昨日の続きです。
ガラスの社屋が建つ敷地内の外れに、この建物が聳え立っています。多分、この建物もキッコーマンなのでしょう。
今回も、予備知識無しです。やはり、何と云っても「行き当たりバッタリ」が面白いのです。
近づき見上げると「興風会館」とあります。かなりの重量感です。
玄関の中央には、「キッコーマン美術部」の立て看板があり、やっぱり、キッコーマンのようです。
玄関脇には『登録有形文化財』を示す、青銅製のプレートが貼られていました。
玄関を入ると、石の廊下、石の階段、石の手摺りです。冷たい風がながれていました。
キッコーマン美術部の展覧会は地下のギャラリーで行われているようです。
階段を降り、ギャラリーを覗くと、受付が一人、観客も一人、とても静かです。
それらしく、そして、何となく展示作品を眺めて会場を一巡しました。展示されている絵も少なく、そして、一人が2~3点の作品を出品していました。
キッコーマン美術部の部員はかなり少ないようです。受付の男性に質問しました。
「この建物はキッコーマンの所有なのですか?」
「いいえ、違いますよ。昔はそうだったようですが・・・・・・・、土地はキッコーマンのものかも? 知れませんけど・・・・・・」
何だか良く判らない返事でした。
彼は、興風会ではなく美術部の方でしょうから、建物の事は知らないのでしょう。絵の質問ではなく、建物に対して質問をする客が変なのです。
帰宅後に調べてみました。
1928年にキッコーマンの前身「野田醤油株式会社」が、地域の文化向上を目指して、社会教育団体として「興風会」を設立したのです。
やっぱり、ここも、間違いなくキッコーマンでした。
設立の翌年、1929年(昭和4年)に「興風会館」が竣工しました。竣工当時は、千葉県庁に次ぐ大建築だったそうです。さすがキッコーマンです
設計者は当時、デザインの巧みな建築家として知られていた大森茂と云う建築家で、神田駿河台の明治大学旧校舎も設計した人です。
ギャラリーを後にして、暫くぶりの、恒例「トイレ」チェックです。
素晴らしい! 白いペンキが塗られた木製のドアです。真鍮のドアノブと調和しています。
懐かしいです。昔、小さい頃に、母に連れられて行った「お医者さん」のドアを思いだしました。興風会館は「トイレ」がイイです。
昔を想い「しみじみ」とした気持ちで、用を足す事ができました。
それで何ですが、この「興風会」ですが、設立の1928年(昭和3年)には、いろいろと「意味」があるようです。
「興風会」の設立の趣旨は、
-------興風会ホームページより引用--------
「これまでの発展も地域社会の援助のおかげであり、会社はこれに報いるような努力をすべきである」という考えが経営者陣に広まり、「野田の土地柄を大切にしながら、今後の街の発展のために新風を興そう」と、昭和3年11月、ご大典記念に千秋社からの寄付によって財団法人興風会を設立しました。
翌4年には会館が竣工し、以来、興風会は社会教化事業の推進を主たる目的として活動しています。
興風会の名称は、「民風作興」という言葉から生まれました。野田の街に、人々に、新しい風を興していこうという意図に基づいています。
そして、その意図の根底には、地域への熱い想いが流れています。
------- 引用終わり -------
何故? 1928年に、・・・・・・『これまでの発展も地域社会の援助のおかげであり、会社はこれに報いるような努力をすべきである』という考えが・・・・・・、経営陣に何故、広まったのでしょうか?
これには、キッコーマン=興風会も触れたくない「歴史的な事件」があったのです。
長くなりました、続きは次回とします。
それではまた明日。
ガラスの社屋が建つ敷地内の外れに、この建物が聳え立っています。多分、この建物もキッコーマンなのでしょう。
今回も、予備知識無しです。やはり、何と云っても「行き当たりバッタリ」が面白いのです。
近づき見上げると「興風会館」とあります。かなりの重量感です。
玄関の中央には、「キッコーマン美術部」の立て看板があり、やっぱり、キッコーマンのようです。
玄関脇には『登録有形文化財』を示す、青銅製のプレートが貼られていました。
玄関を入ると、石の廊下、石の階段、石の手摺りです。冷たい風がながれていました。
キッコーマン美術部の展覧会は地下のギャラリーで行われているようです。
階段を降り、ギャラリーを覗くと、受付が一人、観客も一人、とても静かです。
それらしく、そして、何となく展示作品を眺めて会場を一巡しました。展示されている絵も少なく、そして、一人が2~3点の作品を出品していました。
キッコーマン美術部の部員はかなり少ないようです。受付の男性に質問しました。
「この建物はキッコーマンの所有なのですか?」
「いいえ、違いますよ。昔はそうだったようですが・・・・・・・、土地はキッコーマンのものかも? 知れませんけど・・・・・・」
何だか良く判らない返事でした。
彼は、興風会ではなく美術部の方でしょうから、建物の事は知らないのでしょう。絵の質問ではなく、建物に対して質問をする客が変なのです。
帰宅後に調べてみました。
1928年にキッコーマンの前身「野田醤油株式会社」が、地域の文化向上を目指して、社会教育団体として「興風会」を設立したのです。
やっぱり、ここも、間違いなくキッコーマンでした。
設立の翌年、1929年(昭和4年)に「興風会館」が竣工しました。竣工当時は、千葉県庁に次ぐ大建築だったそうです。さすがキッコーマンです
設計者は当時、デザインの巧みな建築家として知られていた大森茂と云う建築家で、神田駿河台の明治大学旧校舎も設計した人です。
ギャラリーを後にして、暫くぶりの、恒例「トイレ」チェックです。
素晴らしい! 白いペンキが塗られた木製のドアです。真鍮のドアノブと調和しています。
懐かしいです。昔、小さい頃に、母に連れられて行った「お医者さん」のドアを思いだしました。興風会館は「トイレ」がイイです。
昔を想い「しみじみ」とした気持ちで、用を足す事ができました。
それで何ですが、この「興風会」ですが、設立の1928年(昭和3年)には、いろいろと「意味」があるようです。
「興風会」の設立の趣旨は、
-------興風会ホームページより引用--------
「これまでの発展も地域社会の援助のおかげであり、会社はこれに報いるような努力をすべきである」という考えが経営者陣に広まり、「野田の土地柄を大切にしながら、今後の街の発展のために新風を興そう」と、昭和3年11月、ご大典記念に千秋社からの寄付によって財団法人興風会を設立しました。
翌4年には会館が竣工し、以来、興風会は社会教化事業の推進を主たる目的として活動しています。
興風会の名称は、「民風作興」という言葉から生まれました。野田の街に、人々に、新しい風を興していこうという意図に基づいています。
そして、その意図の根底には、地域への熱い想いが流れています。
------- 引用終わり -------
何故? 1928年に、・・・・・・『これまでの発展も地域社会の援助のおかげであり、会社はこれに報いるような努力をすべきである』という考えが・・・・・・、経営陣に何故、広まったのでしょうか?
これには、キッコーマン=興風会も触れたくない「歴史的な事件」があったのです。
長くなりました、続きは次回とします。
それではまた明日。