昨日一段落つけた絵。休み休み描いたので。半年以上かかった。
「めぐみのマリア」
夏にミレーの「無原罪のお宿り」を山梨県立美術館で見た。
この絵はずいぶん昔から記憶に残っていて、聖母はまるで農家の娘に星飾りをひかえめに装わせたような純朴な少女だ。おずおずとした表情はかわいいが、派手さ華やかさはまったくなく、目をみはる美貌にも描かれてはいないから、たぶんあまり一般受けはしないだろう。
ほんとうの聖母、ユダヤの貧しい、たった十五歳の美少女の姿にはむしろ近いかもしれない。
農村に生きた敬虔なミレーは虚飾をしりぞけて、彼の理想のマリアを描いたのだろうと見つめた。
それに倣って、というのでもないけれど、わたしも自分の身近な姿のなかから,聖なるイノセント、マリアを描いてみたくなった。
ごく普通の無邪気な女の子、人種を問わず、世界中の少女の中に、聖母は実存するのでは、などと。
母になる年齢のはるか以前であっても、無垢な存在は、この世にゆたかなめぐみをもたらしてくれるにちがいない。
彼女たちを見ているだけで、気持ちが晴れやかになる、そんな聖母性を、と。
それからまた、このごろフェイスブックに入って、目をまるくすることばかり。
わたしは原発・戦争反対なので、そうした記事には敏感に反応する。そこに書かれている内容が真実だったら、とてもこわい、と考える。
こわい、と感じるのはわたしだけではないはずだ。
わたしはちいさな存在だし、友人も、今(と一応限定しておく)生きている社会もひろいとは言えないが、庶民のひとりとして、こういう視座を持つことは大切だと思う。
シェアすることで、誰かの迷惑になることもないと考える。
どんな大物がわたしに目をくれようとも思われないが、時代の流れ、大勢にさからう記事は、悪くすると誹謗中傷として、どこかの誰か、不特定の相手を傷つけ、不快を招くかもしれない。
でも、辛酸をなめ、さらに未来の社会に悪影響が及ぶかもしれない、と感じるから、あえて同意をかくさない。
そしてまた、この記事が絶対普遍とも思わない。今の現象を切り取り、将来への警鐘を鳴らしている。そこに共鳴する。
だから、これらの不安な「真実」がそうでなかったらいいなあ、とも願っている。
このごろつくづく、ネット社会は、末端神経症的だとしばしば感じる。交わされる言語の端を奇妙にねじまげることで、多くの現象がゆがんでいるのではあるまいか。それはユーモアでもなけれなエスプリでもない。ダイナミックな生の流れを歪曲する。鈍い狂気だ。すくなくとも健康とは思えない。
言葉のゆがみ、末端の屈折は、ほとんどネガティブなエモーションの受け皿にしかされていないことが言葉にとっていたましい。日本語だけだろうか?
言葉を愛するひとりとして、言霊のけがれを深くいたむ。