印象、桃頬

 

 ロシアの小説を読んでいた相棒が、そういう記述があると言って、訊いてきた。
「チマルさん、セロフって画家、知ってる?」

 知ってるよ、有名だよ、セロフ。特に、桃を持った女の子の絵がさ。
「そう、それそれ!」
 その箇所を読んでもらったけど、う~む、やっぱり小説家の眼というのは、対象をどこまでも深く掘り下げるもんだな。
 その絵、タイトルが桃で、女の子も実際桃を持ってるんだけど、この桃が全然、桃色じゃないんだよね。その代わりに女の子の服が桃色なんだよね。で、女の子の頬っぺたが、桃毛まで生えた熟れた桃みたいな頬っぺたなんだよねえ。……

 ヴァレンティン・セロフ(Valentin Serov)。両親はともに作曲家。が、父親は早くに死んでしまい、未亡人はちっちゃなセロフ坊やを連れてヨーロッパへ移る。
 で、パリでは同地に遊学中の、かの有名なロシア人画家レーピンと交流。レーピンはセロフ少年を大層可愛がったとか。

 まもなく母子は、鉄道王マモントフに招かれて、アブラムツェヴォの芸術家村に移る。そこで再びレーピンから、否、レーピンと言わず多くの最良の画家たちから、セロフは絵を学ぶ機会を得る。
 こんな幸運に恵まれたら、画才は伸び放題に伸びるしかない。セロフ少年は歳上画家らと競うなか、モデルの外観を素早く、確実に捉える早熟のデッサン力を身に着ける。ああ、のどかで楽しいアブラムツェヴォの生活よ!

 アカデミーに入学するが、パリへの旅行でフランス印象派を知ったセロフは、陽光が斑な光と影のハーモニーとなって画面に揺れる、色明るく鮮やかな、それでいてナチュラルな肖像画を描くようになる。
 上記の「桃と少女」の絵はその最初の作品で、ロシア印象派の始まりと言われる。マモントフの娘(多分)を描いたもの。
 フランス印象派など何のことやら、という当時のロシア画壇では、旧来からのリアリズム手法の画家たちが、あの斑点では画廊が梅毒に感染してしまう、とかなんとか、ブーブー文句を言ったとか。

 でもまあ、この感覚的な、新しいスタイルの人物画で、セロフは当時最も成功した肖像画家となった。著名な知識人、文化人たちを数多く描いている。

 画風の冒険はあまりなかったけれど、移動派や芸術世界派にも参加し、1905年、血の日曜日事件の際には、抗議の意味でアカデミーを脱退、民主的信条を表明した。立派、立派!

 画像は、セロフ「桃を持った少女」。
  ヴァレンティン・セロフ(Valentin Serov, 1865-1911, Russian)
 他、左から、
  「子供たち」
  「村」
  「十月、ドモトカノヴォ」
  「フィンランドの農場」
  「バレエ・シルフィールドを踊るアンナ・パブロワ」

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光と装飾の印象

 

 私がロシア印象派と聞いて最初に思い浮かぶのは、コンスタンティン・コロヴィン(Konstantin Korovin)。

 なんでかな。印象派周辺のアメリカ画家ジョン・シンガー・サージェントが、提灯を持った少女の絵を描いていて、コロヴィンにもそういう絵があるので、そのせいかな。私には何かの印象と共通する印象を結びつけて、自分本位にカテゴライズしてしまう癖がある。
 コロヴィン自身は、何らかの特定画派に括られることに抵抗したらしいが、彼の絵を観れば、素直に印象派を想起する。多分。

 コロヴィンは舞台装飾をしていた。なので彼の絵は、観者への効果を狙って描かれているのだと思う。主題は多様なのだが、そのいずれもに、表現力に富んだ豊かで伸びやかな色彩で、ロマンチックでデコラティブな趣が与えられている。

 モスクワの、独力立身の祖父が叩き上げた商家の生まれ。が、芸術にしか関心がない父は家業を継ぐも、祖父の死後まもなく破産。
 でもまあ、こんな父親のほうがコロヴィンにとってはよかった。彼は子供の頃から絵のレッスンを受け、美術学校へと進んでいる。弟セルゲイも、後に生まれる息子アレクセイも画家なので、そういう血筋なのだろう。ちなみに親戚には、イラリオン・プリャニシニコフ(Illarion Pryanishnikov)という同時代の巨匠までいる。

 学生時代は、サヴラソフやペロフら、公正で親切な教授たちに学び、同僚であるセロフやレヴィタンらと交流したというから、画力以上のものを会得した。が、新教授ワシーリイ・ポレーノフの影響力はさらに大だった。
 ポレーノフは、戸外制作という西洋(と言うかフランス)の外光派スタイルをロシアで最初に実践した移動派の画家。しかも芸術への愛情と造詣が深い、紛いなき知的インテリゲンチャ。

 彼はコロヴィンに、鉄道王マモントフの後援するアブラムツェヴォ派を紹介する。彼らはロシア伝統芸術の復興に努め、ロシアで初めてオペラを上演したりもした、ナショナリズム(=民族派)のグループ。
 コロヴィンがハマッたのは、この舞台美術という分野。すでにパリ旅行の際、印象派から衝撃を受けていたコロヴィンは、舞台に初めて印象派スタイルを取り入れたという。

 パリを旅すれば、オオッ! 南欧を旅すれば、オオッ! ロシア国内をコーカサスのほうまで旅すれば、オオッ! 北欧を旅すれば、オオッ! ……と、あれやこれやに感銘しまくって、その情景に憑かれたコロヴィン。移動派に参加、芸術世界派に参加、第一次大戦には軍司令部のカムフラージュ顧問として前線にも参加して、あれやこれやをこなしたコロヴィン。
 気の多かった彼だけれども、舞台美術への関心は一貫していて、アブラムツェヴォでもパリでも、十月革命以降はサンクトペテルブルクでも、生涯劇場を活動の場とし、演技の情感・情調を伝える装飾を手がけ続けた。

 後年は、心臓療養のためというが、パリに移り、二度とロシアには戻らなかった。
 一緒に連れて行った画家の息子、彼は幼少時の事故で両脚を切断した身障者なのだが、その彼が自殺してしまったり、個展を開いたものの作品がほとんど盗まれて一文無しとなったり、と、パリでの余生では結構悲惨だったらしい。

 画像は、コロヴィン「紙提灯」。
  コンスタンティン・コロヴィン(Konstantin Korovin, 1861-1939, Russian)
 他、左から、
  「ペレスラヴリの通り」
  「冬」
  「パリ、カフェ・ド・ラペ」
  「バルコニーの前」
  「バラとスミレ」
       
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