こちらは、当方ではなく、個人ミーティングの相方。
上田出身の御仁。
旧上田藩主のお屋敷の名残らしく、ネットで観てみたけれど、なかなか、風情がある。
そこは、現在は上田高校となっているようで、弓道部の六文銭のロゴが人気だ、とか。
なんて学校へ、東京から疎開した永六輔が通っていたみたいで。
そんな話から、彼、永六輔ね、東京では、ひ弱な、病弱な、乳母にかしずかれ、なんて暮らしだったらしく。
というような話を、彼がどこかで語っていたか、書いていたか、そんな記憶をシェアもし。
ところが、長野県、信州の田舎へ行ったら、途端に、元気になった、なんてのね。
ことほどさように、環境が人格形成、というのか、人間形成、というのか。
大きな影響を及ぼし、という話ではあるんだけど。
そんな記憶が、改めて、日の元に現れ出し、というのも、目の前の御仁からの。
ふるさと、上田へ奥様とともに行ってきた、という話からだ。
点と点が結ばれ、なにごとかのカタチになり、というわけだ。
これ、おもしろいな、と思った次第で、こうして、ブログ化しているんだよね。
もちろん、これはいい話、って部類に属するんだろうけど、しかし、仮に、切ない、哀しい話であっても。
そこには、ある、なんとも言えない、その刹那を生きた、という愛おしさもないわけじゃない。
というのも、いつもご紹介する、OSHO、ね。
彼が、至福には、あるいは、幸福には、深みがない。
しかし、悲しみには深みがある、と言っていて、そうか、とちょっと、沈思黙考をしたんだけど。
たしかに、幸せ、幸せ、なんて年中言っている姿には、深みがないとも言えるね。
かたや、悲しみは、独り沈みこみ、おのれの内側に入り込むしか手がなく、ある意味、瞑想、だからね。
ただ、その悲しみに同化せず、味わうことだけをする、というのが、彼、ご推奨の佇まいでもあり。
とは言え、至福も悲しみも、両方を愛でることが、人生、生、だよ、とも。
至福には深みはないけど広がりがあり、悲しみには広がりはないけど深みがある、なんてことを。
とうとうと述べていた。
仏像を見てみればわかる、とね。
と、ここまで書いてきて、手に負えなくなったので、やめときます。
どちらにしても、生そのものである、ということで、どうせ生きるなら、その双方を。
味わい、楽しみ、つまり、生は祝祭だ、祝だ、とね。
祝う、祝祭、という態度表明があり、そのあとに、その外側に、悲しみだとか喜びだとかがある、ってわけだ。
ここ、テストに出るところなんだけどな、きっと。
そうだ、今朝のブログがこんな展開になったのも、忘れていたけど、その上田で。
永六輔が作詞したのが、「上を向いて歩こう」だったそうで。
まさに、態度表明、だよね。
いいから、とにかく、悲しみでも喜びでもどちらでもいいから、上を向いて歩こうよ、ってわけだ。
なんか、うまくまとまったみたいなので、このあたりで。
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