気まぐれ徒然かすみ草

近藤かすみ 

京都に生きて 短歌と遊ぶ

箸先にひとつぶひとつぶ摘みたる煮豆それぞれ照る光もつ

今日の朝日歌壇

2011-12-11 22:59:38 | 朝日歌壇
店先に見つけし零余子(むかご)炊き込めば俳句のような味がするなり
(新座市 中村偕子)

晩秋の雨中に湯気を燻らせて角落されし鹿の草食む
(舞鶴市 吉富憲治)

足音で帰りがわかると母は言う匂いで夕食あてる私に
(東海市 成田真帆)

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一首目。零余子というものがあることを聞いたことはあるが、実際に食べたことはない。調べると「山芋の葉の付け根にできる小指の頭ほどの球芽です。小さな粒の一つ一つに山芋の香りとコクが凝縮されています。 噛んで外側の皮をプスッと破ると中のトロッとして、かつ上品な中身が出てきます。くどくはないがコクはあるのです。」とある。俳句のような味と聞くと興味がわく。食べたくなってしまう。私のイメージでは、俳句のような味は、柿か餡パン。坪内稔典先生の影響であるけれど・・・。「俳句のような味」とけむに巻くようなことを言って、読者を納得させる力技である。
二首目。鹿の角切りの様子だろう。これも実際に見たことはないが、興奮する鹿の熱い体温と晩秋の寒さ、雨の湿気で湯気が立つことは想像できる。歌として気になるのは、「鹿の草食む」の「の」。所有の「の」でなく主格の「の」で、いかにも短歌的な感じがする。私なら「鹿は草食む」とあっさり行きたいところだ。
三首目。母と子の幸せな夕方の風景。いかにもありそうな幸福な家族の風景だ。これに共感する人は多いだろう。俵万智の歌、「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ・・・を思い出す。私の知り合いは、この歌を「大嫌いだ」と言う。短歌に嵌る人は、こういうあたたかさの外に居る場合が多いが、一般受けはするだろう。


青嵐  三宅はる

2011-12-11 00:17:57 | つれづれ
ふるさとの町医の大門「ぎいいつ」と深夜閉せしが今も夢に出づ

高校用大字(おおじ)英和の辞書買へり、歌詞をいくつも引いて楽しむ

乱視また進みし頃か、きらきらと月が三つ四つ連ね華やぐ

取組一分(いつぷん)力士が背(そびら)桜色に見る見る染まりくる美しさ

新劇の独白(モノロオグ)めきながながと貨物列車が夜の底を縫ふ

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家族写真もう誰も居ず青嵐

青梅雨や千尋(ちひろ)の底の日暮時

夢みるや蹌踉(そうろう)として冬の蠅

獣めくバイクの屍(かばね)大枯野

青嵐(せいらん)に紛れゆきたし跡もなく

(三宅はる 青嵐 創英社)

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三宅はるさんは、九十七歳。「鱧と水仙」を購読なさっているご縁で、第三歌・句集を送っていただいた。いまは熱海湯河原の施設に入っておられ、鱧と水仙の古くからの大変熱心な読者だと聞く。大正三年生まれで長い間教職に就いておられ、七十歳台になってから短歌と俳句をはじめられた。
だんだん目や足が悪くなっておられるようだが、辞書で英語の歌詞を引いて楽しむ歌など、若さの秘訣を見る気がする。長生きをするということは、家族とつぎつぎ分かれるという現実に遭うことだ。そのなかで短歌、俳句を支えに生きてこられた。表現は若々しく、学ぶところは多い。ますますのご長寿をご健詠をお祈りしたい。