まわりで起こっていること

since2004.12「糠漬け初心者」

上田の「古城の門」を観に行ってきた。

2020年03月07日 | Weblog

こちらは、当方ではなく、個人ミーティングの相方。

上田出身の御仁。

旧上田藩主のお屋敷の名残らしく、ネットで観てみたけれど、なかなか、風情がある。

そこは、現在は上田高校となっているようで、弓道部の六文銭のロゴが人気だ、とか。

なんて学校へ、東京から疎開した永六輔が通っていたみたいで。

そんな話から、彼、永六輔ね、東京では、ひ弱な、病弱な、乳母にかしずかれ、なんて暮らしだったらしく。

というような話を、彼がどこかで語っていたか、書いていたか、そんな記憶をシェアもし。

ところが、長野県、信州の田舎へ行ったら、途端に、元気になった、なんてのね。

ことほどさように、環境が人格形成、というのか、人間形成、というのか。

大きな影響を及ぼし、という話ではあるんだけど。

そんな記憶が、改めて、日の元に現れ出し、というのも、目の前の御仁からの。

ふるさと、上田へ奥様とともに行ってきた、という話からだ。

点と点が結ばれ、なにごとかのカタチになり、というわけだ。

これ、おもしろいな、と思った次第で、こうして、ブログ化しているんだよね。

もちろん、これはいい話、って部類に属するんだろうけど、しかし、仮に、切ない、哀しい話であっても。

そこには、ある、なんとも言えない、その刹那を生きた、という愛おしさもないわけじゃない。

というのも、いつもご紹介する、OSHO、ね。

彼が、至福には、あるいは、幸福には、深みがない。

しかし、悲しみには深みがある、と言っていて、そうか、とちょっと、沈思黙考をしたんだけど。

たしかに、幸せ、幸せ、なんて年中言っている姿には、深みがないとも言えるね。

かたや、悲しみは、独り沈みこみ、おのれの内側に入り込むしか手がなく、ある意味、瞑想、だからね。

ただ、その悲しみに同化せず、味わうことだけをする、というのが、彼、ご推奨の佇まいでもあり。

とは言え、至福も悲しみも、両方を愛でることが、人生、生、だよ、とも。

至福には深みはないけど広がりがあり、悲しみには広がりはないけど深みがある、なんてことを。

とうとうと述べていた。

仏像を見てみればわかる、とね。

と、ここまで書いてきて、手に負えなくなったので、やめときます。

どちらにしても、生そのものである、ということで、どうせ生きるなら、その双方を。

味わい、楽しみ、つまり、生は祝祭だ、祝だ、とね。

祝う、祝祭、という態度表明があり、そのあとに、その外側に、悲しみだとか喜びだとかがある、ってわけだ。

ここ、テストに出るところなんだけどな、きっと。

そうだ、今朝のブログがこんな展開になったのも、忘れていたけど、その上田で。

永六輔が作詞したのが、「上を向いて歩こう」だったそうで。

まさに、態度表明、だよね。

いいから、とにかく、悲しみでも喜びでもどちらでもいいから、上を向いて歩こうよ、ってわけだ。

なんか、うまくまとまったみたいなので、このあたりで。

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 豆乳ドーナツが完売した。 | トップ | 今日はランニングは中止か »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事