僕が僕であるために

 
 中学生の頃、尾崎豊が好きだった。私は尾崎豊の最後の世代だった。校内暴力の吹き荒れる80年代、尾崎の訴えるやり場のない怒りというものが、私にもよく分かった。
 が、喧嘩、ナンパ、煙草などなど、大人の論理に大人の論理をもってして反抗する尾崎が、結局は大人の世界に丸め込まれ、それを容認していることも、やっぱり分かっていた。

 尾崎の歌に、「僕が僕であるために(My Song)」というのがある。
  
  僕が僕であるために、勝ち続けなきゃならない
  正しいものが何なのか、それがこの胸に分かるまで
 
 ……尾崎には、「僕」が何なのか分からなかったのだ。なのに、「僕」であろうとしたのだ。だから私は、いつも尾崎が可哀想だった。この人は、永遠に答えを見つけることのできない人なのだ、と思って。

 高校生のとき、亡き友人にこう怒られた。
「問題なのは! 君が僕を裏切ることじゃなくて、君が君自身を裏切ることなんだ。誰かのために自分を犠牲にするのは、自分のために誰かを犠牲にするのとおんなじことだ」
 結局私は、自分の出した結論を尊重してもらったけれど、結果的には、そのせいで悔いが残ってしまった。

 To be continued...
 
 画像は、ルノワール「ギターを弾く少女」。
  ピエール=オーギュスト・ルノワール(Pierre-Auguste Renoir, 1841-1919, French)

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