5日、夕張に行く途中で栗山町にある「坂本九思い出記念館」に寄りました。ここも随分来ていなくて今回2度目。
展示室、その上の塔も9角形で…
ショーケースも9角形なのだそうです。
九ちゃんが歌った「上を向いて歩こう」の誕生秘話というか、永六輔が激怒したという九ちゃんの歌い方の理由とか、海外で発売される時にはなぜ「スキヤキ」というタイトルになったかなど、新聞記事や関係者のお話しが紹介されていたり、北海道で放送していた「サンデー九」の全タイトルも掲示されてあります。
『坂本九さんは、STVテレビの「ふれあい広場サンデー九」に出演し、各地の福祉施設で様々なハンディに負けずに頑張っている仲間達を紹介し励まし続ける一方、チャリティーコンサートを開くなど本道の福祉の問題に永年関わり、その啓発に大きな足跡を残しました。』(リーフレットより)
なぜ九ちゃんが栗山に縁があったかというと、知的障がい者通所授産施設「栗山ハロー学園」(前身ノビロ青年の家)のロックバンド「ハローブラザース」が福祉関係のコンサートなどに主演したことなどから交流が続き、地元栗山町大井分の人々と交流を深めていたそうです。
日航機墜落事故は1985年8月12日に発生した。お盆で実家に帰っていた時にこのニュースを見て衝撃を受けた覚えがあるが、それから33年。事故当時九ちゃんは43歳だったそうで、事故がなければ今頃は77歳になっていました。
おおば比呂司さんの描いた九ちゃん? なんだろう、映画とかの登場人物? あんまり似ていないし。
福祉にとても熱心に活動されていた九ちゃん。
坂本九の足跡という展示のパネルには1965年(昭和40年)、『不幸な子供たちのため「あゆみの箱」を持って回る。これが坂本九の不幸な子供たちとの出会いの始まり』と書かれてあって、不幸な子供という表記にはドッキリしたが、そんな昔から活動をしていたのかと知りました。
テレビでもそのような活動を続けてこられましたが、九ちゃんの後に続く人はいたのでしょうか。24時間テレビ「愛は地球を救う」の放送開始は1978年、九ちゃんが亡くなる7年前から始まっていて、記念館にも24時間テレビのTシャツが販売されていました。
24時間テレビは今でも続いているけれど、毎回ジャニーズ事務所のタレントが出ることが恒例になって、その年話題のタレントの24時間マラソンがお約束になり、福祉という目的がどこかへ行ってしまったかのよう。
24時間テレビに関してはタレントの出演にギャラが発生していて、そのギャラを募金に回せば良いのにという議論があったりします。
また、九ちゃんの死により手話が市民権を得るのが5年は遅れたと言われているそうです。
彼が生きていたら色んな事が変わっていたのかもしれません。
私は 小学生で
九ちゃんの歌が大好きで
九ちゃんの妹になりたいなあ~と
思っていました。(笑)
妹という所がいいなあ、お嫁さんじゃなかったのですね(笑)
私が小学生の頃はもう九ちゃんのヒットからは大分経っていたと思うのですが、遊びすぎて遅くなり、怒られるんじゃないかと家に帰るのが怖かった時に「上を向いて歩こう」が自然と頭の中に流れた事を思い出します(^^