歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

坂野家住宅の月波楼は“つきなみろう”ですか?

2009年12月09日 | 建物の話し
昨日の続きです。

江戸時代の主屋から、明治大正時代に移ります。

主屋から書院へ


障子に、柱に、濡れ縁越しのススキ。“わび”と“さび”の風景です。


この太鼓の渡り廊下は最近のものです。思い出します、母の実家の寺にも、むかし、庫裡と本堂を繋ぐ太鼓の渡り廊下がありました。


“月波楼”だそうです。月波楼と云えば、あの、世界に誇る“桂離宮”です。坂野さんも、かなり、大きくでたものです。

でも、もしかして、“月波楼(げっぱろう)”と読むのでは洒落にならないと、文人として来客に謙遜しつつ、「つきなみろう」と云って笑いをとっていたのかもねェ。


渡り廊下の先の壁際にはオルガンです。新しいモノは好きなようです。


立派なお部屋です。


天井にも飾り細工を施しています。


あかり取りに、


違い棚に、書院に、


こちらは、庭の眺め。


あちらには、女性のグループ。


こちらは北側の廊下です。うす暗い湿っぽさが懐かしい。


書院の欄間。


奥は、手水場です。この感じ、母の実家の風景を思いだします。夏になると、こんな廊下に座って、スイカやトウモロコシや真桑瓜を食べたものです、薄っすらと手水場の臭いが漂っていました。


廊下の灯りもこんな風。


タイル張りで、当時としてはかなり洒落ていたのでしょう。


唐傘天井だそうです。いろいろ凝っているのです。


薄暗い廊下の、古びた戸を開けると、ビックリです! 明るく輝く、最新鋭のトイレが出現したのです。


実は、この月波楼、一部屋一時間千円を払うと、会合などに使用できるのです。常総市の指定文化財ですから、使用目的はそれなりに限定されると思います。会合などでは、トイレはとても重要です。


まだ、まだ、坂野家住宅の見学は続きます。


それでは、また明日。


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坂野家住宅は本陣並でした

2009年12月08日 | 建物の話し
先週の続きです。

昨日は更新をお休みしました。日曜日は孫の幼稚園で発表会があり、そして月曜は“いろいろあって”それなりに忙しかったのです。

まぁ、それは、それで、「坂野家住宅」の続きです。

先ずは、裏口から裏庭に出て、裏からの様子を眺めます。


井戸です。こういう釣瓶式の井戸がいつ頃まで使われ、そして、どうして、何故?今でも残っているのでしょうか?


まぁ、そんな事を云えば、茅葺き屋根の古い民家が、今でも残っている方がもっと、もっと不思議です。茅葺き民家はときどき訪れ見学するには良いのですが、日々暮らして行くには、けっこう不便では?と思うのです。

ここだけではなく、各地いろいろな古民家も、意識して残したのではなく、結果として残ってしまった方が、たぶん多いい様な気がします。これって、貧乏人の“やっかみ”でしょうか?

お金持ちだったならば、江戸、明治、大正、昭和と、その時代にふさわしい最新式の住居に住み変えたと思うのです。

でも、しかし、その時々の、爺ちゃん、婆ちゃんが、ご先祖様の歴史が刻まれ、想いが刻まれ、暮らしが刻まれ、そして、生まれ育った住み慣れた家を、自分の代で取り壊すには忍びなかった?・・・・・・ まぁ、そんな事で、今も残されたりもするか?

でも、ここ坂野家では、時代毎に最新の家を建てたようです。隣には大正時代の書院造りの家が建ち、裏手には現在の家が建っていたような?

まぁ、いろいろな事情のなか、壊される事も無く、ここに残り、保存されている訳です。

それにしても、井戸が、ここにも、


そして、あちらと、そちらに、都合三カ所もあるのです。各時代毎に掘ったのでしょうか? 水は大切ですからね。


このアングルもなかなかと思って眺めていたら、


茅葺きの“茅”が何層にもなっているのを発見。

こういう断面をしみじみ眺めた事は初めてですが、たぶん、これまでになかったと思います。これって葺き方の問題なのか、材料的な問題なのか? 今度、そのうち調べます。

いよいよ、母屋?主屋?の客間から拝見します。廊下も畳敷き? アレ、もしかして、薄縁だったかも?


先ずは、一番奥の主賓の間?からは、庭が見渡せるのです。


こんな眺めになります。


このように客間が四つ並んでいます。


大事なことを忘れていました。主賓の間の裏手には“厠”になっており、こちらが“大”


こちらは“小”の方となっております。当然、現在は使用禁止で見るだけになっています。



それでは、室内に入ります。主賓の間には、床の間に違い棚。


うん。まぁ、そうか、そうかの欄間です。


そして、前に付いていた大きな釘隠の痕が残る、一回り小さい釘隠。右横には解体修理の時に付けられたと思われる“⑥”のチョーク書きが残っています。こういうモノは、復元完了後はしっかり消しましょうね。


まぁ、こんな感じ、


そして、こんな感じです。


確かに、武家屋敷のようです。農民と云っても大地主の豪農だったようですから、このような屋敷を建てることが、財政的にも、格式的にも可能だったのでしょう。

この、次の間付きの主賓の間ですが、もしかして、藩主クラスも?と思ったのですが、ふつう大名クラスが宿泊するのであれば、他の部屋より一段高く造られますから、ここは、やはり、藩の上級武士クラスを招いた部屋だったのでしょう。

それにしても、宿場の本陣並のお屋敷です。まだ、まだ、坂野家住宅の見学は続きます。


それでは、また明日。


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重文坂野家住宅でビデオ鑑賞

2009年12月04日 | 建物の話し
昨日の続きです。

いよいよ、坂野家住宅の主屋を見学します。重文にはこの“主屋と薬医門”が指定されています。元禄年間の中頃の建築だそうですから、だいたい300年ほど前の建築様式です。

現在の建物は、1998年に坂野家から水海道市が買い取り、3年ほど掛けて復元工事が行われ2006年から一般公開されているそうです。復元工事費は約3億2千万円ほどだったそうです。まぁ、そのくらいの費用はかかるしょう。


この手の古民家を何百年も個人で所有するには、何代にも渡り新たに財産を蓄積し続け、そして、明治維新の混乱を乗り越え、戦後の農地解放を乗り越え、何代もの相続税を乗り越え、大変な努力と能力と運と根性が必要なのです。


先ずは、外観から、武家屋敷風の造り、客殿の玄関として、かなりの上級武士、もしかして、藩主クラスもここで出迎えた気がします。駕籠も横付けできそうです。


板戸にはベンガラが塗られているようです。


こちらが博物館の入り口です。家人は通常ここから出入りしていたのでしょう。


受付には誰も居ません。不在の時には脇に置かれた“板木”を叩けとありましたので、木槌で3回叩きあたりを見回し、叩いては見回しを三度繰り返し、数分間待ち、やっと奥の方から60代の男性が現れ、300円を渡したのです。

待ち時間は、たぶん5分以上はあったと思います。その間、このまま黙って入場するか?と、思ったりしもしたのですが、それでは、ゆっくり、じっくり、落ち着いて見学できませんから、じっと待ったのでした。


先客は、見えた限りで4~5人程度で、中高年の方達ばかりでした。若い方はこのような古民家には興味を示さないのがふつうなのです。ぐっと若い小中学生になると、郷土の歴史の“お勉強”で学校から連れてこられるのです。


この竈は復元です。


いつも思うのですが、くねくね曲がった木材で、水平垂直を出して組み上げるのは、“現場合わせ”なのでしょうか?


珍しい継ぎ方です。


これは、増築した際の継ぎ目でしょうかね?


土間のあちらこちら、上を見たり下を見たりしていると、先ほど受付係りの人が近寄って来て、

「短いですから、紹介のビデオをみますか?」
「短い?」、
「はい15分程度です」
「そうですか、それでは」

と云う事で、土間の端っこの長椅子にひとりで座り、ビデオ鑑賞となりました。


ビデオは、復元工事の様子もあり、作業服を着て、安全靴を履き、ヘルメットを被った女性学芸員?の説明する様子が、とても“印象”に残りました。

何処が?どのように?と、聞かれると・・・・・・困るのです。

学術的な内容ではなくて、日常では見かけない女性の出で立ちでの説明風景が、う~ん、やっぱり、何処か変だったのです。

それなりに似合っていたのですが、女性として、その出で立ちで“ビデオを撮られる事”に、何処か納得していない様子を感じたのです。

話が違う方向にいってしまいました。

この先は、次回とします。


金曜日ですから、それでは、また来週。


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坂野家住宅は山城のようでかなりです。

2009年12月03日 | 建物の話し
昨日の続きです。

坂野家住宅に到着です。

しかし、何ですが、“住宅”ですよ、ど~も、住宅と云われると、木造平屋建ての同じような家が建ち並び、“洗濯物ひらひら”で、子供達が路地を駆け回る、そんな風景が浮かんでしまうのです。

まぁ、兎に角、水海道の風土博物館なのです。それで、脇に駐車場があるのですが、住宅は見当たらず、何処をどう行けばいいのか、周囲の様子をキョロキョロ窺ったのです。

奥の方に説明板を発見。


国指定の重要文化財だったのです。知りませんでした。


重文ともなると、やはり、無料とはいかないようで、大人300円です。


かなり、広大な敷地のお屋敷のようです。


住宅への道のとば口は、何となの頼りない細い道なのです。ホントにこれで間違いないの?と、多少の不安を抱きつつ坂を下ったのです。


下った先に東屋が見えてきました。


そして、左手に、これはホント見事!な孟宗竹の竹林です。


建物が見えてきました。これはもう、住宅と云うよりも、山城の趣です。


これは、予想をかなり超えています。坂野さんのお家は相当立派みたい? 


茅葺きの薬医門、かなりの重量感です。


坂野家住宅、これまでの処、かなり期待できそうです。


門から続く塀と云い、石畳と云い、植裁と云い、その先の主屋と云い、かなりです。


茅葺きの主屋、玄関前を飾る樹、その枝ぶり、かなりです。


坂野家住宅、外部も、内部も、これからじっくり見学です。


それでは、また明日。


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大生郷天満宮で“うら若き二人”

2009年12月02日 | お寺・神社
昨日は、ちょっとした野暮用で、朝から昼過ぎまで東京に出掛けていました。それで、ブログの更新はお休みしました。

本日は一昨日の続きとなります。

それで、天満宮の御社殿の方に向かいます。


駐車場の脇から登り道になるのですが、実は、これ裏参道だったのです。案内板を辿り、行き着いた処がこれです。“何かねェ~”でした。まぁ、どちらかと云えば、表より裏が好きですけど・・・・・・。


ここにも“裏好き”の方が居られて、道の傍らの薄暗い木立の下で、“うら若い”女性がスケッチをしていたのです。裏側から社殿を描くうら若い女性です。

気にしない素振りで、ゆっくりと自転車を押しながら、脇目でチラッと絵を覗いたのですが、キャンバスには何も描かれていませんでした。女性は、頬に手をあて、眼をとじ、瞑想中のようです。

このアングルからだと、薄暗い木立に先に浮かぶ、陽が降り注ぎ輝く社殿、この明と暗のコントラストが構図として面白いかも? なぁ~て思いつつ、自転車を押しつつ、そして、うら若い女性を不思議に思いつつ境内に向かったのです。


こんな感じの、


ふつうの神社です。


こんな記念事業の真っ最中なのです。このご時世で2億円、御神苑の完成予想図から見て、2億円それほど高額とは思えないような、そうでもないような?


そして、また、ここにも、うら若いスケッチをする女性がいたのです。裏と表に社殿を描く女性が2名。まぁ、こちらは中学生でしょうかね。

気にとめない風をして、距離を置いて、ゆっくり、静かに、傍らを通過したのです。しかし、女性から“コンニチワ”と可愛く挨拶されたのです。


こちらも、すこし慌てて“ハィ、コンニチワ”と返したのでした。怪しい人には先に声をかけ、相手を牽制するのは防犯の鉄則なのです。彼女に怪しまれたのです。たぶん。

たまたま、無関係の方が同時に、裏と表でスケッチしていたとは思えません。二人は、同級生でお友達? それとも姉妹? もしかして、裏に居た“うら若く”見えた女性は、ホントは“うら若く無い”お母さんだったりして?

罰当たりな事に神社の参拝よりも、二人の関係に思いを巡らしてしまいました。帰りは、来た道を戻ったのですが、それとなく、何気なく、気付かれないように、裏の女性を観察したのですが、キャンバスに眼を落とし年齢は窺い知ることは出来ませんでした。

予定外の見学で、予定外の時間を使いました。先を急ぎます。

5分ほどペダルを漕ぐと、見えてきました、あの林のあたりが、たぶん、坂野家住宅です。


次回は、いよいよ、坂野家住宅の見学です。


それでは、また明日。


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東京の秋色と仁王様

2009年12月01日 | 東京の風景
東京も秋色でした。


ホントに、真きき、



ホントに、真黄黄、



ホントに、マキキ・・・・・・、の秋です。


“吽”の仁王様、秋は如何ですか?



“阿”の仁王様、秋は如何ですか?




東京、某所の、秋景色でした。

さぁ~て、ここは、どこでしょうねェ。





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