.html

上記の記事には最近の核開発問題や拉致被害者問題にも言及しているがそれらの問題は日朝間のみでなく、いやむしろ韓国の方がもっと身近な問題ではないのかな?

学生時代、八坂神社から清水寺へ抜ける道を当時付き合っていた歴代の女性とよく歩いた。ここは静かでそして古都の雰囲気がよく醸し出されている私の好きな路だった。そして道中豊国神社門前に“耳塚”と呼ばれる史跡がある。ここは鼻塚とも呼ばれ、豊臣秀吉が行った1592年~98年、文禄、慶長の役、所謂朝鮮出兵の時、討ち取った朝鮮、明国兵の耳や鼻をそぎ持ち帰ったものを葬った塚と言われている。当初は「鼻塚」と呼ばれていた。当時は戦功の証として死体の首を持ち帰るのが常であったが、日本まで距離があるために首の代わりにかさ張らない耳や鼻を、運搬中に腐敗するのを防ぐために、塩漬けにして持ち帰ったとされる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%B3%E5%A1%9A

秀吉の朝鮮出兵は朝鮮半島の侵略と韓国人は学校で習っているらしいが目的地は朝鮮半島でなく、当時中国を治めていた明王朝であった。その通り道に朝鮮半島があり結果的に多くの朝鮮人が犠牲になった。だがこのとき朝鮮の民衆は既に王や大臣を見限り、日本軍に協力する者が続出した。 これは、前述実録の「人心怨叛,與倭同心耳」、「我民亦曰:倭亦人也,吾等何必棄家而避也?」でうかがい知ることができる.また、明の朝鮮支援軍が駆けつけてみると、辺りに散らばる首の殆どが朝鮮の民であったと書かれてある。景福宮は、秀吉軍の入城前にはすでに灰燼となっており、 (ぬひ、奴隷の一種)は、秀吉軍を解放軍として迎え、の身分台帳を保管していた掌隷院に火を放った、とある。

しかし、この出兵は結果的に慶長の役勃発の翌年に秀吉が亡くなり撤退に。この戦争に過大な兵役を課せられた西国大名が疲弊し、豊臣政権の基盤を危うくする一方、諸大名中最大の石高を持ちながら、関東移封直後で新領地の整備のために九州への出陣止まりで朝鮮への派兵を免れた徳川家康が隠然たる力を持つようになった。五大老の筆頭となった家康は秀吉死後の和平交渉でも主導権を握り、実質的な政権運営者へとのし上がって行き、1600年の関が原の戦いを経て大坂冬の陣、夏の陣へと繋がりやがて徳川幕府設立となる。関西人の私としてはこのまま大阪に実権が留まっていてくれればなぁ、と何度思ったことか?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%87%BA%E5%85%B5

1965年12月29日。日韓交渉が妥結されたが、交渉のテーブルに着いた当時の李承晩大統領は日本側の役人(当時は大平さんだったかな?)に“加藤清正が退治したので韓国には虎はもういません”と言ったとか?

今は平和な21世紀。歴史認識、歴史問題と提起する左翼、韓国マスコミの人々に言わせて貰おう。
次は北朝鮮に勝って豊臣秀吉の成し遂げられなかったアジア統一を達成しよう。

がんばれニッポン。


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