プランクトンが多量発生すると水は濁る。
栄養過多は、何事にもよくないが、それが川を伝い海に流れ込むと、沿岸部には大量のプランクトンを求めて小魚が集まり、それを求めて・・と連鎖的に豊穣の海になる。
漁獲高はこの食物連鎖の按配において、地球上を移動する。
海の綺麗なところ、透明度の高いところは、魚にとっては食物連鎖が起こりづらいために、住みづらいところでもあるのだ。
しかし魚とて、赤潮を引き起こすほどの栄養過多の世界は、とてもすめる環境ではない。
ましてや大腸菌や、チッソや、水銀などが流れ込まれたら豊穣の沿岸部は、地獄となる。
なして、このようなことを書くかというと、黄緑の池の写真を撮ったから。
必然なんらかのコメントを入れようとする。
関連性も脈絡も無いけれど、よぎったものを書いている。
人工池であろうが、自然の海であろうが、その存在同士が、ある種の命脈を以って地球上に存在する。
全てがつながっている以上、何一つ、全く、あらゆるものにとって、関係が一切無い。ということは素子学的にもありえない。
一説によると、至る所に姿を変えて存在するこの地球上の物質は時を越えて循環していると言う。
つまり、2000年以上も前のクレオパトラ7世の吐いた息の成分を、私が今吸ったかも知れないのだ。
つまり時を越えて、世紀の美女と私との、間接キッスが成ったのだ。
私は幸せか?
てなことを思ったのは、黄緑の池のせい。
なんしか。繋がっているのである。全ての環境は。
人の世も、噂や評判や、過去の行動を記憶され、勝手にその未来像にコミットされると言う点では同じ様に連続した存在だ。
ないがしろにしてはなりますまいぞ。
人も池も。
少しぐらいの浄化プロセスでは追いつかなくなる。
元を断つ意外に無くなるのでございます。