ダッハウの老人(続々々々々々々)

 
 追悼記念資料館に入っていちいち展示を見て歩く。館内は相当な混雑で、そのほとんどは子供たち。ごく普通の勉学の場のように資料を読み、パチパチと写真を撮っている。

 ダッハウ収容所はナチス政権最初の収容所で、後の他のナチス強制収容所のモデルとされたという。当初は共産主義者やレジスタンスなど、反ナチスの政治活動家を隔離収容するために開設。が、次第に、ナチスが反社会分子と規定した、ユダヤ人、聖職者、ロマ(ジプシー)、外国人、ソ連軍捕虜、浮浪者、同性愛者、知識人・文化人、障害者などなども収容されるようになる。
 ダッハウ収容所開設の前後を時系列的に並べてみると……

 1933年1月30日、ヒトラー内閣成立。
 同2月27日、国会議事堂放火事件。 
 同3月21日、ダッハウ収容所開設。
 同3月23日、全権委任法成立。
 同4月1日、ユダヤ人に対する組織的ボイコット開始。
 同5月10日、全国規模での焚書。
 同7月14日、一党独裁体制確立。

 ……政権の掌握後、独裁体制が敷かれるのは、もうあっと言う間。

 ドイツ民族を堕落させると見做された、共産主義的な、あるいはユダヤ的な、あるいは非ドイツ的な書物が、大々的に燃やされた。マルクス、ハイネ、シュテファン・ツヴァイク、フロイト、ハインリヒ・マン、ケストナー、ブレヒト、レマルク、アインシュタインなどなど。
 このナチスによる焚書を語る際、ほぼ一世紀前のハイネの次の一節は、よく引き合いに出される。

「それは序章にすぎなかった。本が焼かれるところでは、人もまたやがて焼かれることだろう。」
("Das war ein Vorspiel nur; dort wo man Bücher verbrennt, verbrennt man auch am Ende Menschen.")

 思想や表現の自由、総じて内心の自由の否定は、それ自体が人間の否定であり、畢竟、人間の虐殺へと行き着いてもおかしくないわけだ。

 To be continued...

 画像は、ダッハウ、強制収容所内、バラックの囚人用ベッド。

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