海と桜のピエタ。
ミケランジェロの稚拙な変奏。
わたしは彫刻の中であの作品が一番好き。
今回、自分で変奏を企て、ミケランジェロの創作について、いろいろ感じ直すこともあった。
この作品の聖母はまるで乙女のようにみずみずしい顔をしている。我が子を惨殺され、遺骸を膝に抱える母の苦悩、悲嘆は美的静謐に昇華され、母親らしい年齢を刻まないマリアの面は端正になめらかだ。
コレッジオのピエタは、同じ画面に若いマグダラのマリアが描きこまれているせいか、聖母はちゃんと中年女性の嘆き顔になっている。
わたしはコレッジオのその絵も、ミケランジェロ同様、うら若い聖母でも良かったろうに、と眺めた。
聖母の母性とマグダラの女性性との兼ね合いにしても、全人類の女性中、神の最高傑作という聖母は、年長けてもみずみずしかったのでは、という気がする。
さて、ミケランジェロの彫刻を目にすると、一瞬で魂を掴まれる魅惑に揺さぶられる。
聖母の表情はなめらかで、ドラマティックな激情を表してはいない。にもかかわらず、わたしはピエタの敬虔な悲嘆、深い感情にとらわれる。
なぜだろう?
わたしは聖母のまとう衣襞の彫り込む深いディナミズムが、このピエタの悲痛を表現していると感じる。実際、聖母の、ことにキリストを抱えた膝わまりから裾にかけて、幾重にも重なり、さまざまな厚みのある曲線と濃い陰翳をつくる布の表現に威圧されさえした。これはリアリズムだろうか?
どれだけたっぷりと大きな布をまとったら、こんな複雑精妙な襞が生まれるだろうか?
布、衣は言うまでもなく、対象を包み込む女性性の象徴だ。
ところどころで、衣の襞は濃く魅惑的な楕円、また半楕円の影をえぐる。その深い陰翳は、乙女の静謐を湛えた聖母の顔には表現されない、このピエタの主題全体の感情のふかさ、聖母マリアの苦悩を造形している、と。
それはミケランジェロの企みだったに違いない。衣の量感がリアリズムに沿ったつつましいものなら、この傑作がわたしたちに突き付けてくる強力な感動はないだろう。
わたしは自分の小品は海の上の聖母子とした。
海が好き、という理由もあるが、ミケランジェロの逞しい陰翳表現とは違う眺め方でマリアを描きたかったからだ。
わたしにとって、海は永遠だ。歓びも哀しみも受容して、天に接する。
マリアの衣擦れは波さやぎ、風の声。
聖母は船乗りを導く海の星と讃えられる。
わたしたちはみな、人生の荒波をしのいで渡る旅人。
復活祭のころ、日本は桜前線の只中だ。
神に感謝。