バイエルンの都

 
 ダッハウに来る際、「ミュンヘンには寄らない」と私に言い渡した相棒。が、朝、チェックアウトの際、次の宿にミュンヘンを予約している。
「やっぱり人類の遺産として、ミュンヘン大聖堂くらい見ておかなくちゃならないと思ってねえ」

 で、ミュンヘン(München)に到着してから私は、熱心に相棒を説き伏せにかかった。……朝早くに旧市街に行ってさ、見物はそこそこにしてさ、空いた時間にノイエ・ピナコテークかレンバッハ・ギャラリーに寄るってのはどうかなあ。
 すると相棒、呆れたように私を眺めて言ったことには……
「何を馬鹿言ってんの、ミュンヘン大聖堂なんて聞いたことないよ! ノイエ・ピナコテークのことに決まってるでしょ。チマルさんがあんまり行きたそうに言うから、寄ったんだよ」
 そうならそうと、分かりやすく言っておいてくれればいいものを……

 ミュンヘンはさすが大都会。ユースホステルは都会に遊びに(?)来たハイスクールのティーンたちでいっぱい。
 私たちの部屋は最上階。息を切らせながら長い階段を延々と昇っていると、ノートパソコンを脇に抱えたハイスクールの女の子が、同じくハァハァと呼吸しながら、「ハロー!」と元気に声をかけて私たちを追い抜き、階段を昇りきったところで、扉を開けて待っている。
「やっと着きましたね、どうぞ!」

 なんてハンブルな女の子。しかも私好みのナチュラルな美人。ダークブロンドがキレイ、シンプルなティーシャツにジーンズがカッコイイ~!

 さて、部屋のドアを開けようと鍵を刺すが、上手く開かない。あれこれとやってみるけれど、開きそうにない。壊れてるのかな。それともドイツ人には常識のコツのようなものがあるのかな。それにしては今までどのドアもすんなり開いてくれたよね。受付まで訊きに行く? またあの階段を降りて昇ってか? 云々。
 10分ほど悪戦苦闘して、やっぱりドアを開けられず、途方に暮れた東洋人二人。勇気を奮って、ちょうど廊下へ出てきたドイツっ子に、ヘルプを求めて声をかける。  

 To be continued...
 
 画像は、ミュンヘン、ユースホステル。

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ダッハウの老人(続々々々々々々々々々々)

 
 帰途、旧市街を見物する時間はもうないので、教会周辺をちょっと廻ってから、ダッハウ城壁にタッチして、城沿いの坂道を駅へと急ぐ。旧市庁舎辺りには観光客用に民族衣装を着た市の職員らしい一団もいるのに、残念無念。

 相棒、私にはさっさと歩けと言うのに、自分は片足を引きずるようにして、のろのろと歩いている。とうとう立ち止まり、靴を脱いで、しげしげと覗き込む。
 相棒によれば、靴のインソール(中敷きの底)の部分が一箇所、破れていたのを放っておいたところ、歩くうちにめくれて、クルクルと丸まってしまい、足裏に、靴擦れを予感させる当たり方をするのだという。相棒、懸命に、破れた部分を引っ張って延ばすのだが、指を離すとすぐにクルンと巻かれてしまう。仕方なく靴と足裏とのあいだにハンカチを当ててみるが、どうもしっくりいかない。

 東洋人の二人連れが立ち止まり、脱いだ片靴を囲んであーだこーだとやっている、そのやり取りを、プククと笑って通り過ぎていった一人のドイツ人。やにわに戻ってきて、「これでも貼れば?」とバンドエイドを渡して、笑いながら去っていった。
 別に怪我してたわけじゃないんだけどね。だがドイツ人の好意を無駄にはできん! と、相棒、インソールのめくれた部分を再びピンと伸ばして、そこへバンドエイドをペタリ。「俄然、歩きやすくなったよ!」

 とっとと駅まで歩き、ちょうど到着した列車に飛び乗ったまではよいが、車窓はどんどん田舎の風景に変わっていく。どうやら乗り間違えたらしい。
 幾つかの駅を過ぎた後、ようやくそれに気づいて飛び降り、正しい列車を待つことウン十分。……ダッハウはなかなか私たちを放してくれない。
 
 To be continued...

 画像は、ダッハウ、旧市街の聖ヤコブ教会。

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ダッハウの老人(続々々々々々々々々々)

 
 さて、強制収容所跡をようやく後にして向かった先は、絵画ギャラリー・ダッハウ。

 ナチスの強制収容所で有名になってしまったダッハウだけれど、もともとここは、苔の生育する沼と森のある独特の湿原風景に惹かれて芸術家たちが集まってきたという芸術家村(“バイエルンの小バルビゾン”とかなんとか?)。特に19世紀半ば、ヨハン・ゲオルク・フォン・ディリス(Johann Georg von Dillis)やクリスティアン・モルゲンシュテルン(Christian Morgenstern)らが戸外での風景画制作に励むようになり、“ダッハウ派”と呼ばれた。
 第一次大戦前まではさらに芸術家が集まり、ルートヴィヒ・ディル(Ludwig Dill)、アドルフ・ヘルツェル(Adolf Hölzel)、アルトゥール・ラングハマー(Arthur Langhammer)らが“新ダッハウ派”として知られているという。

 絵画ギャラリーは旧市街にある。旧市街は川を渡った山の手にあって、ダッハウ城に沿った坂道をてくてくと上る。
 すでにへとへとだった私たち、とうとう途中のベンチで休憩。東洋人の二人連れがヨーグルトを食っているのを、ローティーンの男の子が物珍しげに、そして自分のその態度をこちらに見透かされていると気づいてからは気恥ずかしげに、眺めながら通り過ぎる。

 旧市街をゆっくり見物する間もなく、絵画ギャラリーへ直行。閉館時間の1時間ちょっと前。妥協せずに強制収容所を細部まで見学してたら、こんな時間になっちゃった。
 ダッハウのミュージアムは3つあって、そのうち私たちはこのギャラリーしか観る気はないので、料金が割引にならないか、と一応交渉する相棒(結果は当然、そういうわけにはいかないとのこと)。

 1時間しかないのに、ダッハウ派の風景画の他に、ドイツではお馴染みのリーバーマンやコリント、シュピッツヴェークまである。おまけに、ドイツではかなり有名らしいのに、ドイツ以外ではあまり知られていない、私のお気に入り、フリッツ・フォン・ウーデの絵が多数。う、う、さすがヨーロッパの地元の美術館は質が高い。
 時間がなくて焦ったけれど、こじんまりした美術館だったので、集中してなんとか満足に鑑賞。合格の美術館。

 To be continued...

 画像は、ダッハウ、絵画ギャラリー。

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ダッハウの老人(続々々々々々々々々)

 
 ポプラ並木の収容所通りをとぽとぽ歩いて、礼拝堂へ。諸種の信仰のための4つの礼拝堂(カトリック、プロテスタント、ユダヤ教、ロシア正教)と、他にカルメル会修道院とがある。信徒ではない東洋人だけれど、それら一つ一つに立ち寄ってお祈りする。
 ロシア正教だけは、かつて高圧電流が通っていた有刺鉄線の張り巡らされた壕を渡ったところにあって、緑の芝生と白樺の木々に囲まれた、その木製の小さな佇まいが、いかにも牧歌的。私、あの玉葱屋根のロシア正教会って、初めて見た。

 そこから少し行くと、レンガ造りの焼却棟。シャワー室を偽装したガス室(ダッハウでは実際には稼動しなかったという)と、遺体を火葬するための焼却炉がある。ガス室に入って、私でも手の届きそうな低い天井のシャワー口を、まじまじと見る。

 この焼却棟のそばに髪のない、痩せ細った人間の像があって、
  Den Toten zur Ehr
  Den Lebenden zur Mahnung
 (死者には敬意を、生者には警告を)
 と刻まれている。

 生者への警告。
 歴史の事実を後世に伝えるというのは、それ自体意味のあることだ。が、そうした営為がより力を持つのは、この事実が過去の問題ではなく、現在の問題としてあるときだ。

 民族や宗教、国家など、ある集団を一まとめに括って否定しようとする思想や運動は、ナチスによるホロコースト以前にも、また以後にもあったし、現在でもある。ソ連でのスターリンによる粛清、旧日本軍による中国・朝鮮民族の虐殺、カンボジアでのポル・ポト派による虐殺、トルコによるアルメニア人虐殺、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争、ルワンダ紛争、ダルフール紛争、中国でのウイグル・チベット等の弾圧、イスラエルによるパレスチナ人虐殺、等々……
 ホロコーストを特別な、単なる完結した史実として扱うのと、さらに敷衍してそこから普遍的な課題と解決の方途とを見出すのとでは、過去の多くの諸問題や、現在ある諸問題に対する向き合い方が、まったく異なってくると思う。同じ祈るにしても、前者の場合は自分の心の平安のために、後者は全人類の切実な使命のために、祈ることに行き着く。

 過去に学ぶ一番の力が、真実から眼を背けないという姿勢なのだとすれば、この力は人に、こうした弾圧・迫害の罪過が、人類一般の業のようなものによるのではなく、人間を個人ではなく集団で図るイデオロギーと、それを掲げる権力とによるのだと、教えるだろう。
 このことは、人類の罪過が宿命論的に定められたものなどでなく、それに加担しない方途を人は選択し得るのだということ、その故に、加担する者の罪はますます重くなることを、示すだろう。

 To be continued...

 画像は、ダッハウ、強制収容所内、焼却炉。

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ダッハウの老人(続々々々々々々々)

 
 資料館ではナチス台頭から戦況の悪化、敗戦を経た、米軍による解放までの強制収容所の歴史、その実態を伝える資料が、あまねく展示されている。処刑、拷問、自殺、病気、飢餓などによる所内での犠牲者は3万人以上というが、ドイツ国内には絶滅収容所がなく、殺される被収容者らは国外収容所に移送されるわけだから、犠牲者数がその収容所の悲惨さをストレートに表わしているわけではない。
 ドキュメンタリー映画の上映があったので、それを観る。銃殺に利用された中庭に出て、復元された2棟のバラックへ。

「どうだった?」と相棒が尋ねる。で、私は大江光のように答える。
「すべて駄目でした」
 すると相棒も、大江健三郎のように言う。
「でも忘れないよね。見たことを忘れることはできないもんね。忘れないってことは、大事なことなんだよ」

 私は一人で、俯き加減にトポトポと歩いていた。物思いに沈んでいたというよりも、美術館でのように、集中した後にただただぼんやりする、そんなふうにぼんやりしていた。
 ふと、「ハロー!」という明るい声が聞こえたので、顔を上げると、友人らと連れ立ったハンサムなハイティーンが、颯爽と歩き過ぎながら、にっこりと笑って私に手を振っている。

 なぜ彼は、あんなに明るいんだろう。……このとき、風が通り過ぎるような奇妙な感覚が身体をよぎった。

 戦後ドイツ国家は、過去の戦争犯罪を直視し、被害者補償と同時に若い世代への教育に非常な資力・労力をかけて取り組んできた。アジア侵略をまるでなかったことのように扱う日本国家とは雲泥の違い。
 私に声をかけたハイティーンは、ダッハウの老人がナチスに逮捕されたのと同じ年頃だ。世代が違う。立場も違う。生きた過去のありよう、生きるべき未来のありようも違っている。だが二人とも、負の遺産の継承者だ。

 そして私はふと、淡々さの意味を思ったのだ。
 もし歴史の生き証人であるダッハウの老人が、泣きながら、あるいは怒りながら、感情だけを吐露して自身の体験を語ったならどうだろう。もし実体験のないハイティーンが、そうした感情だけを継承したらどうだろう。それはもう、人類の遺産とは言えないだろう。

 客観的な史実だけをただただ伝えるような、資料の展示。それらをドライに学ぶ子供たち。彼らだって怖れもしようし、悲しみも、憤りもするだろう。だがそれは、事実に付与されるものではない。事実に対峙する一人々々の内から生ずるものだ。
 怖ろしい、悲しい、憤ろしい歴史の事実を前に、私の怖れや悲しみや憤りもまた、水のように湛えられ、音もなく澄んで静まっていく。そしてもっと内奥に潜む力の淵なかへと注ぎ込んでいく。

 To be continued...

 画像は、ダッハウ、強制収容所内、ロシア正教会礼拝堂。

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