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近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

歴史は誰かが描いた筋書きですか?

2010年01月20日 | 下山事件
昨日の続きです。

“「下山事件」謀略論の歴史”を読み、他殺説から自殺説に傾きつつ、書いているのですが、謀略説は話として面白く、いろいろと楽しめるのですが、自殺説は“身も蓋も”無く、“そうだったの!”で終わってしまうのです。

謀略論は面白く、タネが尽きないのです。すべての事象は、その人の、立場、考え方で、いろいろに解釈できます。自殺説は謀略説の論拠を一つ一つ潰して行く作業なので、あまり想像的ではないのです。

自殺説は、どうしても、他殺説の反論として存在しているところに、いまいちなのです。確かに、下山総裁が、人員整理で苦悩し、そして、線路に飛び込んで死んだ。ただそれだけの事実ですから・・・・・・、読み物として、物語が無いのです。

ですから、謀略論は、それなりに歓迎されるのです。諸永祐司の「葬られた夏ー追跡・下山事件」(2002年)とか、森達也の「下山事件-シモヤマ・ケース」(2004年)とか、柴田哲孝「下山事件 最後の証言」(2005年)とか、今でも出版されるのです。

3冊とも読みましたが、確かに、読み物として、物語として、面白いのです。この3冊は、3人が週刊誌の連載で一緒に仕事をして、後に、3人が別々に出版したのですが、新しい事実は、あまりありません。

あの時期の政治情勢を考えれば、確かに国鉄総裁の死は、占領軍に有利に作用し、左翼勢力が衰退するキッカケになった事は歴史的事実です。

1949年の1月の総選挙で共産党が35議席を獲得、7月5日に下山事件が、そして10日後に三鷹事件が、1ヶ月後の8月17日に松川事件が、翌年の6月6日に日本共産党が非合法化、6月25日に朝鮮戦争が勃発。

この流れを考えると、個々の事件が、偶然、バラバラに発生したとは、とても思えない、誰か、筋書きを書いた奴が居ると、思うのが普通です。

すべては「朝鮮戦争」に向かっての体制作りだったと、そう考えても、そう無理の無いことです。松本清張の占領軍謀略説は、朝鮮戦争は、南から北へ侵攻が開戦のキッカケとの立場で書かれていたのです。

しかし、現在では、朝鮮戦争は“北から南へ”の侵攻が、開戦のキッカケだった事は、歴史的な事実として定着しているのです。朝鮮戦争の初期の南の敗走を考えれば、準備万端の開戦でなかった事を証明しています。

それと、佐藤一氏が、左翼勢力の衰退は日本共産党の責任と云っているのです。1950年にコミュンフォルムから日本共産党の弱腰批判を受け、指導部は混乱し、占領軍に丸腰で武装解放闘争を挑み自滅したと、そう主張しているのです。

途中、少し整理すると、

①遺体の状況は、生体轢断であった事が明らか・・・・・・最新の法医学からの結論
②朝鮮戦争は南からの侵攻・・・・・・歴史的事実
③左翼勢力の衰退は日本共産党の自滅が原因・・・・・・コミュンフォルム批判

こういう事実に対して、謀略説はあまり採り上げないのです。特に、謀略説は、当初、共産党に近い立場の人達が多く、共産党の指導方針の誤りには触れず、占領軍の弾圧に責任を転嫁する傾向があったのです。

私としても、「下山事件」が発生した時期は、確かに、日本の政治状況の転換点となった時期と、ピッタリ重なりますが、そうは見事に、誰かが、一連の筋書きを描いたとは、思えなくなりました。

今日は、ここでお終い。


それでは、また明日。



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